ブリキの心臓 | ナノ

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 アイジーの部屋には、シフォンドハーゲン家の中で一番大きい家具ではないだろうかというほどの大きな本棚がある。全部で十段以上あり、取り付けてある滑り梯子を使わなければ一番上には届かない。収められてある本の数は夥しく、イズからは“いつ本の重みで底が抜けるのか心配です”とまで言われる始末だ。オーザなどは“書架でも作るつもりか”と真顔で言ってくるし、今や殆ど口を聞かないエイーゼにしても“おい、お前の部屋にある本棚に物理学の論述書はないか”とアイジーを頼ることもしばしばあるほどだ。アイジーが嫌いなら頼らずに図書館に行けばいいものを、わざわざそうはしないのは、それほどアイジーの本棚を一目置いているからだった。アイジーが十四年のうちに集めたそのラベルには抜かりがなく様々な分野に至っている。そこまであると内容を覚えているかも怪しいし、むしろ未読のものすらあるのではと疑うのが普通だろうが、残念ながらアイジーはその類には存在しない。本棚に並べられてある本はどれも最低十回は読み込んである。お気に入りの書籍なんかは一節ほど暗唱することだって出来ただろう。自分が災厄の子であると知ってから、アイジーは内気になり、外で遊ぶことが少なくなっていった。日に焼けることのない肌が青白くなっていくのに比例し、読んでいく本の冊数やジャンルが増えたのだ。文学書も教科書も啓発書も論文書も、本という本ならなにもかもが、その棚に揃っている。そしてその全てをアイジーは網羅している。学校などに行かなくても、ある程度の知識ならアイジーにはあった。きっと、特定の分野においてなら、ギルフォード校で学んでいるエイーゼよりも記憶と知識に飛んでいるに違いない。彼女の読み込みは実に深く、そして飲み込みは極めて早かった。
「……暇だわ」
 アイジーは果実のような唇を気だるく動かして、今の自分の状況を口にした。
 そう、暇だった。
 アイジーは暇だった。
 それもものすごく暇だった。
 シルバーブロンドの髪をぞんざいにベッドのシーツに乱したまま、細っこい手足をだらしなく伸ばし、さっきまで読んでいた分厚い本を開きっぱなしにして、ベッドの天蓋をどろりと仰いだ。
 ずっと本を読んでいたけれど、もう何回何十回と目を通したものだ。娯楽や勉強というよりは作業に近くなったそれに嫌気がさしてくる、これ以上先を求めたいとは誰だろうと思わないだろう。
 昔は暇になるとエイーゼを誘って庭に飛び出すことが出来た。しかし今はもう出来ない。もし今アイジーがエイーゼの部屋に乗り込んで“ハーイ、エイーゼ! 今暇かしら? 私と一緒に遊ばない?”なんて言ったら――賭けてもいい、絶交される。いや、よくよく考えてみれば今だって殆ど絶交状態だ。これ以上絶交のしようがない。なんだかだんだんさっきの妄言がいいアイディアのように思えてくる。
「いえ……駄目だわ……」
 我に返ったアイジーは一人、消え入りそうな声で呟く。
 アイジーとエイーゼの部屋は物理的には近い。むしろすぐ隣だ。アイジーの部屋の壁をノックすればエイーゼの部屋に届くに違いない。アイジーがたった数十歩勇気を出せば、簡単に会える距離だった。だがアイジーにはそれが出来なかった。出来ないというよりは、禁止されていた。
 ちょうど、エイーゼの部屋に“お友達”が来ているのだ。
 アイジーと違い学校に通っているエイーゼには当然友達が多い。今年は誕生日パーティーを開かないからと、今日エイーゼの部屋に級友たちと集まって楽しく遊んでいるらしい。それも結構な人数だ。確か“テオドルス”と“ジャレッド”……あとは初めて聞く名前ばかりだが、男女問わず、エイーゼの部屋で楽しく盛り上がっていた。そして彼らを家に招待するにあたってアイジーはエイーゼから一つの命令を受けている。
 部屋から出るな、一歩もだ。
 アイジーは災厄の子だ。生まれたときから死に抱かれていて、二十歳までには死ななければならないと、ガチョウ婆さんの予言によって確定されている。そのため、両親はそのことを想定して、アイジーにろくな教育を施さなかった。アイジーに甘いのも、学校に通わせないのも、これが一因している。なによりも、どうせ死ぬのだから。だから、アイジーを社交界に出すことは一度もなかったし、エイーゼも兄弟姉妹の話になると言葉を濁していた。他者がシフォンドハーゲン家でエイーゼ以外の子供を見るのは、まず有り得ないことなのだ。
 “お客様”には絶対に、姿を見せてはいけない。それはアイジーも重々理解していた。
「暇だわ」
 それでも。
 シーツを欹てて聞く隣の部屋の声がアイジーの心を嬲っていく。
 知っての通り、アイジーとエイーゼの部屋は物理的には近い。すぐ隣だ。アイジーの部屋の壁をノックすればエイーゼの部屋に届くに違いない。そしてそれが届くということは、エイーゼの部屋のものもアイジーに聞こえるということだった。
 自分と同い年くらいの少年少女の楽しげな声が、壁越しに振動を伝えてくる。天井へと上り詰めて雪みたいに振ってきて、そのたびにアイジーは涙を流すのをこらえていた。
 羨ましくないわけがない。
 自分とは違い、たくさんの友達がいるエイーゼ。ちょっと高慢ちきで鼻にかけたところがあるけれど、面倒見がよく世話好きで、本当は優しいエイーゼ。羨ましい。そして妬ましい。出来ることならその輪の中に入りたい。自分もその部屋に乗り込んで笑い合ってみたい。はじめまして、私はアイジー=シフォンドハーゲン、エイーゼの双子の妹なの。そう言ってスカートを摘まんでお辞儀をすれば、エイーゼが優しく肩を抱いてくれる。勿論そんなのは夢であり幻だ。こんな馬鹿なことを実際に犯してしまえば、エイーゼは酷く傷つくだろうし自分を一生許さないだろう。エイーゼの友達らは気持ち悪いものを見る目でアイジーを見つめてこいつはなんだとエイーゼに詰め寄るだろう。そうしたらエイーゼも困るはずだ。オーザもイズも困る。ひいてはシフォンドハーゲンが困る。それは絶対によろしくない。
 それでもあんまりだ。
 隣で軽やかに笑っている人達のせいで、今自分がこの部屋で退屈に過ごしているのかと思ったら、なんだか腹が立ってきた。
 ここはエイーゼのうちであるのと同時にアイジーの家だ。彼らの家ではない。彼らの都合のせいで自分が拘束されるなんて真っ平ごめんだし、このまま部屋で窮屈な思いをしていたら気が狂ってしまいそうだ。せめて厨房から何か食べ物を持ってこよう。それぐらいならエイーゼにもバレない筈だ。誰ともすれ違わないように注意して、チョコレートキャラメルでもくすねてこよう。そうだ。それがいい。
 アイジーはのそりとベッドから立ち上がった。
 乱れていた髪を手櫛で整える。自分の部屋のドアにまで近づき、ゆっくりとノブを押した。
 ドアを開けて辺りを見回す。
 誰もいない。
「よし」
 アイジーはなるたけ音を立てないように廊下に出てドアを閉める。勿論隣の部屋にいる人間に気付かれた様子はない。大丈夫だと思った。


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