ブリキの心臓 | ナノ

1


 空の色は芳しいものではなかった。透き通るような曇り空で、ぺったりとした薄暗い色が天井のように続いている。雨は降ってこないだろうが、それにしても気分の乗らない天気である。心なしか《オズ》にいる研究員もいつもより少ないような気がした。こういう日はいつもより余計に家に篭ってのんびり寛ぎたいと思うものだろう。半分惰性で来ているアイジーだって、今日ばかりは休んでしまおうかと出掛けに過ぎったものだ。
 まず《オズ》へ行くのは義務ではない。研究員たるもの最低参加日数をこなしていれば出欠は自由だ。呪いを解いた人間、たとえばユルヒェヨンカなんかは、研究員機関としてそれについての深い探究のため、普通の研究員よりは出欠を拘束されるが、それにしたところで大したものではない。
 金銭もなにも絡まない、あるのは意欲と時間という浪費だけ。年々増える呪われた人間は、自分の運命を左右した呪いをなにがなんでもつきとめたいと思う。病院と一緒なのだ。誰しも自ら足を運ぶ。だから、出欠は個人の裁量に任されている。
 アイジーは《オズ》の研究員になってからほぼ毎日当直している。そりゃあ噂にもなるだろう。暇人かと問いたくなる――アイジーは実際暇人だが――そのハイペースは、先輩の研究員から見ても目を見張るものがあった。一時期キーナ=ペレトワレがアイジーのことを誉めそやしていたと聞くが、これはひょっとしなくとも当たり前のことだろう。未だない研究に貪欲な姿勢は感嘆の域を易々と上回る。
 そう、研究に貪欲だった。一刻も早く呪いを解きたかった。周囲は死の呪いだからと承知していたがそれだけじゃない。シオンにもユルヒェヨンカにもブランチェスタにも話していない秘密――アイジーは災厄の子だった。
 だからこそ貪欲だった。なにもかもを調べようとした。誰よりも開拓に積極的になり、なによりも呪いのことを考えた。けれどそれにも、結果の得られない努力にも、もうとっくに疲れてしまった。惰性。そう、惰性だ。アイジーは貪欲どころか、最早惰性によって生にしがみついていた。前向きな発想を持てないまま、後ろ向きな脳みそのままで、今《オズ》にいた。
 ぼんやりとした足取りで《オズ》の敷地内をぐるぐると回っている。雨に怯えるふうでもなくただただ歩いているアイジーは周りから見れば幾分か様子がおかしく見えたかもしれない。だがアイジーは“お高い貴族様”だ。誰が心配げに、どうしましたか、などと聞けるだろう。結果アイジーは一人っきりでオズの中を歩き回っていた。自分でも狂気の沙汰だと思いながら。
「……あれは」
 丁度《オズ》の抱える中ぶりな池のあたりにさしかかったときのこと。畔に淡い緑の影を作るグミの木の下、真っ黒な少女が佇んでいた。すらりとした四肢を覆う服も長い髪も真っ黒で、ただ病的に紅いその目だけがやけに印象に残る。腰のホルスターには鈍く光る拳銃が周囲に威嚇していて――――間違いなく、あの彼女は護衛官のアリス=ヘルコニーだった。
 アイジーは思わず引け腰になる。護衛官に対し、そんなにいいイメージを抱いていない。前の一件から“あまり関わらないようにしよう”というのがアイジーのスタンスだ。彼女たちを見ればなにやら気まずい気分になるし目を合わせるのも憚られてしまう。どうにも今の心地も穏やかでなく、出来ることなら相手にも気づかれずにこの場をやり過ごしたい。
 幸い彼女はアイジーのほうを向いてはいない。池の中に魚でもいるのだろうか――なにやら餌のようなものをばらばらと撒いている。バシャバシャと小さな飛沫を上げて沈んだり食べられたりしていた。しかしよく見ると――魚ではないらしい。魚とは程遠い形状だ。それは触れば柔らかそうな貝殻色の羽を持っている、間違いない、池の中を鳥が泳いでいた。
「……異種交配?」
 その奇妙な光景に思わず見蕩れてしまって、アイジーはその場に立ち尽くした。すると餌を撒くのに従事していたアリス=ヘルコニーが、アイジーの姿を見つける。アイジーはぎくっとなって肩を震わせた。ああ、もう、すぐに立ち去ってしまっていればよかったのに、今からでも間に合うかもしれない、軽く会釈をしてすぐに小走りで――と脳みそを回転させていると、アリス=ヘルコニーは持っていた餌の入った紙袋を見せつけた。淡々とした無表情で、アイジーに問いかける。
「貴女も、やりますか? 餌」
「是非」
 好奇心には勝てなかった。アイジーは小走りで、畔へと向かった。



