ブリキの心臓 | ナノ

1


 あのね、実を言うとずっとシオンには止められてたの……怖がらせたくないって。でもやっぱりアイジーも知っておくべきだと思うのね、だから、今言っちゃうよ。あっ、シオンには勿論内緒で……。あのね、シオンはバンダースナッチの呪いっていうのに憑かれてて、ああ、それはアイジーも知ってると思うのね。怒っちゃうと誰も手のつけられない化け物になっちゃうみたいなの。うん。私も実はあんまりよく知らないんだ。シオンはね、上手かったから。自分の気持ちを抑えこむのが上手かったから。だからね……えっ、待ってよお母さん、私今お取りこみ中なの、だからだめ……うん、お父さんにお願いして、えぇええぇ……あー……じゃあ、私ボルシチ、ボルシチが食べたい……うん、そう、お願いね、やった……あ、えっとアイジー、どこまで話したっけ? うん? ……あ、そうそう、シオンね。ずっと我慢してきたの。なんていうか、怒ること? ほんのちょっとのことでも抑えこんでたんだ。私はね、自分が呪い持ちだって知らされたのは結構遅かったんだ……多分九歳ぐらい。でもシオンは物心ついたときにはもう知ってたよ。ずっと“なるべく怒らないように”って言われ続けてたみたい。シオンだって化け物なんかにはなりたくないから、言われた通り怒らないようにしてた。子供のときによくあるような衝突も上手く避けてね、色々諦めたり、許したり、誤魔化したりしてきたんだと思うの。並大抵の努力じゃなかっただろうな、怒らないって、感情を表に出さないって、きっとすごく苦労したんじゃないかな。今は少しだけ大人になって結構マシになってはいるみたいだけど、それでもやっぱりかなり疲れる筈だよ。そう、疲れるの、だからね…………あぇ、お、おばあちゃん……あっ、無理です、私今使ってるし……へ? ミハイル叔父さん? またあの人煙突に詰まったの? ……嘘でしょ、今度は通気孔? もうミハイル叔父さんったら……うん、わかった、終わったらまた返すからね…………あっ、ごめんアイジー……えっとそう、シオンは疲れちゃうの。わかるよね? 溜まるんだよ……ストレスが。だから昔は三ヶ月に一回、今は半年に一回くらいあるの。なんていうか……ストレスとかフラストレーションが溜まりに溜まっちゃって、自分をコントロール出来なくて、化け物になっちゃうの。シオンは割と規則的だけど本当はいつ起きるかわかんない爆発みたいなものらしいんだ。イレギュラーバウンド、って言うんだって。今まで我慢した分一気にガッとくるみたい。こうなるんなら元も子もない気がするけど、度々化け物になるよりはその方がいいのかも。その周期が丁度最近あったんだ。ほら、シオンの様子、おかしかったでしょ? そのせいだよ。ギリギリを抑えてたんだ、ルビニエル教授に薬を貰うまではね。それまではギリギリだったからほんのちょっとのことでも気が立ったり、爆発しちゃいそうになるの。その時期のシオンは頑なに人を避けてた。私だってそう。家族だってね。《オズ》で薬の存在を知るまでは自分の部屋に閉じこもって体をベルトでベッドに固定させたりしてたの。拘束ってやつ。それぐらい危険なんだよ、シオンは。だからアイジーに話さないでって言われたの。話したら怖がられる、嫌われる、って。ふふ、よっぽどアイジーが好きなんだね。私たちっていい友達じゃない? もしシオンが冷たくなったとしてもそれは多分アイジーを傷つけないようにするためだと思うからあんまり気にしないでね。あ、そうだ、今度ユニコーンの角に来たらみんなで……あう、また話がそれちゃった。まだ話は終わってないの。言ったでしょ? 今シオンがイレギュラーバウンドの周期にいるって、それで薬を貰ったんだけど……あんまり効かなかったの。ルビニエル教授が言ってらしたよ、なんかナントカ鳥ってのがいつもより育ちが悪かった、って。……あれ? 鳥? なんか違うな……カブトムシ? まあいいや。それが原因なのは確かなの。効きが悪くなったみたい。上手く抑えられてないの。逆に酷くなってるんだって。最近は親しい友達とも離れてるみたい。夜中なんかもっと酷いよ。ベルトを引き千切っちゃったみたいでね……手がつけられないみたい。デッド副指揮官に許可を頂いて深夜《オズ》内広場に入場させてもらってるの。もう抑えられないなら爆発させろって。人に危害が及ばないなら建物が少し損傷するくらいのことは許すって。アイジーは最近《オズ》に来てないから知らないかもだけど、今そこ立入禁止になってるくらい酷いの。怖いね、ミスタ・バンダースナッチって。怒り燻って暴れ回ると手がつけられないってこういうのなんだね。んー……。まあ、とにかく以上です。一応アイジーにも伝えておかなきゃって思って。あの日気になってたでしょ? こういうことなの。やっぱアイジーも知るべきじゃない。だって、友達でしょ?



