ブリキの心臓 | ナノ

3


 ハルカッタは怒鳴ろうとして、しかしすぐに弾かれたようにすごすごと引き下がる。それがとても不思議で、アイジーは眉を寄せた。しかし、当のハルカッタは、シェルハイマーと共に作業に従事する。
「にしてもこの棚はぐっちゃぐちゃだな」
「この本なんかあの棚のもんだぜ。あとでまとめて持っていくか」
「おい、シフォンドハーゲン、そっちのチェックは終わったか」
「え? ええ。二冊ほど、別の階の本が紛れていたわ」
「じゃあそれも持っていくか。次の棚行くぞ」
――違和感。
 今までにないほどの猛烈な違和感を覚える。けれど、アイジーはその違和感の謎がわからず、眉を寄せるしかできない。もやもやとしたものを抱えながら、隣の棚に移動する。
「しっちゃかめっちゃかだな……ギーガ、この本はそっちの棚の下から二段目だ」
「了解。シフォンドハーゲン、お前はここをスペル順に頼む」
 アイジーは頷こうとして、しかしすぐにその首を止め、背表紙をゆるりと撫でながら問いかける。
「右に? 左に?」
「右に」
「わかったわ」
「……おいおい、誰だよここ背表紙の色順に並べたやつ、これじゃあ虹みたいじゃないか」
「馬鹿言えニヴィール、前回お前が自分でやったんだろうが」
「……そんなことしていいの?」
「いいんだよ、どうせまたしっちゃかめっちゃかになるんだから」
「そーら、シフォンドハーゲンも手伝え。次はこれを作者の誕生日順に並べる」
 誕生日なんてわかるのかと思いながらアイジーは苦笑した。
「芸が細かいわね」
「この前は一ページ目一文字目のスペル順で並べたよな」
「その前の文字の綺麗順はジャッジが難しくて大変だった」
「ギーガの評価基準がピリオドの美しさだぜ? とうとう脳みそに蛆でも湧いたのかと思ったよ」
「お前だって似たようなものだろ」
 そこで声をあげて笑ってしまい、アイジーはようやく違和感の正体に気がついた。
 この二人と会話が成り立っているのだ。いままでなら嫌な言葉しか投げられなかったし、陰欝な文句しか投げ返さなかった。傍から見ても楽しいものではなかっただろうし自分にしたってそれは同じだ。しかし、どうだろう、今の状況は。傍から見てもありふれたような、ちゃんとした、会話らしい会話をしている。普通に話せている。そしてなにより――彼らはもう自分を“アイジーお嬢様”とはからかわない。
「見ろよシフォンドハーゲン」シェルハイマーは持っていた蔵書の著作者紹介欄をアイジーに見せつける。「この写真のポーキーなオッサン、絶対につけ髭だぜ」
「ふふふっ、そうかも」
「あーあ、また出たよミスタ・シェルハイマーのそのネタが」ハルカッタはわざとらしく肩を竦めた。「こいつの十八番なんだ。これを言ったらみんなが笑ってくれると信じてる。シフォンドハーゲンで三人目だぜ?」
「バラすなよこのデクが」
「なんだとウスノロ」
「静かになさい、耳がうるさくて破裂しそうだわ」
 アイジーが煩わしそうにふるふると首を振ると、シェルハイマーはにやっと笑った。
「こりゃ大変だな、ミス・シフォンドハーゲンに怪我でもさせたら俺たちゃ大目玉だ」
 ハルカッタもにやっと笑う。けれど嫌な笑みとも少し違うものだった。ただしみじみとした顔で「そうだな」とシェルハイマーの言葉に賛同する。
「もしかしたら社会的に抹殺されるかもしれない。この没落野郎と外来野郎めって、高笑いしながら指さしてくるかもしれない」
「おっかないったらないな」
「ハッ、まったくさ!」
「ちょっと、馬鹿言わないで、そんなことしないわよ!」
「知ってるよ」
 シェルハイマーが言った。
 柔らかな口調だった。
 アイジーは驚いてシェルハイマーを見遣る。けれど彼はすぐに目を逸らして蔵書の入れ替えに従事する。ハルカッタのほうを見ると楽しそうにシェルハイマーを見つめていた。それからアイジーへと顔を遣って、その手に持った本を奪って棚に戻す。
 アイジーはただ二人の姿を見つめていた。もう俯かなくてもよかった。眉を寄せなくてもよかった。身構えることも、唇を噛み締めることも、ましてや逃げ出すことさえも。
 一体なにが起きたのか、なにが起きているのか、まるで理解出来ない。なにを考えているのか、なにがしたいのか。こんなの、有り得ない。有り得ないのに。
 アイジーはなにも言えないでいた。それでいいと思えた。
「見ろよ、この本、すげー古いぞ」
 ハルカッタが腐った花のような色をした蔵書をひょいと鷲掴む。シェルハイマーは埃っぽさに咳込みながら、破れそうなページをめくって発行日を調べた。
「古いったって精々四十七年前だろ」
「四捨五入したら百だ」
「どこで四捨五入してんだよウスラトンカチ」
「シフォンドハーゲン、そっちに紛れこんだ本はなかったかい?」
「…………まだ、見てないわ」
「おいおい、ちゃんとやってるのか? 調べると見落とすは違うんだぞ」
「ちゃんとやってるわよ」アイジーは声を揺らしながら笑った。「どっちが早く整理できるか、賭けてみる?」
「ハッ、望むところだ!」
 二人はパッと身を跳ねさせて棚に向かう。手や目を素早く動かしながらあーだこーだと唸るように呟いた。
 なんだか信じられなかった。夢のようとはいかないまでも、明るい気持ちだった。アイジーはさして急ぐでもなく書物を整理していく。ただこうして気兼ねなくいられることに喜びを感じていた。もしかしたら、まやかしかもしれない、騙されているのかもしれない。新手の方法でからかって、アイジーを馬鹿にしているのかもしれない。まだ信用は出来ない。それなのに、その形の良い唇から突いて出るのは快い笑みだった。
「ジャン、ジャ、ジャーン」
 ハルカッタは白い歯で笑顔を見せると、まるで手品師のように仰々しい所作で並び終えた棚を主張した。
「おしまい」シェルハイマーも嬉しそうに言った。「おやー、そちらはまだまだ時間がかかるようですなー」
 アイジーは肩を竦める。天井を仰いで「そうみたい」と手を広げた。
「もう終わっちゃうなんて……どんな魔法使ったの?」
「魔法だってよ、ギーガ。俺たちはいつの間にやらおとぎの国の住民だ!」
「まあニヴィールが寝てる間にやってるチェーンソーの鳴き真似だってなかなか魔法みたいだよ」
「もっぺん言ってみろくそったれ」
「おっと、ミスタ・チェーンソーがお怒りだぞ。次の棚まで逃げろ!」
 そう言って、また書物の整理に取り組む。シェルハイマーはまるでジャグリングのように書物で手遊び、ハルカッタは本棚の落書きを目聡に見つけて点数をつけたりしていた。
 最初はどうなるかと心を曇らせた書架棟整理も、次第に苦ではなくなってくる。重いものを持ってくれたり高いところにあるものを自ら取ったり、そんな紳士的な行為はなかったにしろ、不快に思うようなことはまるでなかった。まるで別次元にいるかのように錯覚して、この二人は誰なのかしらとさえ思い悩む。
 そんなの、誰でもない、ギーガ=シェルハイマーとニヴィール=ハルカッタだ。

