ブリキの心臓 | ナノ

2


「やあ、シフォンドハーゲン」
「今日もご機嫌麗しゅう」
 アッシュのない茶髪にブルネットらしさのない黒髪――ギーガ=シェルハイマーとニヴィール=ハルカッタが、振り返ったその目の前に堂々と佇んでいた。
 アイジーは目を見開く。
 あまりに突然で逃げ損なってしまった足の爪先をぎゅっと固める。二人の様子がいつもと違うことにも気づかずに、アイジーは俯いた。
 そうだ、なにか他のことを考えてこの場を乗り切ろう。朝食べた黄金色のスクランブルエッグに甘いマフィンの香り。オーザが休みだからと言って朝からピーチウォッカを飲んでいたのをイズはカンカンになって怒っていた。エイーゼが『サンドリヨン』を聞かせてくれたのでそれに合わせてハミングをした。チェリーカットがコショウの分量を間違えたのか添えられたブロッコリーが最低な味をしていた。ここに来ると真っ先にジャレッドに話しかけて、ブランチェスタの誕生日がとうに終わっていることを知った。さっきはファルコとロイスがまた悪戯をして追いかけられていて――そして今自分はこの厄介な二人を目の前にしている。
 どうしよう、逃げられない、思考ですら追い払えない。今日はなにを言われるのだろう。もううんざりだ。言い返すにもやっとで。なのにきっと彼らはまた、ナイフか剣みたいな言葉をまるでゲームでもしてるみたいに自分に投げてくるのだ。いつ死ぬんだ、だとか。死んだほうがいいんじゃないの、だとか。まるでアイジーが、それを自覚していないかのように。
「おい、顔を上げろ」
 いやだ、と思った。アイジーは眉を寄せる。
 だからこの二人に出くわしたくなかったのだ。顔を合わせたって碌なことにはならない。自分とこの二人は相容れない。相容れないのに構ってくる。本当に厄介な人間だ。
「……上げろって言ってるだろ」
 ああもう知らない。私は知らない。無視を決めこんでいると、ふっと挑発するような掠れた笑みがどちらからか漏れた。
「聞く耳も持てないってか、貴族様」
 アイジーは反射で手を上げた。その口煩い頬をひっぱたいてやりたい。もういい加減にしろと、貴族だのなんだのと耳障りなんだと。その小生意気で人でなしな口先を今すぐぺしゃんこにしてやりたい衝動に駆られる。アイジーはそのまま上げた手をシェルハイマーに向かって振り下ろそうとして――しかし後ろから、誰かにその手を掴まれた。

「そこまで」

 つい最近聞いたような落ち着いた声だった。その声の主は小さくピリリリと笛を鳴らして、アイジーの手をゆっくりと下ろす。それからアイジーの隣に立ち、シェルハイマーの腕を掴んで「確保」と呟いた。流れるような長い黒髪がアイジーの目に映る。紅い眼差しをした、彼女は護衛官・アリス=ヘルコニーだった。
「ミスタ・ギーガ=シェルハイマー、《オズ》の風紀を乱したものとし、ペナルティーを科します」
「は?」
 いきなり宣誓されたことについていけず、シェルハイマーは間抜けな声を漏らす。その顔といったら本当に見物でアイジーが思わず噴き出したくらいだった。いつもの彼ならそれをとやかく指摘しただろうに、肝心の彼は護衛官に腕を掴まれていてそれどころではなかった。隣で口をぽかんと開けているハルカッタもそれをただ見つめているだけだ。暴れるシェルハイマーを押さえつけるアリス=ヘルコニーはじりっとその目をハルカッタにも向ける。
「ミスタ・ニヴィール=ハルカッタ、貴方も同罪です」
「え」ハルカッタは小さく肩を震わせる。「なんだって」
「ペナルティーを科します」
「なんだそれ……やってられるか!」
「こら、逃げるなニヴィール!」
「離せギーガ」
「ふざけんな、お前だけ逃がしてたまるか」
 見捨てて逃げ出そうとしたハルカッタをシェルハイマーが掴む。そんなシェルハイマーをアリス=ヘルコニーは確保している。なんとも言えない面白おかしい図式が出来上がっていた。
 アリス=ヘルコニーは煩わしそうに二人に言い放つ。
「静かになさい。二人仲良く牢に入れられたいの?」
「滅相もございません」
「ぼくたちペナルティーでもなんでもします」
 あまりの心地好さに思わず笑みがこぼれた。アイジーは口元を覆って肩を震わせる。ざまあみろってのよ。護衛官に捕まりおぶおぶしだした二人にアイジーは心中で舌を出した。
 そういえばさっき、ファルコとロイスが“護衛官から逃げている”と言っていた。もしかしたら、その二人を追った護衛官が、ここを通ってくれたのかもしれない。だとしたら、あの騒がしかった二人に感謝をしたいと思った。アイジーはほくほくとした気持ちを抱きながら、厄介な二人の惨状をしみじみと眺める。
 このあいだアリス=ヘルコニーは餌遣りのときに言ってくれた。次からは注意すると。それがこれほどにまで心地好い作用を齎してくれるとは思いもよらなった。あの他愛もない時間がだんだんと愛おしく感じられる。心底清々しい。
 しかし、アリス=ヘルコニーの猛威はそれだけに済まなかった。掴んだままの手首をぎゅっと強く握り直し「貴方もです、ミス・アイジー=シフォンドハーゲン」とアイジーにも告げる。
 アイジーは油を注しそこねた歯車のように一瞬固まってしまった。
「未遂とはいえ、貴女は彼を傷つけようとした。本来なら厳重注意ですが、貴女には前科があります。それを考慮し、貴女にも彼らと同じペナルティーを受けてもらうわ」
「そんな!」
 アイジーは一オクターブも声を跳ね上げる。心地好かった全てがたった数秒で砂塵へと化した。やーいやーい、ざまあみさらせ、と囃し立てる二人にアリスは「おだまり」と低く言った。あくまで厳格なその口運びにアイジーは脱落しそうになった。どうしてこうなってしまったのかとうなだれる。こんなことなら注意なんてしなくてよかった。いや、悪いのは自分も同じなのだが、にしてもこれはひどい。どうしてやり返してはいけないのかと抗議しそうになった。しかしすぐに、相手があの護衛官であることを思い出して、その意欲を引っ込める。アイジーもシェルハイマーやハルカッタ同様、やるせなく頭を垂れた。アリス=ヘルコニーは満足そうに頷いた。
「ミスタ・シェルハイマーとミスタ・ハルカッタは、今までの見過ごした分も含めて、死ぬ気で取りかかること」
「はい、死にます」
「いや、死ぬなよ」
 ふざけた二人の頭をアリス=ヘルコニーは頭突きした。もしかしたらハートの女王の呪いに憑かれたバクギガンよりも、彼女のほうが絶対王政なのかもしれない。
 額を痛そうにする二人を見て、アイジーはそんなことを思った。



