ブリキの心臓 | ナノ

2


 まるでアイジーの呼吸を読み取ったかのように、ヒューイはアイジーに近づいてきた。アイジーはまたそろりそろりと足を滑らせるが、イチョウの踏みしめる音を彼は敏く聞きつけて、まるで蜘蛛が蝶を裂くような素早さでその白い手を掴んだ。そして恐ろしいくらいに無邪気な声で「捕まえた」と弾ませる。
「僕ね、かくれんぼは得意なんだよ。鬼ごっこは苦手なんだけどね」
 手を握ったまま、ヒューイはスツールに腰掛ける。どうやらアイジーにも腰掛けてほしいらしく、アイジーの腕をぶらぶらと揺らす。アイジーは仕方なしに彼の目の前のスツールに腰掛けた。シェルハイマーとハルカッタのほうを見るが、二人はもう一人の相棒が自分のところに来ていることには気づいていないようだった。なんの用だろうと思いながらアイジーが俯いていると、ヒューイはぐっと身を寄せるようにしてアイジーに言う。
「僕のこと、怖い?」
 それは反応を楽しんでいるかのような、そんな悪戯めいた声だった。にこっと笑う口角がなんとなく不気味に思われて、アイジーは思わず仰け反った。
「君は、僕が薬切れになったところを見ているね?」
「……それは、貴方が護衛官に手を撃たれたときのこと?」
「あは、やっぱり君ってあのときの女の子だったんだね」ヒューイは微笑んだまま言った。「おぼろげな声とかだけが頼りだったから不安だったんだ。でも、やっぱり当たってた、よかったよ」
 なにがよかったのかはアイジーにはちっともわからなかった。なんとなく、これから続く話に不安を覚えて、アイジーは身をよじる。見えてもいないだろうに、その様子がおかしくてたまらないとでも言いたげに、ヒューイはくすくすと笑いを深めた。アイジーは顔を顰める。
「あのね、僕からの、君の友達の友達からの、ちょっとしたお願いがあるんだ」
「……私とあの二人はお友達じゃあないわ」
「そんなことないよ。少なくとも二人は君を友達だって思ってるもん」それからくすっと笑って。「大嫌いではあるみたいだけどね」
「それで、お願いってなにかしら」
「あれ、友達じゃないのに、お願い聞いてくれるの?」
「お友達じゃないとお願いできないの?」
「君はきっと聖人じゃないから、友達でないと言うこと聞いてくれないでしょ?」
 その言い回しに薄ら寒さを覚えたが、彼が腹に一物抱えているだとかの類でないことをアイジーは悟っている。彼はあくまでも純粋で無邪気で、多分言葉の選択を誤っただけなのだ。タイミングがタイミングなだけに表情を濁すしかなかったが、こういうことはユルヒェヨンカにもよくあることだ。それを踏まえたうえで「それで、お願いってなに?」と返す。
 ヒューイは「うん」と頷いて言葉を続けた。
「黙っておいてほしいんだ」
「なにを?」
「僕のなかの《青髭》が、暴走したときのこと。君の友達じゃない、あの二人にね」
 アイジーはヒューイの言葉に少しだけ驚いた。見開いたバイオレットグレーの瞳は真ん丸だ。見えていないだろうに、いや、見えていないからこそ、それを知ろうと探るように顔を這うヒューイの手の温度に、アイジーは氷のように凝結する。
「貴方は――」聞いていいことなのかはわからなかったが、アイジーの唇は無闇に蠢いた。「人を殺したことが、あるのね」
「あるよ」即答だった。「それも、君が思っているよりも、夢に見るよりもたくさんね」
 僅かに目が細められる。その切なげな色にアイジーは目を奪われた。降りかかる前髪が影を生んで、さらに蒙昧そうな眼差しへと変貌する。彼の目は淀んでいた。
「いつから?」
「気づいたときには、そして多分、赤ん坊のときから。きっとミルクをねだるよりも先に誰かを殺してた。僕に親がいないのは、案外僕が殺しちゃったからなのかもしれないね」