 ずっと自分を馬鹿にしてきた筈の、厄介だった筈の男の子たちだ。

「ここはこんなもんかな」
 シェルハイマーはパンパンと手を叩き、埃を払う。やっと一階の半分ほどが終わったころ、ハルカッタは「やれやれ」と床にへたりこんだ。
「本当に悪夢みたいなやつだぜ、あの“ホモの女王様”!」
「まあ、あのキーナ=糞=ペレトワレに比べりゃまだマシな部類だとは思わないか?」
「ペレトワレ教授にそんなミドルネームはないわ」アイジーは憤慨して言った。「もしかしてそれ、ルビニエル教授仕込み?」
「その通り!」
 シェルハイマーは元気よく答える。歌うように明るかった。一瞬、本当にシェルハイマーかと疑うほどに、陽気なものだった。
「あの人は面白い人だよ」
「ヒューイが世話になってるし」
「デッド副指揮官はおっかねえけど、こいつもヒューイが世話になってるから恨みつらみはナシだ」
「世話になってると言ったら護衛官の雌豚二匹もな」
「まったくもってその通り」ハルカッタは慎重そうな声音を作る。「いつか見返してやりたいものさ。いつかと言わず今すぐにでも」
「それ二人の前で言ってみなさいよ、花束でも持っていったらもう完璧じゃない」
「完璧に、笛にキスされて、おまけに俺たちは牢にぶち込まれるだろうな」
「いっぺんぶち込まれたほうがいいわよ、貴方たち。その腐った性根が叩き直される筈だわ」
「薄情なことを言うね」シェルハイマーはべっと舌を出す。「大嫌いなブサイク=マッカイアには優しくするくせに」
「ハハッ、マッカイアって本当“プラウン”だよな!」
「“エビ”……? どういう意味?」
 アイジーがそう聞くとシェルハイマーは愉快そうに噴き出した。ぷくくと失笑するように肩を揺らしてハルカッタの背中を強く叩く。
「ハルカッタンジョークだよ」
「ハルカッタンジョーク?」
「ほら、エビってさ、頭を千切って食べるだろう?」ハルカッタは自慢げに言った。「つまりそういうことだよ。顔がないほうがいいってこと」
「最低だわ!」
 アイジーが真っ赤になってそう返すと、シェルハイマーはさらにげらげらと笑い転げた。わなわなと震える手を押さえつけてアイジーはぎっとハルカッタを睨みつける。ハルカッタは眉をひょいと上げて肩を竦めた。
「最低で結構だね。ハルカッタンジョークは“最低最悪の最高峰”がモットーなもんで」
「ジョークの中身じゃないわ、それを彼女に言うなんて最低だって言ってるのよ。第一ブランチェスタは不細工じゃないわ」
「悪いが俺はブランチェスタ=マッカイアって女が大嫌いだからね。あいつを罵れるなら最低で構わないよ」
「お前って相変わらず人でなしだな、ニヴィール」
「お前こそ小生意気だぞ、ギーガ」
「どっちもどっちよ、貴方たち恥を知りなさい」
 アイジーは腹立てながら本をばらばらと引き抜いた。それを座り込むハルカッタの頭へと雪崩るように注ぐ。ハルカッタから低い悲鳴が上がったあたりでアイジーはすっきりした。



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