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「……あら、貴女、だあれ?」
頭から冷水を浴びせられたかのような緊張がアイジーを襲った。
息が出来ない錯覚に陥る。
いっそ夢でないかと思ってしまいたかった。
声の合った方を振り向くと、三人の人影が廊下に立っていた。方向からしてトイレから帰ってきたのだろうか。一人は背の高い少年で、二人は華奢な少女だった。三人ともアイジーと同い年くらいだ。一人の少年は同い年と思うには少々背が高すぎたが、悪戯好きそうな形の目や飴色の髪の柔らかさは歳相応のそれだった。少女の二人は黒髪と明るい茶髪、どっちも優しくカールしていて、女の子らしいワンピースを着ていた。
アイジーの頭は真っ白になる。呼吸の仕方も、歩き方も、声の出し方すら忘れてしまったようだった。
見られた。見られた。見られた。
悲鳴のように心中で叫ぶアイジーには気付きもせず、三人は首を傾げて話しかける。
「もしかしてお前もエイの友達か?」
「あら! だったら一緒に中に入りましょうよ」
穏やかに友好的な言葉をかけてくるけれど、その眼差しはあくまでも嫌疑的だった。三人を前にして青ざめるアイジーを怪しんでいたし、もしやならず者ではないのかと下劣な発想にまで至っていた。
せめて、なにか、なにか、言わなきゃ。
怯えた息を整えてアイジーは言葉を紡ぐ。
「ぁの、わたし、」緊張で一オクターブ声が跳ね上がった。「あの……っ」
二人の少女が馬鹿にしたようにクスクスと笑う。
アイジーにとって世界は屋敷の中だけだった。家族や召使い以外の人間と話すことなどはまずないし、他の人間の顔も見たことがない。だから、自分と同い年の少年少女とコンタクトを取るのはこれが初めてだった。初めての経験だった。怖くて怖くてなにも言えない。なにも考えられない。見られてしまったパニックとバレてしまったパニックが混在して、上手く舌が動かなかった。出来ることなら逃げ出してしまいたい。この場から永遠に去っていって、早く死んでしまいたい。
すると背の高い少年がアイジーを眇めた。
「……お前、エイの従姉妹か?」
その言葉にアイジーはかっと顔を赤くする。青ざめていたのが嘘のように朱が散り、それと同時に体温が上がっていった。
アイジーの顔を見て、彼はそう言った。従姉妹か、と。本当は従姉妹ではなく双子の妹だけれど、エイーゼと似ていると思われたのは間違いない。これ以上は危険だった。アイジーは唾を飲み込む。「えっ、エイーゼの従姉妹?」「や、だって顔似てるだろ? 可愛いし」「髪の色だとかは一緒よね」「でも、今日従姉妹が来るなんて聞いてないわよ」どうしよう。どうしよう。どうしよう。もうアイジーに周りの声など聞こえなかった。極度の緊張で身体はコチコチに固まり、脚は石になったみたいだった。どうにかしなきゃいけない気持ちはあったのになんにも思いつかなくて、ただ時間だけが経っていく。
「とにかく、そんなところでぼうっとしてないで、こっちに来いよ」
背の高い少年がアイジーに手を伸ばした。アイジーは怯えたように目を潤ませて、反射的に一歩後ろに下る。少年はその態度が気に食わなかったのか眉を潜めた。睨みつけるようにアイジーを見て、一歩踏み出してくる。まるで狩りをする獅子のようで、アイジーは更に身を強張らせる。
誰か助けて欲しかった。イズかオーザか召使いが来て、自分をどこかに連れて行ってくれるのではないかと、それをずっと祈っていた。でもそんなことがあるはずもなく、少年はずんずんとこちらに近づいてくる。
もうだめだ。
おしまいだ。
そう思ったアイジーが小さく悲鳴をあげたとき、奥の方からドアが開く音がした。
「おい何をしている、みんな待ちくたびれてるぞ」
ドアを開けて呆れたように顔を出したのは、他の誰でもない、双子の兄のエイーゼだった。
二人の少女は黙って部屋に入っていく。ドアの脇に身体を寄せて通る隙間を作ってやり、そして部屋から出たエイーゼは背の高い少年に声をかける。
「おいテオ、なにやってる。カードはとっくに終わったぞ。次はボードゲームだ」
そう一歩踏み出したとき――エイーゼはやっと気付いた。
自分の半身が、誰にも知られてはいけないアイジー=シフォンドハーゲンが、少年の前に立っている。
「あ、悪い」
テオと呼ばれた少年は短く答える。その奥にいる半身は怯えた目でこちらを見ていた。そして気まずげに俯いてじっとしたまま動かない。
エイーゼの中に怒りがこみ上げてきた。
あれほど動くなと言ったのに、この馬鹿な半身は部屋から出てしまった。案じていたことが現実になり、招いた友人に見つかってしまった。だからあれだけ部屋を出るなと言ったのに。こいつはことの重大さがわかってないのか。エイーゼは心臓を掴まれた罪人のように目を見開く。怒りで拳はわなわなと震え、今にも叫びだしてやりたいのを必死にこらえていた。
「なあ、エイ。この子誰? お前の従姉妹? この子も呼んでたのか?」
何も知らない少年はエイーゼに問いかける。アイジーの肩がぴくっと跳ねるのがわかった。
「……いや、こいつは………」
エイーゼは言葉を濁す。もうどうしていいのかがわからなかった。
「従姉妹じゃないってんならなんだよコイツ」
鼻で笑いながら、アイジーを顎で指す少年。その瞬間、馬鹿にされたのだと、アイジーは耳まで顔を赤くした。ぱっと咄嗟に顔を上げてしまい、自分よりもずっと背の高い少年と目が合ってしまう。軽視したような、小馬鹿にしたような、値踏みでもするようなその視線に、アイジーは死んでしまいたくなった。
この場において、アイジーは怪しい人間以外の何者でもない。
テオと呼ばれた少年がこんな反応をするのは当たり前だった。誰でも、明らかに場違いな人間が自分のコミュニティーに入ってきたら、こんな反応をするだろう。恐怖しながら赤らめるアイジーを、少年は意地汚そうに眺めていた。
「お前の知り合いか?」
彼はちらっとエイーゼの方を振り向いて、答えを求める。アイジーもエイーゼを見た。僅かな期待が込められていたのは誰が見るにも明らかだった。エイーゼはその反応を心底腹立たしく思った。馬鹿な妹。馬鹿な人間。燻ぶるような怒りは氷のナイフとなって、アイジーを傷つけるために放たれる。
「まさか。赤の他人だ」
行くぞ、と――エイーゼはアイジーに背を向ける。その反応にすっかり興味が失せてしまったのか、テオと呼ばれた少年もアイジーに背を向ける。もう誰もアイジーを見ちゃいなかった。全ては無かったことのように動き出していつも通り正しく機能しだす。そう、何もなかったように。
アイジー=シフォンドハーゲンなんて、最初からいなかったみたいに。
二人とも部屋に入っていく。ドアは閉じられる。廊下にはもう、アイジー一人しかいない。アイジーはぐっと唇を噛んで走り出す。
何を期待していたんだろう。
エイーゼはもう、自分のことが嫌いなのに。
視界を滲ませる涙はその答えを示している。
夢でも嘘でも幻でもいいから、妹なんだと、誇ってほしかった。
血の繋がった赤の他人
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