 いや、きっとそうなんだ――そう呟くヒューイがあまりにも哀れで、アイジーは抱きしめてあげたい衝動に駆られる。けれど自分の腕の片方は彼が握っていて、もしかしたらそれをさせないために掴んでいたのかもしれないと、そんなことを思わせる力だった。
「いつも気がついたら手が真っ赤でね、目覚めたら服が汚れてて、どこかに刃物が転がってて、そして、ペローの噂好きの囁き声で知るんだよ、またやっちゃったんだなって。記憶だってあるけどまるで他人事みたいなんだもの。感触だけがはっきりと僕なんだ」
 そう言ってヒューイはアイジーの頬をするすると撫でた。微かに振動した肌に恐れを感じ取ったのか、バツの悪そうな表情で苦笑する。
「あの二人はまだ、僕が薬切れになったところを見たことがない。きっと僕が何人も殺しているのさえ知らない。握っていたのは確か鉈だったかな? 君は見たんでしょ? 僕の、あのときの姿。どうだった?」
 つめ寄る彼の目は恐ろしかった。なにも見えていない筈なのに確かにアイジーを見据えていて、それが妙に尖っている。寒くて寒くて、まるで裸にされているかのような気分だった。アイジーが更に仰け反ろうとすると、ヒューイはそれを許さなかった。まるで脅かすような力強さでアイジーの腕を引っ張る。ずいっと近づいてきた顔にアイジーは息を止めた。
「ほら、言ってみなよ、どうだった?」
 一つの答えを欲しているかのような声に、アイジーは唇を歪める。それから控えめな声で、突っかかる喉で、震える舌で彼に告げる。
「怖かった」
「そうなんだ」彼はまだ笑っていた。「僕はどうやら怖いらしくて、どうやらおっかないらしくて、どうやら災厄らしい。僕は預言者のところになんか行ってないから予言は貰ってない。《青髭の呪い》なんてのに憑かれてるのを知ったのはデッド副指揮官が手紙を持ってきてくれたときが初めてで、それまで僕は呪いの存在すらおぼろけにしか知らなかったんだ。自分が呪われていることすら、自覚していなかったんだよ。でも、予言を貰っていたら――まず間違いなく災厄の子だと言われたに違いないよ。賭けてもいい。僕はみんなに害を成す、とても危険な存在なんだ」
 そんなことないとは言えなかった。きっとヒューイ自身もそんな慰めを必要とはしていない。しているのは約束だ。確固たる証であり、絶対的な沈黙だけだ。
「僕にはね、シフォンドハーゲン。きっととても的確な意味で、あの二人しかいないんだ」
「……それってシェルハイマーとハルカッタ?」
「うん」幸せそうに、可愛らしくはにかんで見せた。「君には厄介な人間にしか見えないだろうけど、僕にとっては唯二無三の友達なんだよ。彼らしかいないんだ。本当の意味で。僕を人殺しだと知って――人殺しだと理解はしていないにしろ――知って、それでもなお、友達だって言ってくれるのは、ギーガとニヴィールしかいない。君なんかの一言で、僕の友達を取り上げられちゃ困るんだよ」
 乱暴で冷たい物言い――なのに表情はとてつもなく柔らかい。それがひどくおかしくて、そしてひどく不気味だった。
「だから誓ってほしい。きっと言わないと。死ぬまで隠し通すと。なにがあっても言わないと。それを守れないようじゃ僕は安心して眠ることも出来ない」頬に触れていた手をそっと喉元に滑らせる。「約束してね、きっとだ、じゃないと僕、多分君を殺すかもしれない」
 その一言にアイジーはぞくりと悪寒が走った。その肩を愛おしげに見遣る彼には今のところ殺意はない。あくまでもおねだりで、あくまでも約束なそれに、アイジーは足元がすくむような感覚を覚えた。腹に一物抱えているわけでも、二面性があるわけでもない、けれどきっと彼は、焦っているのだ。それだけ、どうにかしようと、しているのだ。
