ブリキの心臓 | ナノ

1


 狼は、いた。それも、人なんかを食べない狼が。誰も信じてくれない自分をただ一人理解してくれた。だから、狼なんて怖くない。


「――ハレルヤ=デッド」


 いきなり名前を呼ばれてハレルヤは振り向いた。聞き慣れた低音に安堵していたため、躊躇うことはなかった。馬乗りになっていた錆釘色のソファーの背凭れから跳び降りて、すっぽりとソファーに座り込む。
「やあ、ジオ」
「ここではそう呼ぶなと言ってあるだろう」
「いいじゃん、この部屋には私たちしかいないし」
「まったく……よく入ってこれたな、ルーヤ」
 そう呆れた溜息をついたジオラマ=デッドは、後ろ手で指揮官幹部室のドアを閉めた。
 ジオラマ=デッドとハレルヤ=デッドは所謂“親子関係”にある。とは言えども見目は少しも似ていない、どうしてもなにもなく血の繋がりがないからだ。幼かったハレルヤが野垂れ死のうとしているのを、ジオラマ=デッドが拾った。もう随分と昔の話だ。
 ハレルヤは元々スラム――貧民の街・ペローに住んでいた。ペローはアイソーポスやグリム、アンデルセンとは違い、治安は頗る悪くとても退廃的で孤独な場所だ。ハレルヤは早くに親を亡くし、七歳の頃まで身一つで生きてきた。色んな危険なこともしかけたしされかけた。今あのときの生活を振り返っても“よく生き残れたな”と思うことがたびたびある。自分でも本当に底辺な世界で生きていたように感じられたし実際そうなのだろう。しかしペローにいて彼女がなによりも惨めだったのが、自分を信じてくれる人間がいなかったことだったように思う。幼い頃より何故だか彼女の言葉はまやかしじみていて、誰もがみんな彼女の言葉には耳を貸さなかった。話し相手の作れるような環境ではなかったし生活上なんら問題はないことだが、“自分を信じてくれる人間がいない”という現実は彼女を曲げるには十分だった。
 何一つ嘘などないのに。
 全て本当のことなのに。
 彼女はずっと《嘘つき》と呼ばれて生きてきた。
 それだけで人は曲がる。そのたった一言だけで、そのたった一言を来る日も来る日も浴びせられるというただそれだけで、人は簡単に捻くれてしまうのだ。
 彼女は《嘘つき》だった。誰からも信用されない、一人で生きていくしかない、過酷な環境に捨て置かれた、独りぼっちの《嘘つき》だった。
 ジオラマ=デッドに、会うまでは。
「ジオ、なんかあったかいのが飲みたい。ミロいれてよ」
「そんなものはここにはない。珈琲か紅茶か、どっちか選べ」
「……どっちも気分じゃない」
「紅茶にしろ、ジャムなら多分奥の棚にある筈だ」
「じゃあショウガのジャムがいいな」
「相変わらず可愛いげのない飲み方をするな」
「育て親がそんなこと言う? ちっさい頃夜寝る前に可愛い女の子になる絵本でも読み聞かせておいてほしかったね」
「もういい……紅茶はやめて珈琲にしろ」
「じゃあバターとウィスキーいれておいてよ」
「お前はまだ未成年だろう、どこでそんな飲み方を覚えてきた」
 睨みつけてくるジオラマ=デッドにハレルヤはべっと舌を出した。
 ジオラマ=デッドもペロー出身者らしく、それこそが彼とハレルヤが出会えた理由でもあった。今の彼はグリムに住み、傭兵を営んでいるが、元はハレルヤと同じようにペローの瓦礫棚を駆け回るだけの人間だったのだ。そんなジオラマ=デッドがペローに居たときの住家をハレルヤが使用していて、彼が――故郷を振り返るような気持ちでだろうか――久々に訪れたときに、運命的に出会ったというわけだ。
 捻くれたハレルヤに、ジオラマ=デッドは色んなことを教えてくれた。家族というもの、食事というもの、文字というもの、作法というもの。自分の体質のことを打ち明ければ、それは呪いが原因だろうと教えてくれた。自分が《嘘つき》でないということを教えてくれた。会話の出来る楽しさを教えてくれた。言葉では届く筈もなかった筈のものを彼だけは届けて、聞き届けてくれたのだ。
「ルーヤ、なにをしていた」
「ん?」
「俺が入るまでずっとあんなふうにぼうっとしていたわけではあるまい。まさかこそこそ机を弄繰り回しちゃいないだろうな」
 ギロリと、鋭い隻眼がハレルヤを射抜いた。傷だらけの顔に険しい皺が寄る。けれど、誰もが厳格そうだと恐れる顔も目も、彼女にとってはちっとも怖くなかった。ハシバミ色の髪が沈黙に静まるのを見つめながら「別に」と平淡に返す。
