ブリキの心臓 | ナノ

1


 久しぶりの暗闇だった。誇り高き無宇宙論。全てが黒に塗りつぶされたその視界はヘロインに浸けられたかのようにもやもやとしていた。そういえばここは温度も感触もなにもなかった。まるで分厚い繭の中にいるみたいに感覚が遮断されていて、それでもどういわけか自分がどこだかに立っているのがわかる。そんな不思議な空間に足を踏みこんだのは今日が初めてのことではなかった。
「ねえ、いるんでしょう?」
 最初に来たときはなにがなんだかわからなかった、でも今は違う、ここはどういうところで、どういう状況なのか、きっちりと理解している。アイジーは迷いのない足取りで声をあげ続けた。
「どこにいるの? ねえったら」
 歩いている筈なのに前に進んでいる気がしない奇妙な感覚。ふわふわとする花束のような意識を手放さないようにアイジーは努めた。どれくらいか闇の中を彷徨ったとき、ようやっと暗闇から漆黒が浮かびあがる。
 それは一瞬のことだった。激しくも乱暴でもない手つきでアイジーを後ろから抱えこむ。腰と目に行き渡った冷たく温かい手は壊れものでも扱うかのように優しい。抱くと言ってもアイジーの目に映る気はないらしく、そのためかアイジーは目を塞がれたままだった。背後の感触にアイジーは懐かしさを覚えながら今の状況を不審に思った。
「君が僕を呼んだの?」
 舌先で囀り蕩けるようなその声に、アイジーは彼であることを確信する。そのことに安堵して肩の力を抜くと、彼は解せないとでも言いたげな声で囁きかけてきた。
「僕のこと、嫌いなんじゃなかった?」
 彼の言葉にアイジーは顔色を変えた。しかしそれは後ろ向きな色彩ではなく前向きなものだった。
「やっぱり……だからめっきり姿を見かけなかったのね」
 アイジーは自分の目を覆う手をゆっくりと離した。その大きな手にキスを落とせば、彼はさっきよりも少しだけ強く、自分の体を抱きしめる。うなじに擦り寄るように頭を伏せて低く呟いた。
「僕は君の嫌がるようなことは何一つだってしないよ」淡々とした静かな物言いだった。「君が拒むなら、嫌うなら、憎むなら、僕はもう永遠に君の前には姿を現さない」
「現さなくたって存在が消えるわけじゃないでしょうに」
「消えてみせるさ、干渉してこない現象なんて存在しないのと一緒だから」
「それは無理ね、私はここのところずっと、今頃貴方は私を馬鹿にして笑ってるのかしらとか、話してる内容に呆れてるのかしらとか、結構考えたものよ?」
 アイジーがそう言うと彼は黙るしかなかった。アイジーはくすりと苦笑してから彼の腕の中でくるりと向き直る。案の定、世にも美しい顔と、怪物のような形をした金色の目が、久しいジャバウォックの姿が自分の目の前にあった。
「ごめんなさい。嫌いだなんて言ってしまったこと、謝るわ。私は本当にいけない子だった」
「……君が僕を嫌うのは当然のことだ」
「私、貴方のこと、嫌いじゃないわ」
「僕は君を脅かす死の呪いなのに?」
「それは怖いわね、貴方は私に刃物を向けたりするのかしら」アイジーは答えを待たずに続ける。「違うでしょう? 私を殺すのは《名前のない英雄》であって貴方じゃない」
「それでも僕は君に危険なことをするかもしれない。それこそ口にするのも悍ましいことを。ポケットの中に隠してあるナイフを君の心臓に突き立てるかもしれない」
「ありえないわ」アイジーはおかしそうに笑って言った。「だって貴方の着ている服にはポケットなんてないじゃない!」
 どうやらアイジーはいつもよりほんの少しだけ陽気でほんの少しだけ勇気があるようだった。それは久しいこのジャバウォックに会えたからかはわからない。けれど明らかにいつもよりも前向きな物言いをしているアイジーは今ならどんなことだって出来るような、そんな馬鹿馬鹿しくも無邪気な心情に駆られる。
 この纏ってくる闇だってちっとも怖くなかった。まるで景色かなにかの一部のように感じられて、特別な感情を抱かない。最早ただの背景だった。
「――私ね、貴方の言うとおりだったのよ」
 アイジーは、ジャバウォックに嫌いだと言った日のことを思い出していた。あの頃、アイジーは気がまいってしまっていて、陰惨で陰鬱な性根が顕わになってしまっていて、とても小さなことで腹を立てるような心の狭い人間だった。だから彼の何気ない一言にも深く傷ついたし、投げやりに酷い言葉を放ってしまった。彼だって、別にアイジーを傷つけようとした気持ちがあったわけではないだろうに。彼はただありのままのことを言っただけだ。妬んでいると。アイジーがみんなに嫉妬していると。
