ブリキの心臓 | ナノ

2


 それは一人の女性の絵だった。
 どうやら踊り子らしい。真っ白いロマンティックチュチュに身を包み、椅子に座ってシューズのリボンを結んでいる。絵の具にガラスか鉱石でも混ぜているのだろうか――柔らかそうな肩や背中が白くふわりと煌めいていて、健やかに妖艶だ。首筋から金色に眩しいバニラブラウンのロングヘアが胸元に向かって垂れている。顔立ちを見れば、当時はよほど人気があったであろうと思われる。整った眉も有るか無きかの笑みを浮かべる唇もきっと舞台ではキラキラと目を引いたに違いない。しかしなによりも目を引いたのは、きっと彼女の持つ美しい瞳だろう。頭につけた薔薇冠の形の良い葉よりもずっと魅力的な色合いをしたその緑の虹彩は、まさしくブランチェスタと同じものだった。額の下にはこの踊り子の名前が書かれてある。ただ、ひっそり――――フランチェスカ=ノールと。
「貴女のお母様って、ここの踊り子だったのね」
 アイジーは優しい声で呟いた。絵画の中で美しく微笑む踊り子に、敬愛するような眼差しを向ける。
「驚いたでしょう? 貴女はお母様の顔をあまり覚えてないでしょうし、きっと喜ぶと思って……どうしても見せたかったのよ……ねえ、ブランチェスタ」
 と、アイジーはブランチェスタのほうを向いた。せっかく教えたのに先ほどから反応がなく、もしかしていらぬことをしたのかと不安になったのだ。しかし、そうではなかった。ブランチェスタはただじっと、その絵の女性を見つめていた。見つめたまま、なにも言えないでいた。
 その目は今にも崩れてしまいそうで薄い膜に囲まれた色水のようなものだった。表情は欠落し、けれど無という代物でもなく、ただ食い入るように、貪るように、全ての感情を自分の母親に向けている。
 ブランチェスタは小さく唇を開き、吐息を紡ぐ。それは子供なら誰もが口にするであろう情愛の単語だった。
 いつまでも見つめていたかった。これ以上のことなどないと思った。ただずっと見つめ続けて、このまま命を終わらせてもよかった。それだけで、満足だった。
「……ブランチェスタはお母様似ね」
 アイジーはゆっくりとブランチェスタの手を握る。ブランチェスタは縋るように、アイジーの手を握り返した。
 するとそのとき、絵の隣の楽屋の扉が開いた。アイジーは邪魔になるだろうかと身を壁に寄せる。出てきたのは戯曲家のアイザック=フェルメールだった。彼はすぐさまアイジーとブランチェスタに気づき眉を寄せ――しかしブランチェスタの顔を凝視した途端、驚きに満ちた顔をする。
「フランチェスカ!?」
 ブランチェスタは肩を震わせてアイザック=フェルメールを見上げる。薄い顎髭のあるその男はブランチェスタの視線に合うまで腰を屈めた。それから食い入るようにじっと見つめて「いや……フランチェスカじゃない」と破顔し、ブランチェスタの頭をグシャグシャと撫でる。
「お前、あのちっちゃかったブランチェスタ嬢だろ!」
 自分の名前を呼ばれたことに驚き、ブランチェスタは目を見開いた。アイザック=フェルメールはその目をしみじみと眺めて一層笑みを強くする。
「ハハッ、こいつは驚いた……! これじゃまるで生き写しじゃないか! あの赤ン坊がこんなになっちまって……もっと顔を見せてくれよ。そのキュートな瞳はフランチェスカ譲りか?」
 ブランチェスタも満更でもなさそうに淡くはにかむ。アイザック=フェルメールはブランチェスタの肩を感慨深そうに撫でながら「おい、みんな来てみろよ! あのブランチェスタがここにいるぞ!」と声高に叫ぶ。
「どうしたのよアイザック、いきなり叫び出して」
「夢でも見たのかい?」
「そんなに俺を馬鹿にしたがるんならこの子を見てからにするんだな」集まってきたコッペリア座のメンバーへとブランチェスタを押しやる。「一度、マッカイアに嫁いでったフランチェスカが赤ン坊を連れてきたことがあったろ? 娘のブランチェスタだよ」
 そう言った瞬間、ブランチェスタの周りには黄色いスイートピーが咲いたように賑わいが出来た。コッペリア座のメンバーが我こそはとブランチェスタの前へ並ぶ。ブランチェスタとアイザック=フェルメールの後ろで、アイジーは所在無げに呆然と見つめた。みんながみんな、旧く共に観客を賑わせた踊り子の娘に、期待と興奮で胸をときめかせている。ブランチェスタは些か緊張しながら、それでも母親と縁のある人達に囲まれて幸せそうだった。
「まあ、本当にフランチェスカにそっくりじゃない!」
「天国から舞い戻って来たんじゃないの?」
「髪の色はあいつよりも暗いな」
「マッカイアの旦那の血だな!」
「フランチェスカ先輩にはすごく世話になったのよ」
「本当にフランチェスカ=ノールの娘なんだな」
「もう一度君に会いたいと思ってたんだよ」
 ブランチェスタは大人気だった。カラーリリーのようなドレスを着た女性や道化師のガゼルとジゼル、へんてこな帽子を被った初老の男性など、老若男女隔たりなくブランチェスタの顔を感慨深そうに見つめている。同い年ほどの踊り子たちは“これが絵画の女性の娘なのか”と興味津々だった。
「今日は一人で来たの?」
「あっ、いや……いえ……友達と」そこでアイジーをきょろきょろと探す、アイジーは遠慮がちにブランチェスタの隣に並ぶ、ブランチェスタはほっとしたように続ける。「友達と一緒に……」
「あら、可愛い子じゃない!」
「こんな別嬪さん二人で……変な奴に絡まれなかったか?」
「それってガゼルみたいな?」
「言ったなジゼル!」
「ピエロの二人は放っておきましょ。にしても本当にそっくりね。感動しちゃうわ……」
「フランチェスカ……こんなに自分にそっくりな娘を見れなくて、さぞ無念だったろうなあ」
「こんなに可愛らしいのにねえ」
 しみじみとした顔で親愛を吐き出す彼らにブランチェスタは控えめな声で問いかける。
「母は……あたしのお母様は、どんな人だったんですか?」
 その言葉をきっかけに周りはぼろぼろと言葉を漏らす。それはもう素敵な子だっただの、控えめだけど暗くはなかっただの、とても人気のある踊り子だっただの、パプリカのサラダが大好きだっただの。アイジーと手分けしても全てを聞き取るのは困難で、ブランチェスタはもだもだと焦り出す。その様子を見たアイザック=フェルメールは「こらこら」と周りを窘めた。
「そんな一度に言っても混乱するだけだろうが馬鹿ども」
「誰が馬鹿だ誰が」
「フランチェスカはな、そりゃあ可愛らしい女の子だったんだ。どちらかと言えば大人しくて自分から目立とうとしない、でもいつも輪の中心にいるような、目を引くような奴だった」
「特に男の子のね」
 踊り子らしい化粧した女性がアイザック=フェルメールの肩を強く叩く。彼は照れ臭そうに咳ばらいをして、それから続けはじめた。
「バルテロ=マッカイアはフランチェスカのファンでな、相当に入れ込んでたんだ……そして二人は結婚した……あのときのフランチェスカの花嫁姿は本当に綺麗だったさ」
「お母様は……絵を見る限り、踊り子だったんですね?」
「ああ、そうだとも」
「今でも私たちは敬愛してるわ」
 道化師のジゼルは思い出すように語る。
「本当に美しい人だったのよ。私も彼女に憧れてコッペリア座に入ったの。踊り子にはなれなかったけどね」
「今でもフランチェスカの踊る姿は目に焼きついているよ……」
「上手いだとか下手だとかじゃなくてね、見ていてこっちまで踊りたくなるような……そんな踊りをする子だったの」
「彼女が死んでしまったときは誰もが涙した……かく言う僕もだ。まだあれほど若かったのに」
「本当に」苦渋そうな顔で、アイザック=フェルメールは言う。「本当に――まるで葉っぱの妖精のような奴だった。伸びやかに風と舞って、くるくると軽やかに、あれほど楽しそうに……なのに、本当に寂しいことだ」
 一瞬、空気が淋しい色を帯びる。ブランチェスタも少し目を細めて。コッペリア座のメンバーは皆頭を垂れて追悼するように黙りこんでいた。



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