 結局、与えられたペナルティーは“書架棟の整理”だった。
 ペナルティーを科す義務を与えられたのはメイリア=バクギガンで、アイジーたちと顔を見合わせたときは口元を引き攣らせていた。なにをやっているんだ君は、とでも言いたげな目をアイジーに向けながら躊躇いがちにペナルティーを告げたとき、シェルハイマーとハルカッタからは甲高い悲鳴が上がった。
 なんでも書架棟の整理はペナルティーの中でも一番の不人気らしく、二人は既に十二回ほど経験しているのだとか。
 そんなにペナルティーを喰らって大丈夫なのかと思ったが、それよりも書架棟の整理という言葉の重みにアイジーは驚いた。
 書架棟の書物は元々所定の位置が決まっているらしく、人が借りるたびにあっちこっちへと移動してしまっているようだ。それを元の位置に戻すのが整理内容なのだが、なにぶん量が凄まじい。丁重に扱わなければならない物も山のようにあるし、違う階の本棚に紛れ込んでいたりもするのだとか。確かにこれを聞くとやる気が一気になくなってしまう。そして極めつけは、無尽蔵であること。毎日毎日人が立ち入る書架棟は、整理を終えてもすぐに本棚が乱れていく。一度整理した棚はもう配慮しなくてもいいようだが、新たなペナルティーを喰らってそれもまた書架棟の整理だとしたら、確かに辟易するだろう。整理は一度したからといって暫くしなくてもいいという代物ではない。無尽蔵の整頓――不人気である理由はこれに尽きるだろう。
「あの“ホモの女王様”め!」
「そんなスラングを吐くだけの度胸があるなら本人の前で言ったらどう?」
 本棚の中身をチェックしながら叫ぶシェルハイマーに、アイジーは冷淡に返した。
 今はラベル確認をしているが、どうも空気がギスギスしている。この三人が集まればこうなるのは目に見えていたのだが、やはりわかっていても居心地の悪さが変わるわけでもない。アイジーは溜息をついて次の段をチェックしていった。
 窓から差す日も心地好いこの日に、どうしてこの二人とペナルティーをこなさなければならないのかと思った。もううるさい。喋るな。そう思いながらも、耳を突き抜けるように会話は進んでいく。
「そう甘い声でカッカすんでない、相棒よ。シフォンドハーゲンも俺たちと同じペナルティー喰らってんだ、笑えるじゃないか」
 そう言うハルカッタにアイジーはうんざりするように返す。
「十三回目の書架棟整理をしてる貴方の愉快さに比べたら私なんて蟻のようなものよ」
「お前が蟻なら俺たちは何者だっていうんだ? ゴミか?」
「むしろゴミにしか見えないの……あら、なんで私ったらゴミに話しかけてるのかしらね」
「喧嘩売ってんのかテメェ」
「買えるなら買ってごらんなさいよ」
「なんだと!」


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