ブリキの心臓 | ナノ

1


「ねぇ、ジャレッド、ちょっと相談があるんだけど」
 青薔薇のような瞳がくすんだスミレ色と搗ち合った。
 《オズ》のエントランスホールでたまたま出くわしたジャレッドに、アイジーは声をかけた。進路を遮られたジャレッドは特別嫌な顔をせず、かと言って愛想よく微笑むわけでもなく、淡白な表情で「なに」と口少なく返す。
「ブランチェスタったら、もう秋だっていうのにあんな向こう見ずな薄っぺらい服装をしているじゃない?」
「ああ……あれは確かに異常だ。見てるこっちが寒くなる」
 いつかアイジーも言ったであろう言葉をジャレッドはそのまま反復した。どうやら同意見らしい。
 ならば話は早いと、アイジーは口の横に手をやってジャレッドに顔を近づける。
「これは内密にお願い」風の囁きのような小さな声で、アイジーは言った。「ブランチェスタの誕生日に防寒具を贈りたいんだけど、コートと靴下とマフラーはこっちが担当するから貴方は手袋か帽子を贈ってくれないかしら」
 一応ではあるがジャレッドとブランチェスタは婚約者だ。舞踏会の日、見事ダレッド=シベラフカに気に入られたブランチェスタはなんやかんやでジャレッドと婚約を結ぶことに相成り、未来のシベラフカ婦人として立場を確立させた。二人の関係は“婚約者”としてはいまひとつ華に欠けるが、もう随分と良好な仲になったものに思われる。ジャレッドなら一つ返事で了承してくれるだろうと思っていたのだが、それは少し違った。
 ジャレッドは数秒固まって、それから呆れを孕んだ溜息をつく。まるでアイジーがへまを仕出かしたかのような胡乱な目つきをしながら、小刻みに首を振った。
「アイジー、それは手遅れだろ」
「え?」
「知らないなら教えておくけど……」ジャレッドはアイジーの耳に口を寄せて脅かすように言う。「マッカイアの誕生日はとっくに過ぎてる」
 一瞬、アイジーは時計が止まったかのような感覚を覚えた。脳内のビジョンが一瞬で暈されていった。ジャレッドが少し離れた途端心地好い風がこめかみのあたりに吹きこむのを感じる。まるで耳から耳へ、空になった頭蓋を横切るように流れていく感覚。ようやっと空飛ぶ意識を取り戻したアイジーは、震えるような声でジャレッドに問いかける。
「嘘でしょう」
「嘘じゃない」
「いつ」
「夏ごろかな……少なくとも今贈ったら“いいよ、また来年に一つ頼むわ”とか“おいおい、大胆すぎるフライングじゃねえか”とか“時間を数ヶ月ばかり戻してからよろしく”とか返されると思う」
「うわ、言いそう」
 してやられた、と思いながらアイジーは悶絶する。迂闊だったのだ。ブランチェスタに誕生日を確認する前にこんな計画を立てたから。今頃マフラーをせかせかと編んでいるユルヒェヨンカを想像すると申し訳なさが募る。この数日間は一体なんだったんだろうと思った。
 あからさまに意気消沈したアイジーを見て、ジャレッドが「いいだろ」と呆れかえったように告げる。
「誕生日に拘らなくたって、別に普通に贈り物としてあげればいい。むしろ今贈らないと、あいつが寒いままだ」
「でも、誕生日プレゼントに憧れてたのよ……友達みたいじゃない」
「友達なんだろ。また来年にでも他の誕生日プレゼントを贈ればいい」
「また来年ね……」
 アイジーは軽く溜息をついた。それから曖昧に苦笑して「それもそうね」と呟く。ジャレッドはなにも言わず、なににも触れず、アイジーとの会話にピリオドを打ってその場で別れた。
 アイジーは「また来年だわ」と陰鬱に繰り返す。
