ブリキの心臓 | ナノ

2


 確かにジャバウォックは怪物だ。とにかく大きく、頭はまるで魚のようで、鋭い牙を持っている。首は細長く、体は硬い真っ黒な鱗で覆われており、直立歩行する恐竜のように腕と脚を二本ずつ。手足にそれぞれ鋭い鉤爪を持ち、薙ぎ払うのに長けた長い尾やコウモリのような翼を持つ。爛々たる眼は冴え冴えとしていて――人殺しきその姿はそれだけで心臓を止めるほどに悍ましい。誰もがその姿を恐れるし近づきたいとだって思わない。ましてやその背中に乗って空を飛びたいなど、妄言の塊のようなことだった。
 しかしアイジーは本気なのだ。本気でそう思っているし、打ち解けようと彼に遠慮をしているわけでもない。ずっと思っていたことを、ふと口に出しただけに過ぎなかった。
「でもアイジー、忘れてるみたいだけど、君、昔僕の元の姿を見て息も出来なかったじゃないか」
「い、言いすぎよ、流石にそれはないわ」
「にしてもさ。君が僕の元の姿を見て心臓を止めないとも限らない。あまり賢い発想とは言えないな」
 嘲笑うジャバウォックにアイジーは息を吸い上げて「わかったわよ」と硬く言った。諦めたのかと思いきやそのようでもない。アイジーは胸に手を当てて二、三回深呼吸したあと「慣れるために特訓しましょう!」と言い出した。流石のジャバウォックも首を傾げてしまう。
「だから特訓するのよ」
「なんの」
「貴方の元の姿を見ても私が怖くならないように」
 ジャバウォックは“正気か”と眉を歪めたがそれを即座に汲み取ったアイジーは「正気よ」と言い捨てた。
「訓練しているあいだに死んでしまうぞ」
「死なないわよ。私を殺すのは《名前のない英雄》なんだもの」
 アイジーにとって都合のよいキィワードを手に入れてしまったらしいとジャバウォックは呆れた。今のアイジーは驕っている。その名前のない人間以外は自分を殺さないだろうと、そんなふうに自分はなんでも出来るという自信に溺れてしまっている。元来めっぽう気の強く傲慢なアイジーのことだ。こうなったらもう誰にも止められない。そんな手のつけ辛さから、幼少の頃のアイジーはイズやエイーゼの手を痛いほどに焼いていたのを、ジャバウォックは目に見て知っている。
「ほら、大丈夫よ、ばっとやってばっとやるのよ」
「本当にやる気なの?」
「そう言ってるじゃない」アイジーはふわりと笑って見せた。「お願い」
 その笑顔にジャバウォックは厭そうに目を細めた。悍ましいまでの端整な顔立ちは一瞬で歪んだ。暗闇よりも暗い美しい黒髪が瞼の上を掠めて疚しい影を作る。
 どうやらジャバウォックの答えは決まっているらしい。ただ低く「どうなっても知らないから」と呟くだけだった。