 アイジーは唾を呑みこむ。
「随分と怖いことを言うのね」
「結構よくある話みたいだよ、青髭の呪いに犯された人間に殺されるのって」
「まるで他人事みたい」
「他人事だよ。僕は殺されないから、殺す立場のほうだから」
 で、どうするの、と首を傾げる彼に、アイジーは低い声で返す。どうもこうもない。こんなおっかないことをされては、言い分に従うしかない。
「勿論、約束するわ」アイジーは続ける。「私は二人に決して話さない」
「えへへ……そう言ってくれると、なんだか嬉しいや」
 喉から手を離してはにかむ彼は、本当に無垢で可愛らしかった。こんな人間が《青髭》なのかと思うと世も末だ。そしてその《青髭》が殺すぞと脅してきたのだ。このままじゃアイジーの心臓はもたない。
「でもこんなことしなくったって、私の言葉なんてあの二人は信用しないでしょうよ。きっと流されておしまいだわ。無意味なんじゃないの? 私以外に口止めしたほうがいいんじゃなくて?」
「二人の交友関係なんて高が知れてるよ、二人のことは大好きだけど、紳士的でないのは十分承知してるから。だからそんな有象無象よりも、僕は君が一番恐ろしかったんだ。大嫌い同士のくせに友達ごっこなんて馬鹿なままごとをしてる、君という人間がとてつもなく恐ろしかったの」彼はわざとらしくにっこりと笑った。「でもこんなに物分かりのいいチャーミングな女の子だったなんてね、驚いちゃったよ」
 驚いたのはこっちのほうだと思った。人畜無害そうな顔をしておいて、まさかこんなことをされるだなんて思ってもみなかった。未だに喉元は心許なくて、まさか刃物を入れられでもしたんじゃないかと、そんな不安すら夥しく生えてくる。
 アイジーがじとっとヒューイを見つめていると、ヒューイは人差し指を唇に当てて囁くように言った。
「絶対秘密だよ」
「わかってるわ……私だって、話していて気分のいいものではないもの」
「だろうね」
 そう言うヒューイに、シェルハイマーやハルカッタたちは「おーい!」と声をかける。ようやっと彼がこちらに来ていたことを知ったらしい。茶髪と黒髪が元気よく手を振る様を、ヒューイは心底幸せそうに眺めている。
「今行くよ!」
 ヒューイは二人のもとへと駆け出して行った。アイジーはまた一人ぼっちになった。気づけばジェラートは融けていて、もう食べる気にはなれなかった。アイジーはぼとりとその場にカップを落とす。イチョウに甘い色が付与されて不思議と少しだけ愛着が湧いた。
「はーあ、怖かった」
 アイジーは肩を落とす。
 しかし、確信した。
 ヒューイは多分、《名前のない英雄》ではない。
 なにを根拠にと思うかもしれないが、直感としか言いようがない。強いて言うなら――もしヒューイが《名前のない英雄》ならば、きっと自分はとうに死んでいる――そう思ったからだ。初対面のときといいさっきといい、危なっかしいったらありゃしない。けれど、先ほどのような契約をふっかけてくるような人間が、無闇に自分を殺すようにはどうしても思えなかった。上手くは言えないけれど、そう思ったのだ。彼ではあまりにも、あざとすぎると。
「とにかく、一件落着、でいいのかしら」
 ぽつんと落とされた呟きに答える声はない。
 ヒューイの無邪気な恐ろしさを思い出し、思わず肩を竦める。盲目的な眼差しが毒のように感じられたあの瞬間。今はイチョウとともに微笑んでいる少年とは似ても似つかない。
 きっと彼に自分を殺させるようなことはしないわ。
 アイジーはヒューイの頭についたイチョウの葉にそう強く誓った。





蕾は枯れた



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