 エントランスホールを抜けてクリスタルアーチをくぐる。秋の光を浴びたクリスタルは不思議な色の影を落としていた。当直管理人の代わりに自分の名前を書く。吹き抜けの天井からは真っ青な空が見上げられた。さて今日はどうしようかとアイジーはその足を止めた。今朝のうちに何処へ行くか考えておけばよかった。大体のやることは決まっているのだが出来れば捗りやすい環境でやりたいものだ。まずはペレトワレを探したいのだが、彼女は意向により研究室を持たない。ここに行けば必ず会える、というような場所もない。さてどこから探したものかと首を捻らせた。それでいて、なるたけ面倒な人間に出くわしたくない。厄介なあの二人、シェルハイマーとハルカッタなど論外だ。茶髪と黒髪の二人組を見かけた瞬間、逃げ出すくらいの用意をしていなければならない。あとは、最近は見かけなくなったが、ゼノンズもその括りに含まれる。以前シオンと揉めた一件であのゼノンズが絡んでいたと知ったときは怒りで沸騰しそうになったものだ。もう暫く口を聞いてやらないし、第一どんな悲惨なことを言うか自分でもわかったものじゃない。
 どうして自分の周りにいる、それも自分に構ってくる男の子はこんなどうしようもない人間しかいないのだろうと思った。まるで自分の格を思い知らされているような気分になる。ゼノンズは押しつけがましいしあの厄介な二人は相当に厄介だ。弱っているときにかぎって大きな声で騒ぎ立てて、馬鹿にしたような笑顔を浮かべる。立っていられなくなるような打撃を与えて、“自分は生きていちゃいけないんだ”と感じさせるのだ。ただ俯いてその姿を見ないようにしているアイジーは、見つけた彼らにしてみれば面白くない存在なのには違いないだろう。だからといってもあそこまでしなくてもいいだろうにとアイジーは思った。二人のことを馬鹿にしたことなんて、あのときあの一瞬まで、一度だってなかったのに。
「やっほう、アイジー!」
「今日も可愛いね、ちょっと頭を撫でてもいいかな!」
 気づかない間にひょこっと姿を見せたのはファルコ=メイヒューとロイス=イーガンだった。二人は愛嬌のある話し方でどこか急かしたふうに小走りでアイジーの周りをぐるぐると回っている。二人とも年上のはずなのにどことなく幼く、アイジーは思わずくすくすと笑ってしまった。
「こんにちは、ファルコ、ロイス。そんなに忙しくしてどうしたの?」
「あれ、俺の言葉は無視?」
「調子に乗ってるからだぞファルコ」うるさいぞロイス、というファルコの言葉を華麗に無視する。「実はさっき外のベンチの背もたれにガムをくっつけちゃってね、そこに護衛官と出くわして今逃げてるところさ!」
 まったくこの二人は……、とアイジーは溜息をついた。そういえばこの前シオンも二人がやんちゃしすぎることに呆れかえっていた。確かにこの二人はこんな歳にもなってなにをしているのかと思う。これがまだ十歳ほどの少年たちならば“元気ね”と笑って済ませることができたかもしれないが、彼らはそんな年齢から八つも七つも離れていた。
 アイジーは首を振って、吐き出すように強く言う。
「本当に貴方たちって子供よね!」
「おっと、年下の女の子に言われちゃ俺たちも立つ瀬がないぞ」
「どうせならアイジー、君がしっかり教育してくれよ」
「ロイス、そんなことしてたらまた鳩の糞が降ってきちゃうわよ? 大変、傘をささなきゃね」
「思い出すのも恥ずかしいんだからそれは言わないでよ!」
「さっきから俺は無視か!?」
 そう言った途端二人は自分たちが逃げていたことを思い出したのか「やばい、護衛官にぶち抜かれるぞ!」と体を震わせて走り去る。ファルコだけは思い出したように振り返って手を振ってくれたので、アイジーも振りかえした。とても騒がしい数秒間だった。
 その騒がしさが、徒になったのかもしれない。ここが静かな草原だったなら真っ先に気づいただろう。たとえハンモックの上で昼寝をしていようと、白いパラソルの下でアフタヌーンティーを楽しんでいようと、きっと猫よりも目敏に察知していた筈だ。少しだけ気を緩めてしまった、それがいけなかった。アイジーは少しも気づかなかったのだ。そして気づかれなかった彼らは青年二人と入れ替わるように、アイジーの前に姿を見せる。


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