「空を見てただけ」
「空だと?」珈琲を煎れるためか、彼はようやっと扉の前から動き出した。「これは驚いた。お前はそんなものに情趣を感じるような感傷的な奴だったとはな」
「っるさいなあ、そう言うジオだって仕事の休みには一人でせかせかポエム書くような人間には見えないさ」
「馬鹿を言うな、俺はそんなもの書いた覚えはない!」
「冗談じゃんか。子供相手にむきになっちゃって、意味わかんない」
 ハレルヤはぷいっと拗ねて、ソファーの後ろの窓から伺える青黒い景色を見つめた。
 太陽が街並みの後ろへと引きずりこまれていく。灰色の雲はくっきりと、黄昏を横切りながら光線を奪っていった。月は入れ代わるように存在感を主張させる。暗碧は注ぐように夜を開いていた。木々はその深い空模様を下から突き刺すように揺れている。遠くのほうにはアンデルセンの活気ある街明かりが見えた。《オズ》は坂の上に位置していることから、建物の裏側の絶壁面からはいつでもアンデルセンが見下ろせた。輝くようなオレンジや水色がちらちらと閃くのを、ひどくぼんやりと眺める。
「ほら、出来たぞ」
 コトン、と側のテーブルに置かれるミルキーカラーのマグカップ。珈琲の湯気は花のように綻び、ゆらゆらと満開に咲き誇る。ハレルヤはその様子をじっと見て呟く。
「なにこれ」
「知らないか? アンデルセンの“コルク・アンド・ビーンズ”という店の新作らしい」
「珍しいね、ジオがアンデルセンに行くなんて」ハレルヤはテーブルに手を着いて湯気の花を咲かす様をしみじみと見つめた。「いや……最近アンデルセンに行った様子もなかったし、貰い物だろう」
「ああ。シフォンドハーゲンに貰ったものだ」
 ハレルヤは口につけかけていたマグカップをびくっと離して、それから心底憎らしそうに舌打ちした。
「あの、くそったれのお嬢様!」
「口が悪いぞルーヤ」
 ジオラマ=デッドは諌めながら、スプーンでマグカップの中の珈琲を掻き回した。観葉植物にも珈琲の匂いが染みついたかのよう、ぐるぐると沸き立つその強い香が部屋中に充満する。
 ハレルヤは強く眉を寄せてじとりとジオラマ=デッドを見た。
「だってあんなのくそったれじゃん。アイソーポスの貴族だよ? こっんなたっかーいところから踏ん反り返って私たちを見下ろしてる、お偉い原始の石頭さまだよ?」
 ハレルヤは“たっかーい”のあたりで腕を真上に向かって精一杯に伸ばした。今にも唾を吐きそうな尖らせた口も、いつも以上に不満に濁った緑褐色の目も、明らかな嫌悪を醸し出している。
「ジオが貴族好きなんて私はじめて知ったよ」
「なにを拗ねている。俺だって貴族はあまり好きじゃないが、一人ひとり皆を嫌ってるわけじゃない。いい奴だって中にはいる」
「裏切り者」
「ガキか、お前は」目を細める。「キーナ=ペレトワレもロバート=フォンセルバッハも、貴族だが俺達庶民を馬鹿にしない人間はいる。アイジー=シフォンドハーゲンだってそうだ」
「そんなことない」
「お前な……お前がそうやっていじけてるのは、ユルヒェヨンカ=ヤレイを取られたからだろう?」
 穿ったところをついてくるなと思った。ハレルヤは曇った顔を更に重く淀ませる。
 その表情にジオラマ=デッドは溜息をついた。この、まだ未成熟な、それでいて感傷的になりやすい厄介な時期の小娘に、なにを言えばよいのやらと考えあぐねている様子だ。
 一口だけ珈琲を飲み、ハレルヤの目の前のソファーにドカッと座り込む。
「お前の気持ちはわかる。やっとこさ話を聞いてくれる人間に出会えたと思ったら、いきなりそれが叶わなくなったんだ。だがシフォンドハーゲンにあたるのはお門違いだろうに」
「……ユルヒェヨンカは」ハレルヤは低く続ける。「馬鹿なままでよかったんだ」
「まだそんなことを言うか」
 呆れた声にハレルヤは俯いた。深い色の髪が垂れ下がり、顔を覆うカーテンになる。それからマグカップに口をつけた。程よい苦味の中からはまろやかなバターの香りも見つけられた。
「私は、馬鹿で無知で浅はかで、騙されやすくて頭の悪い、あのユルヒェヨンカが好きだったんだ」
「褒めてるのか侮辱してるのかどっこいどっこいな台詞だな」
「呪いのせいでもなんでもいいから、私の言うことを信じてくれる人が欲しかったんだ」


× |
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -