ブリキの心臓 | ナノ

2


「彼があのとき私の陰口を言い合ってた子たち、私一人も知らないわ。初めて見た子ばかりだった。彼のおかげで最近私に挨拶をしてくれるようになった子たちは相変わらず私に優しくしてくれているのよ。ジャバウォック事件があってからはちょっと怖がられているみたいだけど、ユルヒェヨンカやブランチェスタ、それからリジーなんかはひたむきなまでに誠実だった。スタンもリジーに倣ってる。私の周りは驚くほどに変わっていないの、シオン一人を除いてはね」
(……だから?)
「だから、思ったのよ」苦笑しながらアイジーは続ける。「自分が離れたときに寂しくないように、周りには私の印象を下げないでおいてくれたんじゃないかって」
 勿論そんなのはただの考えすぎかもしれない。そう対処した理由は山のように思いつくし本人に聞こうにも溝は海のように深い。真実なんて、分かりはしない。それでもアイジーはそうだと信じたかった。もう彼自身によって粉々に砕かれた太陽のような少年の、自分が唯一考えつくだけの小さな破片だった。
(じゃあ自分の知らない人間にならなにを言われても許せるって?)
「そういう問題じゃないのよ。許せる許せないだとか、信じる信じないだとか、そんな重い話じゃない。きっと、そうよ、シオンは私を友達じゃないと思っているわ。嫌いかもしれない。嫌いよ。だからこそ……私だってまだ怖いわ。シオンに会うのが。今のシオンに会うのが。けど、まあ、そうね、我が儘で恩返しなの」
(恩返し?)
「そう、助けてくれたときのね。晴れ晴れしいじゃない。私、ようやっと彼に大事なものを返すことができるんだわ!」
 アイジーは月光に照らされて美しく笑った。廊下を突き抜けて扉を開く。夏とも秋ともつかない夜風が快く髪を撫でた。もうすぐ、彼を見つける。そう思うと急に心臓が速まった。規則正しかった鼓動がどんどんと乱れるように反響する。
(……本当にやるの?)
「……ええ」
(本当に?)
 アイジーはゆっくりと、しかし限りなく強く頷いた。
「もし――もし今諦めてしまったら、きっと私はもう二度と彼に話しかけようという勇気は起こらないわ。私は一生の間を永く絶望しながら、あのときやり直す勇気がなかったんだと、そう自分に言い聞かせることになるに違いないの」
 それはとても辛いことだ。果てしなく寂しく、そして希望は二度と訪れない。
 賢い人のように理詰めで切り抜けることも出来ず、道化師のように上手くやることも出来なかった。盲目に笑うには多くの光を知りすぎてしまい、感情を押し殺した毎日にはうんざりだった。アイジーは決めていた。どうせ最低最悪なら前に進もう。進むことは出来なくても、心が死んでないことを自分自身に証明しよう。大丈夫。十五歳にも満たない私にも出来たことだ。今の私に、出来ないわけがない。
「ジャバウォック、最後に一応確認させてちょうだい」
(なんだい?)
「貴方のその“鱗”って、本当に遮断性に特化しているんでしょうね?」
 喉元に恐怖を貼りつけた、それでも意思の挫けない声で、アイジーはジャバウォックに尋ねた。ジャバウォックは心外そうに言葉を返す。
(熱も通さないしあらゆる金属よりも遥かに硬質だよ。よほど鋭い、まだ一振りも使っていない剣なんかでないと太刀打ち出来ない、人間の力じゃ尚更だ。たとえ毒を流布されても効かないと思う。……信用に値しないのは僕のスキルじゃなく、君のコントロールだろう?)
 全くその通りだわ、とアイジーは肩を竦めた。
 程なくしたところで――外広間につく。深海よりも深い蒼をした空には真っ白い月が浮かんでいた。アイジーは背中や脚の付け根に汗が溜まるのを感じた。緊張しているのがありありとわかる。
 アイジーは、今からとても無謀なことをする。誰の目から見ても不可解で痴呆の所業にしか見えないようなことだ。そしてそれのためにアイジーは家族にバレないよう真夜中《オズ》に残ったりしているわけだ。笑えるほどに笑えない。
(もうそろそろ《バンダースナッチ》に遭うころだろう。大丈夫かい? アイジー)
「……ジャバウォック」アイジーは低く言った。「貴方がそう言うのなら、きっと大丈夫だわ。私はあらゆる物からも傷つかない」
(いい応えだ)
 ぶわりと――全身が凍えていくような感覚。心臓に氷が収斂し、そこから羽を伸ばすようになにかが肌を伝う。伝うと言ってもそれは外面的でなくひどく内面的、自分の内側から芽を出すような感覚だった。ピキピキと硬質なものは余すところなく駆け巡る。鎖骨から喉へと這い上がったころにはあまりの冷たさに息を忘れてしまいそうだった。アイジーの華奢な肩も、腕も、頬も、全てが冷たく覆われる。氷の鎧だった。
 黒真珠のように光る鱗を纏ったアイジーは、ぺたぺたと自分の身体に触れてみる。服の上からでもわかるほどに硬い。今なら拳一つ振り下ろしただけで林檎だってぺしゃんこに出来るだろう。
「……いい感じ」
 アイジーは思わずにまっと笑った。さぞかし不気味な見目をしてることだろうなと思いながら宙にひらりと腕を舞わせる。月の光を受けて淡く煌めいた。まるでダイヤモンドの中に夜空を閉じこめたみたいだった。
(楽しんでる暇はないみたいだよ)
 アイジーはハッとなって視線を交錯させる。ふるふると首を動かしていると――――いた。シオンがいた。月光に輝いて黄昏色に見える柔らかそうな髪に、煌々とした燃え盛るゴールドの瞳。久しい彼がそこにはいた。
 しかしやはり様子がおかしい。身体はぴくぴくと痙攣し、どこもかしこも隆々としている。低い姿勢で身構える彼には穏やかさの破片もない。あからさまな臨戦体勢だ。ゴールドの目は仰々に血走り破壊的な眼差しでアイジーを捉えた。途端、その喉元から獣の威嚇する声が鳴る。まるでスズメバチの群生の羽音のようだった。耳障りが悪く焦燥感に追われる。恐怖そのものの佇まいをする彼にアイジーは息を呑んだ。息を荒げるこの少年は、今にも爆発寸前だった。
 いや、それでいい。
 それでいいのだ。
 アイジーは、もう意識すら失っているであろうこの野獣的な少年に、優しく微笑みかける。
「こんばんは、シオン」
 シオンは――《バンダースナッチ》は、ぐぐっと足を踏み構える。次の動作は、自ずとわかるものだった。
「私、サンドバックになりに来たわ」
 その瞬間、次元が割れそうなほどの強烈な鳴き声が上がる。同時に《バンダースナッチ》はアイジーに突撃してきた。余計な配慮のいらない真っ直ぐな暴力。アイジーの身体はまるで綿の少ないぬいぐるみの如く吹っ飛んで、一本の樹木がへし折られるほど強く打ちつけられた。あまりの衝撃に一瞬心臓が呼吸を辞めた。しかしすぐに酸素を欲し、その異差にアイジーは咳き込む。
「ちょっとジャバウォック! 話が違うじゃない! 痛いわ!」
(うん、今のは痛いと思う)
「うん、じゃないわよ! 貴方を信頼した私はなんだったの!?」
(確かに僕の鱗は硬いけど体重なんかは君のままだ。あらゆる攻撃からは身を守るけどあらゆる衝撃を感じさせないとは言ってない。まあよかったじゃない。怪我がないのは事実だし)
 ぶっきらぼうな返答にアイジーは怒りを抱く。しかし怪我がないというのは確かな事実だった。身体の表面だけでなく細胞まで、それも柔軟性のある硬さに変化している気がした。怪我をするという概念は放棄してもいいかもしれない。アイジーはゆらりと立ち上がる。
「それにしても……さっきのシオンの力は……」
 人間じゃない。
 アイジーは《バンダースナッチ》の過剰なまでの圧倒的力に思わず怯懦してしまった。さっきの衝撃を思い出す――シオンの身体からは考え難い力だった。まるで大岩を投げつけられたかのような力、まるで人間離れしたスピード。ルビニエルが遺伝子レベルで人間と掛け離れていると言っていたのが痛いほどによくわかる。なるほどこれは人間じゃない。シオンが頑なに抑えつけていたものは、人間ではなく化け物だ。
「ジャバウォック……この鱗はあらゆる刃物を通さないのよね」
(ああ、人間の力じゃ尚更だ)
「シオンが今、なんか、手から生やしたあの爪くらい、ほら、ねえ、大丈夫よね?」
(いや……無理じゃないかな。君はバンダースナッチの恐ろしさをわかっているのかい? 力だって人間のものじゃないし、多分受けたら血ぐらい出ると思う)
「役立たず!」
 アイジーは思わず叫んだ。夜の空気に反響し、跳ね返ってくるころにはまたシオンは突撃してきた。獣のように鋭く長い牙のような爪を振りかざす。
 アイジーは紙一重で避けるもその爪はアイジーの元いた地面を残虐的に刳った。あれが自分の肌だったらと思うとゾッとするものがある。もう鳥肌の立たない鱗の身体を抱きしめてシオンを見据えた。


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