ブリキの心臓 | ナノ

2


「本当にペローに入らなくてよかったわ」
 アイジーは心の底からそう思った。いくらなんでもあんな小汚いところに足を踏み入れる気にはならない。長年邸で蝶より花より大事に育てられてきたアイジーにとってペローの気味悪さは生理的に受けつけないものだった。汚臭のしそうな雰囲気だけで立ち眩みすら起こせるだろう。
 と、そこで視界がにゅっと真っ暗になった。これは汚臭に中てられたが故の立ち眩みではない。真っ暗になったのは視界、それも邪魔な誰かの手によってだ。湿気のないさらさらとした手が、自分の両目を後ろから覆っている。小気味のいいクツクツという忍び笑いのあとに、意地の悪そうな声で誰かが言う。
「だーれだ」
 それは聞き覚えのある声だった。アイジーは苛立って「人でなしのハルカッタでしょ!」と自分の目を覆っていた手を振り払う。振り返ってみると、真後ろで自分の目を覆っていたのはシェルハイマーだった。彼は心底楽しそうに笑って腹を抱えている。そんな彼の肩に顎を乗せていたハルカッタが、によによと口元を震わせているのが妙に不快だった。騙された、とアイジーは奥歯を擦り合わせる。
「ハルカッタンジョークだよ。ざーんねーんでーした!」
「まんまとハズレてくれたミス・シフォンドハーゲンには罰ゲームを与えなきゃな」
「ええ、そうね」アイジーはきっと睨み上げる。「貴方たちの足を踏む、なんてどうかしら!」
「うわっ!」
 アイジーの宣言により飛び退いたハルカッタはなんとか助かったが、後ろにハルカッタがいたため逃げられなかったシェルハイマーは見事に足を踏みつけられた。バレエのトウシューズよろしく、爪先に石でも入っているのかというほどの痛列な打撃に、シェルハイマーは足を抑えてうずくまる。
 アイジーはその様を鼻で笑った。
「どうしたの、シェルハイマー、そんな無様にうずくまって……もしかして落し物でもしたのかしら?」
「落し物をしたのはお前だろシフォンドハーゲン、前世に落としてきた優しさを探しに行ったらどうだい……? そして我が相棒よ、見捨てて逃げるとはあんまりじゃないか」
「お前の動きが遅かっただけだろこんこんちき」
「なんだと脳留守野郎」
「言ったなボンクラ!」
「ほざくなスカタン!」
「耳障りよ、死にかけのロバの糞みたいな口をいい加減チャックしてくれないかしら。本当に貴方たちの頭の中って空気と骨しかないんじゃないの?」
「お前なかなかエグいこと言うようになったな」
「俺たちにからかわれて唇を噛みしめてたあのくそったれの天使を返してくれよ」
「つまらないことばっかり言ってたらぶっ飛ばすわよ」
「俺たちのことを最低扱いするけど、俺からしたらお前はもう随分最低のクズ野郎だよ」
「貴方たちの影響ね。最ッ高だわ」
「おっと、その綺麗な目を尖らせていいのかい? ここにはその針で繕えるような可愛らしい布きれはないんだ」
 シェルハイマーはそう言い終えると、アイジーの全身を舐るように見回した。アイジーは気持ち悪さに一瞬だけ戦く。それどころか後退りまでするアイジーに、シェルハイマーは落胆の吐息をついた。
「やっぱこいつ危機感ないな」
「は?」
「お嬢様とはいえ、時と場合を考えろよ。あーあ、どうなっても知らないからな」ハルカッタも賛同する。「世間知らずって本当に怖いよ」
 アイジーは眉を潜めて「私の格好のなにがおかしいのよ」と言う。アイジーの今の格好は、特筆しておかしなところなどない。動きやすいようにドレスを避けた、割と庶民の傾向にある、落ち着いた服装だ。小振りな花柄のフレアスカートに小さな丸襟、藍色のベロアの小さなコートだってそれなりに立派なものである。指摘される意味がわからない。
 言及に言及を重ねても、二人はなにも返さなかった。ただただ呆れたようにアイジーを眺めているだけだ。もう面倒くさくなってアイジーは言及を諦める。どうでもよくなったとも言えた。
「それで。貴方たちも来たばかりなのよね?」
「ああ」
「見りゃわかんだろ」
 ふてぶてしい態度を取る二人にアイジーは顔を顰めた。
 二人はアイソーポスでもアンデルセンでもペローでもなくグリムに住んでいる。昔はアイソーポスに居たらしいが肩身の狭さに厭になって下ることにしたらしい。そんな二人がよくペローの人間と出会い親しくなれたものだと思った。
 二人はアイジーの肩をぽんと叩いてペローのほうへ向かう。
「じゃあ、ヒューイを呼んでくるから」
「あんまりウロチョロするんじゃないぞ」
「しないわよ」アイジーは嫌そうに肩の手を払う。「早く済ませてきてね、なんだかここ、とっても怖いわ」
 ようやっと女の子らしいことを言ったアイジーに二人は爆笑した。それから軽く手を振ってペローの通りへと足を踏みこんでいく。
 ペローの前で待ち合わせ、そこから二人がヒューイを迎えに行く算段になっていたのだが、彼らのうちの一人がアイジーのもとに残らないのにはちょっとした理由があった。
 ペローは基本的に治安が悪い。物取りも凌辱行為も麻薬も、果ては殺人だって頻繁に起きる。毎日が生きるか死ぬかの戦いで、奥へ行くごとに廃れ具合は強烈だった。特に物取りや追い剥ぎは一人のときに狙われやすい。人攫いだって一人でいるときのほうが起こりやすいし殺人だって同じことだろう。ペローの人間はともかく、他の街の人間がペローに足を踏み入れるとき、バディを組んで行動するのは当たり前のことだった。バディでなくグループでもいい、人数は多ければ多いほど安全だ。悪目立ちして動きが鈍ることもしばしばだが、少なくとも数で圧倒できることもあるし、なによりグリムやアンデルセンに出て腕っぷしの傭兵やらを連れてもらってくることも出来る。最低でも二人行動、これはペローでの原則なのだ。
 透けるような寒さで皓々とした肌を摩りながら、アイジーは二人の、いや、三人の姿がペローから出てくるのを待った。もうだんだんと冬に近づいてきた今日だ。こんな野晒しにされたような場所で待っていたくない。とっとと引き合わせて屋根と壁のある場所へ行きたい。どうせなら暖かいミロも欲しい。三人はそれほどお金がないだろうからもう奢ってやってもいい。どうせ集られるのが関の山だ、最初から払う気でいたほうがましというものだろう。アイジーはそんなことをぶつくさと心中で唱えながら、シルバーブロンドの長髪を風に揺らした。
「……ん?」
 ペローから人影がチラチラと見え始めた。最初はシェルハイマーたちが帰ってきたのかと思ったがそうじゃない。ちっともそうじゃなかった。身長は彼らよりもずっと高いし、服装だって彼らよりも汚い。カーディガンの解れた糸は足元で引きずられているし、靴だってそれぞれバラバラだ。五人くらいだろうか――つい最近成人になったばかりというくらいの青年や醜い顎髭のある見るからに酒臭いシルエットの男など、そんな年齢のばらついた男たちアイジーのほうへと歩みだしていく。
 最初はアイジーも気づかなかったが、明らかに自分のほうへと向かってきているそれにだんだんと鳥肌が立ってきた。彼らは口元に厭らしい笑みを浮かべていて、それが更に怯えを増長させる。
 少し怖くなってその場を離れることにした。仕方ないと言えよう。いくらなんでもあんな集団に見舞われては恐ろしくなるに決まっている。暫くどこかに隠れて頃合いを見計らって戻ればシェルハイマーやハルカッタも文句は言うまい。
 しかしアイジーが彼らから離れようとすると、その彼らもまた歩みを早める。最早臆病そうな駆け足だ。アイジーのそれよりもずっと速い。しかも彼らは散開し、互いの間隔を広めていく。まるで自分を取り囲んでやろうというような足取りに、アイジーは血の気を引いた。
 もう幾分の勇気もなかった。もう限界だった。アイジーはさっと顔色を変え、猫よりも素早い足で広場を抜けた街並みへ潜りこもうとする。