「私、みんなに嫉妬しているの、死ななくてもいいし災厄でもないし自分のことを責めることなんて全然ないようなみんなが、本当に羨ましくてしょうがないの」
 ユルヒェヨンカが、ブランチェスタが、シオンが、ジャレッドが、テオが、ハレルヤがリジーが、そして残酷なことにエイーゼまでもが、アイジーにとっては羨ましくてしょうがなかった。
「私は妬んでいるのよ、僻んでいるの、羨ましくてしょうがないし裏目に出て憎らしく思うことだってある。でも、よくよく考えてみればそれって当たり前のことなのよね。人間誰かを羨むのなんてよくあるわ。あのブランチェスタですら私に憧れていると言ったし、あの厄介な二人だってそう――私がシフォンドハーゲンだから、安全地帯にいるから、憎らしいから、羨ましいから、今まで散々な目にあわせてきたのよね」
 アイジーは確信するように頷く。あくまでジャバウォックの意見は聞いておらず、けれど無視して話を進めているわけではない。これは語り聞かせているのだ。全てを含めて、打ち明けているのだ。
「貴方の言葉に傷つくなんて馬鹿だったわ。おかしな話なのよ。だって貴方は私なんだもの。本当に、とっても、変だわ」
 アイジーはジャバウォックから離れた。彼とて自ら離れた少女を捕まえようとすることもない。ただ形のいい唇をにんまりと和らげる仕草を、星屑の眼差しで見つめている。
「だから、あのときの貴方の言葉に、やっと返事ができるわ」
 それを言うなら君はみんなに嫉妬してるじゃないか。
 さっきの饒舌はどうしたんだ?
「シオンに嫉妬してる貴方が言うセリフじゃないわよ、このくそったれが」
 勝気なアイジーの眼差しにジャバウォックは一瞬息を止める。こんなふうに互いに目を合わせて話すのはいつぶりだろうか。人生に換算すればたった少しの間だけだっただろうに、まるで運命的なもので引き剥がされた絆がようやっと再び繋がれたような、そんな錯覚に陥った。もうなんの澱みもない。この暗闇には二人しかいない。考えなければならないことはなに一つだってない。決定打だった。彼は少しだけ口角を上げ、それから、まるでいつものように溜息をついて「君、あの厄介な二人の影響を受けすぎだよ」と呆れかえった。
「それに何度言ったらわかるんだ。僕は別にあのシオノエル=ケッテンクラートに嫉妬した覚えはない」
「ふふ、実はね、私だってほとんど冗談よ。しょうがないじゃない。貴方をいじれるネタがそれしかないんだもの」
 ようやっと本心を告げたアイジーにジャバウォックは唖然とした。あれだけ延々と言い続けてきたことがわざとの産物だと知ったのだ、そりゃあ荒んだ心境にもなるだろう。しかしアイジーはそんなのお構いなしに「ああ、今にもぷんすか怒ってしまうわ」と楽しげに囃すだけだ。もうすべてが無駄に思われたジャバウォックは諦観したように肩を落とす。こういうときはなにも言わないに限ると判断したのだろう。アイジーはそれにいい気になったのかまだ笑い続けていた。
「貴方がいない間ね、いろいろ考えてたのよ。人って不思議よね。傍にいるものが消えた途端そればっかり考えちゃうのよ。でね、私思ったの。貴方の目ってシオンと同じ色をしてるなあ、とか。貴方の服って真っ黒でエイーゼみたいだなあ、とか」
「それ僕のことって言うよりも他の二人のことじゃないかい?」
「ジャバウォックの背中に乗ってみたいなあ、とか」
 その言葉を聞いた途端、ジャバウォックはずいっと顔を近づけてくるほどに驚いた表情だった。肩は強張っていて眉は明らかに“こいつなに言ってるんだ”と訴えている。なんだと思ってアイジーもぎょっとした。そこまで反応するようなことを自分は言っただろうかと思った。
 するとジャバウォックは意外そうに「君、僕に負ぶってもらいたいの? 結構子供なんだね」と呟いた。それを聞いたアイジーはむっとして「人間じゃなくって元の姿のほうを言っているのよ!」と訂正した。しかしその一言に、彼はさっきよりもいっそうひどく驚いた顔をする。今度こそ“こいつなに言ってるんだ”と叫びだしそうだった。アイジーは顔を顰めて言葉を継ぎ足していく。
「だって、貴方って馬車や馬よりも大きいんだもの、おまけに翼があるってことは飛べるってことでしょう? 素敵だわ」
「君は僕のスキルを使えるんだから飛ぶことだって出来るだろうに」
「私が飛んでどうするのよ、私は貴方と飛びたいって言ってるの」
 わからず屋に言い聞かせるような強い口調でアイジーは言った。その華奢な人差し指がくるくると宙を描き回すたびにジャバウォックは不信そうに顔を曇らせた。


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