 会話は、なかった。なんにもなかった。
 ただ差し出された娼婦のようなピンク色をした餌の小さな丸い粒を、無遠慮にぽんぽんと池に投げ入れるだけだった。ひんやりとした風が吹くたびに水面は揺れて池の底が浮かび上がる。透明度の高さに驚かされた。池の中には日差しの色にも似た砂利が敷き詰められ、盛り上がった堅そうな岩肌は化石が埋め込まれたかのような模様を讃えている。中で泳ぐ鳥たちはとても優雅だ。白鳥とも違うその高貴さに思わず感嘆の溜息を漏らしてしまう。
 アイジーは恐る恐る、隣で餌を撒くアリス=ヘルコニーに尋ねる。
「この鳥は、なんの異種交配なんでしょう?」
「知りません」
 膠もなかった。取りつく島もないとはこのことだと思った。アイジーは果てしない無念感に襲われたまま「すみません」と視線を下に遣った。
「……この子達は、この餌が好きで、もう一つのほうのメーカーの餌を遣ると、怒って啼いてきたりする」
 するとアリス=ヘルコニーはぎこちないとも言い難い微妙な区切りを入れながら、まるで緊張しているかのような声音で言った。視線は池から逸らさないが、意識はアイジーへと向いている。それにアイジーは不思議に思いながら、視線を彼女へと戻した。
「春になると、交尾が始まって、池の色が少しだけ変わる。綺麗な水でないと生きていけなくて、だからゴミなんかがあるとすぐに取り除かなきゃいけない。あと、強い日差しの夏には、岩陰に潜んでたりする。多分、暑いのが苦手だから」
「……まるで生き物博士みたい」
「私はよく餌を遣るから、見てわかることなら……でも詳しいことは、なにも知りません」
 もしかしたら、さっきのやり取りに少しばかり罪悪感を抱いていたのかもしれない。だからこそこうやって自分の知っている限りを教えてくれているのだとしたら。そう思うと、アイジーは笑わずにはいられなかった。可愛い発想をしてくれる。なんとかにやける頬を隠して「ありがとうございます」と彼女に返した。
「この前、ファルコ=メイヒューとロイス=イーガンがここにゴミを投げました。とても遺憾だわ」
「ごもっともですわ……」
「私の役目は《オズ》の治安を守ることだから、多分そういう行為も、罰しなければいけない。でもそれは煩わしいから、いい加減自律してほしいの」
 多分、思ったことをぽんぽん口に出す喋り方をする人間なのだろう。初対面のときの威嚇的な口調も威圧的な声音もなく、ただの少女としてのアリス=ヘルコニーはそんな不器用そうな印象を抱いた。
「貴女はあの一件以降なにも問題は起こしていないようで、模範生の模範生だと、バクギガン教授やペレトワレ教授から聞いています。貴女はきっと、とても正しいわ」
「……ありがとうございます」
「褒めてはいません」
 それが当たり前だから、とアリス=ヘルコニーは続けた。なんというか、無下にしなければ親しげにもしない、微妙な距離感を取る人間だった。しかしアイジーにとってはそれなりに心地好く、また自分とどことなく相通じるものがあるなとも思った。もしかしたら、ああいう第一印象やこういう立場でなければ、かなり親しい友達になれたかもしれない。少なくともそう思わせるだけの雰囲気を、アリス=ヘルコニーは纏っていた。
「そういえば、今日はミス・アルフェッカ=ハイネとは一緒ではないのですか?」
「アルフェッカは今、外」
「外?」
「人探しをしています」
 それを聞いて、アイジーは身を強張らせる。先ほどのアリス=ヘルコニーの言葉に思い当たる節があったのだ。
 アリス=ヘルコニーとアルフェッカ=ハイネ。この二人は血の繋がった双子で、数年前に両親が殺された。犯人が《青髭の呪い》を持った人間であること以外はなにも知らず、その犯人に敵討ちをするために《オズ》にいる。これはあの日バクギガンから聞いた話だった。もしかしたら、今そのアルフェッカ=ハイネは犯人探しに行っているのかもしれない。護衛官が一人もいなくなるのはまずいから、アリス=ヘルコニーを残して。
 そう考えると固定されてしまって、アイジーはそこから抜け出すことが出来なくなった。ふつふつと物思いに耽っていると、隣のアリス=ヘルコニーが「多分……」と口を開く
「……貴女の思っていることは的外れだと思います」
「えっ?」
 アイジーは間抜けな声を上げる。


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