「逃がすな!」

 男たちのうちの一人が言った――逃がすなと、捕まえろと――物取りか人攫いか暴漢かはわからない。しかしこれで彼らがいい人でないことは確定した。アイジーはなるべく見つかりにくそうな道を辿ってこの状況を乗り切ろうとする。慣れない土地ではあるが捕まるわけにはいかない、捕まったら、なにをされるかわからない。自然アイジーの足は速くなった。
 彼らの足音が聞こえたらそれを避けるような道を選んだ、彼らの野太い叫び声が聞こえたら息を殺すよう身構えた。アイジーの心臓の鼓動は混き、険難性の脳は最悪の事態を想像する。そのたびに手先が凍っていくようで、アイジーは恐怖心に胸が重かった。まるで槍でも刺さったようだ。今にも倒れてしまいたい感情に駆られながら、アイジーは走り続ける。
「見つけたぞ!」
 アイジーはぞっとして声のあったほうの反対側へと身を翻した。後ろから誰かが着いてきているだとかはもう確認したている暇がない。一刻も早く彼らの姿が見えないところに行かなければ。
「あそこだ!」
 しかし数とは、土地勘とは厄介で、だんだんとアイジーは追い詰められていく。チラチラと曲がり角から見える男たちの数が増えていった。アイジーは激しく呼吸をして走り続ける。
 体力的にも限界がきていた。足は針金でギチギチに固められているようだったし、脹脛の肉なんて今にもぼろぼろと剥がれていきそうだ。


|
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -