ブリキの心臓 | ナノ

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「だからね、ロバに会ったのよ……」
「お前頭でも打ったんじゃねえの?」
 ブランチェスタは引き攣った口角を無理矢理にあげて怪訝な眼差しでアイジーを見つめた。アイジーは必死に首を振って「どこも打ってないわ!」と反論する。しかし自分の話がてんで荒唐無稽な話だということも重々理解している。夢でも見たんじゃないのかと今でも思う。けれど夢じゃない。夢じゃないのだ。
「私は、《オズ》の中で、ロバと会ったのよ!」
「いるわけないだろ、《オズ》にロバなんて」
「ほら……野生のロバが紛れこんで来たのかも……?」
「今自分がどれだけ馬鹿げたこと言ってるかわかってる?」
「そうよね」
 アイジーはすごすご引き下がって、がくりと頭を垂れる。隣を歩くブランチェスタは微妙そうな顔をしていた。半信半疑といったところだろう。
 現在アイジーとブランチェスタはコッペリア座の歌劇場の前にいた。チケットをもぎりに切ってもらうための長蛇の列に並んでいる。アイジーが“見せたいものがある”と無理を言って休日のこの午後に予定を作ってもらったのだが、さしものブランチェスタもこんな列に並ばされるとは思っていなかったのだろう、眉の孤は頑なに不機嫌だった。
 中々動かない列に並びながら世間話でもという流れになったのだが、アイジーの口から出てきたのはトンデモ話だった。シェルハイマー、ハルカッタの二人とペナルティーを喰らったときに、《オズ》の裏庭でロバを見たというもの。ブランチェスタも最初は厄介な二人のほうに会話の重点を置いていたのだが結果的な着地点が“ロバ”だったことに目を見開き驚いている。
「でも本当よ、確かにいたの」
「ロバが?」
「ロバが」
「……………ねえな」
「あるのよ! 私だってびっくりしたんだからね!」
「アイジー、それ絶対夢だって」
「違うったら!」
「ほら、列動いたんだからさっさと行くぞ」
 ブランチェスタはアイジーのスカートの裾を引いて前に進んだ。アイジーはむっと頬を膨らませたがそれにわざわざ抗うようなことはなかった。
 そういえば、アイジーにとって嬉しいことが一つ。今まで薄い服しか来ていなかったブランチェスタが、今日は秋らしい、それも“マッカイア”の娘らしい格好をしているのだ。どうやらブランチェスタがアイジーと一緒に出かけることを知ったベアトリーチェ=マッカイアが、“シフォンドハーゲンの娘と出かけるというのに恥なんて晒せない!”とブランチェスタを今までにないほど着飾ってくれたらしい。ゆらゆらと長いコルクブラウンの髪は隈なく櫛を入れられているし、セーラーカラーのカッターシャツや真っ赤なカシミヤのカーディガンも一目でわかるほど新品だ。下はズボンだったりあまり装飾がないのを見る限りブランチェスタが最後まで抵抗したのだろうと伺われたが、少なくとも今までに見た彼女の中で一番温かそうな格好をしていた。
 アイジーは愉快そうに微笑む。
「ロバの有無はともかくとしてよ、アイジー」
「なに?」
「なんでお前そんな裏庭なんかにいたんだ? あそこはちょっと崖っぽくなってて危険だからあんまり人は立ち寄らないって副指揮官が言ってたぞ」
「え、えっと」まさか感情が高ぶって懺悔とも決意とも興奮ともつかない涙をだばだば流していたなどと言える筈もなく。「人目を避けて歌の練習を」
「そんなに好きなのか」
 ブランチェスタはズボンのポケットからコッペリア座のチケットを取り出す。ぐちゃぐちゃのよれよれで、アイジーは一瞬頭を叩き回してやろうかと思った。
「歌劇か……あたしは初めて見るよ。アイジーが見せたいってくらいだからさぞ華やかなんだろうな」
 その言葉にアイジーはどう返事するか迷ったが、言葉を濁して上手く空気を取り成した。ブランチェスタは靴の爪先をトントンと鳴らして責めるように言う。
「ったく、二時間も並ばせやがって、あたしの足が棒になったらどうしてくれんだ」
「マッカイアの宝石で飾りたてて可愛いステッキにでもしちゃおうかしら」
 そうおどけて見せた瞬間ぐっと前の人が進んだ。アイジーとブランチェスタはそれに合わせて足を進める。
「だいぶ音楽が聞こえてきたな……」
「そうね」
「アイジーは何回ぐらい来たことあるんだ?」
「あんまり。私は……小さいころ、というか割と最近まで」引きこもりと言うには流石にプライドが許さなかった。「……出不精だったの。レコードでも聞いていたし、出演者の名前だって全員言えるけど、そこまでコッペリア座に詳しいってわけじゃないわ」
 また列が進んだ。もぎりの服が見えてくるほどには近づいてきたようだった。
 コッペリア座。歌や踊りや演劇だけにとらわれず、あらゆる見世物で観客を楽しませてくれる、国一番の歌劇団だった。アイジーが邸に閉じこもっていたときはオーザが買ってきてくれた歌のレコードを聞くだけだったが、十五歳の誕生日を経てからは自ら行かせてもらえるようになったのだ。初めてコッペリア座の舞台を見たとき、アイジーはあまりの素晴らしさにずっと口を開いたままでいた。踊り子のピアニカ=ビアズリーはまるで野うさぎのように舞台のあちこちを踊り廻り、ときおりキャンディーを観客席に放り投げたりしてくれた。戯曲家のアイザック=フェルメールが舞台前に大声で叫ぶ上演挨拶などは観客の興奮を苛烈なまでに引き立てる。歌姫・トゥルメリア=バレンタインの声はたちまちアイジーの心を虜にしたし、双子の兄妹のガゼルとジゼルは国一番どころか世界一魅力的な道化師だ。
「毎度チケットはすぐに完売しちゃうのよ。一番席はプレミアものなんだから!」
「へえ、よく取れたな」
「でしょ」アイジーは愛嬌たっぷりにウインクした。「どうしても貴女に、見せたいものがあったのよ」
 いよいよ、自分たちの番になった。アイジーはもぎりにチケットを渡す。ブランチェスタも同じようにチケットを渡したが、もぎりはぐちゃぐちゃにされたチケットを見た途端ぐぐっと眉間に皺を寄せていた。その憤りはごもっともだとアイジーは思った。
 コッペリア座の演目が書かれたファンシーなポスターにブランチェスタは釘付けになる。チェロの形をしたシャンデリアや踏むたびに軋む床の木板、長く続く広々とした廊下はいかにもこれからファンタジアに連れていってくれそうで、それらの雰囲気に見事に呑まれた客たちはパンフレットを見ながら今日はどんな素晴らしいものが見れるだろうかと語り合っていた。
「ブランチェスタ、こっちよ」
「え? でも席取らなきゃいけねえんじゃねえの?」
「いいからいいから」
 アイジーはブランチェスタの手を引いて客席側とは真反対の方へ歩いていく。魚の群れのような人々を掻き分けて、楽屋側にまわろうとしていた。それにつれて人通りが減っていき、ブランチェスタはだんだんと不安になっていった。
「楽屋挨拶でもするつもりか?」
「実を言うとね、ブランチェスタ」アイジーは歩みを止めず、けれどブランチェスタの顔を見ながら言った。「貴女に見せたいものっていうのは、このコッペリア座の舞台じゃないのよ」
「…………は?」
「いえ、もちろん見てほしいけれど、でもそれはあくまでおまけなの。本当はこっちを見てほしかったのよ」
「……楽屋?」
「違うわ。今にわかるけど……私もこの前初めて見たときはびっくりしちゃったわ! 貴女だって、きっと驚くわよ」
 脅かそうとしているふうでもない、歌うように楽しげな声音。ブランチェスタは更にわけがわからなくなって顔をほんのりと曇らせる。
 暫く歩いていくと、壁にかけられた絵が目立つようになった。楽屋の扉を縫うように人物画や舞台画が増えていく。どうやら歴代出演者や過去の舞台の絵のようだ。美しい男女がダンスを踊る絵や、牧師の格好をした雄々しい男性が神聖そうな眼差しで光を浴びている絵なんかが見られる。なかには稽古中であろう絵も飾られていて、コッペリア座の愉快げな空気を感じることが出来た。
「これよ」
 アイジーは、ある一枚の絵の前で足を止める。ブランチェスタはふと見上げた。瞬く間に、息を奪われた。


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