 暗転。

 黒が視界を埋め尽くす。昏迷的な闇が訪れて、ひんやりとした空気が渦を巻いて鎮まった。息を飲み干す。反射的につぶった眼はまだ鎖したままだ。アイジーは大きな吐息を聞いて、感じて、その瞼を上げる勇気を地べたに落としかけた。このまま目を見開けば、きっとそこには地獄のような凄惨なものが広がっているに違いなかった。
 けれどいつまでもこうしているわけにはいかない。ねだったのは自分なのだ。彼に無理を言ったのは自分で、このまま足踏みをしていれば彼が傷つくことになる。今にも元の姿に戻って自分を慰めてくれるであろう真っ黒な青年を思い浮かべて、アイジーは唇を噛み締める。
 精一杯の勇気を振り絞った。アイジーはゆっくりと、震えるような速度で、黄昏色に煌めく淡い瞼を綻ばせる。
「……っあ」
 その勇気を果てしなく後悔した。広がっていたのは地獄よりも壮絶な生き物だった。黒真珠のような鱗も、鋭い爪も、ぎょろりとした大きな金眼も、自分の何倍もする巨体も、全てが恐怖の対象でしかなかった。アイジーはその場に膠着して、それから呼吸という概念をなくしてしまう。思わず喉を押さえてしまった。キュッと掠れるような音が鳴った。
 ジャバウォックはゆったりとその前足をアイジーのほうへ伸ばしたが、それが更にアイジーの恐怖心を煽ってしまった。大仰に肩をびくつかせてバイオレットグレーの目を濡らす哀れな姿に、ジャバウォックはその手を易々と下ろす。
 次の瞬間には人の姿へと変貌を遂げていた。アイジーの震える唇を撫でて無の表情でその瞳を眺める。
 責めているみたいだと思った。アイジーはぎゅっと拳を握る。ようやっと落ち着いた呼吸を均して閉じこめる。それから慎重な声音で「もう一回よ」と囁くように言った。彼はなにも言わなかった。ただ嫌そうに溜息をついてもう一度視界を真っ黒に塗り潰す。
 今度は――息を手放すことはなかった。先ほどのことで耐性がついたのかもしれない。声を漏らすことなくその眼に化け物の姿を留めることが出来た。けれど相変わらず体は震えて、情けないくらいに手足は冷たかった。心臓の鼓動がうるさいくらいに速い。人殺しきその姿――謳い文句通りのそれはアイジーを容易く死に追いやれるに違いなかった。
 けれど、もう今は、それほど怖くはなかった。《名前のない英雄》の存在、確実に自分を殺すであろう確実な存在が、アイジーをリラックスさせていた。ジャバウォックの姿を見ても死ぬことはないだろうと思えた。なによりも、目の前にいるこの彼が、自分を傷つけるわけがない。
 さきほどよりも落ち着きを見せたアイジーにジャバウォックは鋭い目を細める。それから地を燻るような低い声を――笑ったのかもしれない――あげて、少しだけアイジーに近づいた。
 恐れはしたもののもう息を止めるようなことはなかった。うるさい心臓にも随分と慣れた。この目の前にいる怪物に怯え竦むことは、きっともう、永遠に来ない。
「ジャバウォック」名前を呼んでみた。「いらっしゃい」それから少しだけ手を伸ばして、彼のゴールドの眼を見つめる。金貨を永久に磨き続けて出来上がったようなその美しい煌めきはたちまちアイジーを虜にした。いらっしゃい、とは言ったものの、むしろこちらから歩いていきたくなるようなそんな魅力があった。
 ジャバウォックはのそのそと長い首を伸ばしてアイジーのほうへと近づく。それどころか、蛇のような滑らかな動作で鎖のような尾をアイジーの脛から太腿までに巻きつけた。なるほど、動くなと言っているようだ。なかなか挑発的なことをしてくれる。アイジーは冷や汗を掻きながらも余裕の笑みを崩さなかった。想像すればいい。可愛らしいことを。たとえば、この怪物の胸元に真っ赤な蝶ネクタイがあるとしよう。それからお洒落なベストを羽織っているとしよう。そんなふうに気を紛らわせれば、どんな恐怖の対象も愉快な笑みしか湧いてこない。アイジーの反応に、ジャバウォックは瞬いた。それすらも愛おしくて、アイジーはふっと笑みを深める。
 目と鼻の先までその恐ろしい顔面は近づいてきていた。剣よりも獰猛な牙を覗かせる口元も、血も凍るような眼も、今は何よりも近くにある。そっと、その顔を撫でてみた。硬くて冷たくて、あの真っ黒な青年の人間らしい面影は皆無だった。異形ともいえるシルエットに少しだけ尻込みながら、アイジーはゆっくりと顎の下を擽った。
「ふふふっ」
 アイジーが笑うとジャバウォックも目を閉じた。そしてじゃれつくように鼻のあたりをアイジーのお腹に押しつける。妙にむず痒くて身を捩れば、そのたびにジャバウォックはチロチロと舌で手を舐めた。足を這う尾がずるずると蠢く。締めつけたり緩めたり、玩ぶようなその動きに、アイジーはむっと眉を寄せる。
「ジャバウォック」
 叱りつけるように人差し指を出せば、彼はお腹から顔を離してその目を開いた。一瞬心臓が止まりかけたがそれもやはり一瞬だ。アイジーはもう一度微笑んで、今度は自らその硬い皮膚に頬ずりをする。冷たいけれど不快ではない。むしろ落ち着くような魔力がその鱗にはあった。ジャバウォックの吐息を肌で感じながらアイジーはぎゅっと抱きしめる。上半身全てを委ねないと抱きしめきれないその大きさにアイジーは唇を尖らせたが、きっとこの角度では彼には見えなかったことだろう。つんつんと鼻をひくつかせる巨体をぺちんと叩いて静止させる。そして顔を起こして、その金眼を黙って見据えた。
「ほらね、私、もう自分から、貴方に触れられるようになったのよ」
 ジャバウォックはなにも言わない。ただじっと黙ったまま、アイジーの言葉に耳を傾けている。吐息に応じてシルバーブロンドが揺れるのを魅せられたように目に焼きつけた。
「もう貴方なんて怖くないわ。笑っちゃうでしょう?」
 アイジーがそう言えば、ジャバウォックはふんと嗤うような息を吐いた。脚を這っていた尾がずんずんと上って、脚の付け根や下腹部を攻め跨ぎ、心臓のある位置へと締めつける。そんな脅すようなことをして、なんて天邪鬼なのだろうとアイジーは思った。アイジーは首を傾げるようにして彼に続ける。
「ごめんなさいね、もう私、貴方になにをされたところで怖くないのよ」アイジーは両手で彼の頬のあたりを包みこんだ。そしてこれ以上ない優しい笑顔で淡やかに告げる。
「だから約束してちょうだい、いつかきっと、私を乗せて空を飛んでくれると。バクギガン教授が言ってらしたじゃない。呪いの存在を実体化するための研究をしているって。貴方がちゃんと、それも元の姿の状態で出られるようになったら、二人で空を飛び回りましょう。きっととても素敵だわ。いつになるかはわからないけれど、そんなの大した問題じゃないわ。私が長生きすればいいだけの話よ。呪いって自分自身でもあるから、きっと貴方も私と一緒に成長するの。でも貴方は見たところ私より年上なのよね……精神年齢が関係していたりするのかしら? もしこのまま中身の成長が止まって、そしてそのまま大きくなったのだとしたら、私はいつかきっと貴方よりも年上になるのよ。そして皺くちゃのおばあちゃんになって貴方にからかわれたりするの。私はそれが悔しくて何度も怒るんだけど、貴方はきっと相手にもしないんでしょうね。でも貴方は私に微笑むのよ。皺くちゃのおばあちゃんに優しげに微笑むの。生き延びてくれて、ありがとうって」
 素敵でしょう、とアイジーが囁けば、ジャバウォックは馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに首を捻る。けれどどうしてかそれが照れ隠しのようにも見えて、アイジーは気分を悪くすることなどなかった。甘美で静謐な声を蕩けさせて、もう一度、誓うように言う。
「私の夢は、貴方の背に乗って飛ぶことだわ。いつかそんな日が来たら一緒に飛ぶと、約束してくれないかしら」
 ジャバウォックは目を閉じてアイジーに頬ずりをした。返事は言わなかったけれどきっと、アイジーの嫌がることはしないだろう。





怪物と少女の約束



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