(君の絶望は初めてのキスみたいなものだ。勝手に舞い揚がって勝手に舞い堕ちて、今は忘れてこんな馬鹿なことをしようとしている)
「うるさいわよ、ジャバウォック」
 アイジーは居心地悪そうにジャバウォックを眇めて、それからまた一歩ゆっくりと歩き出す。黄金に輝く月夜のことだった。
 今アイジーは《オズ》にいる。時刻は十二時をとうに過ぎたあたりだろうか。こんなことがバレたらイズから大目玉を喰らうに違いない。エイーゼだって今度ばかりは味方してくれないだろう。最悪涙に弱いオーザに泣きついて事なきを得るしかない。真夜中に馬車を走らせるとオーザやイズを起こしかねない。きっと物音が目立たないであろう夕餉が終わった時間帯を見計らって、アイジーは邸を抜け出した。そこから約六時間を《オズ》で過ごし、身を隠している。こんな泥棒のような作戦が上手くいくとも思えなかったが実際いっているのだから問題はあるまい。《オズ》の外広間へと向かうための廊下を歩きながら、アイジーはこの数日間を蘇らせた。
(わかってるのかい? アイジー。君が僕のスキルを使ったあの日、《バンダースナッチ》の様子がおかしかったことの説明はついた……けどそれだけだ。彼が君を友達じゃないと言ったのも、陰口を言っていたのも揺るぎない事実だろ。あの脳足りんなユルヒェヨンカ=ヤレイのことだ、彼の裏に気づいていないからこその言葉かもしれない。それでも君は――そんな無謀なことをするのか?)
「ユルヒェヨンカのことをそんなふうに言わないでちょうだい」
(反応してほしかったのは生憎とそこじゃないな)嘲るような吐息を帯びた笑みがジャバウォックからこぼれた。(君はまた自分から傷つこうとしているのかもしれない……君の愛しい半身や友人に言い包められて、あの凶暴な《バンダースナッチ》のところへ行こうとしている)
「貴方がシオンを悪く言う理由がやっとわかったわ」
 アイジーはぶっきらぼうなくらいの声音で囁くように言う。口元は悪戯っぽい子を描いていて、今は見えないにしろジャバウォックはさぞかし不快そうに顔を顰めていることだろう。鼻唄すら歌いだしそうな指先でくるくると空を掻き雑ぜながら、責めるようにアイジーは続ける。
「優しくて、爽やかで、人気者で、貴方にないものぜーんぶ持ってる彼に嫉妬してるんでしょう?」
(……呆れた)
 ジャバウォックは本当に呆れたようだった。それから皮肉そうにアイジーに言う。
(彼が人気者なのは打算さ。ある程度の処世術を覚えているからだよ。たとえば、ミラーリング――人は自分に共感してくれる人を好むものだ、同じ動作や同じ言葉を繰り返す、ただそれだけで自然と心の壁は薄くなるものだ。君だってそれに騙されているにすぎない。好い顔をしたいやつにコロッと引っかかってるだけさ)
「人間誰だって好い顔をしたいものだわ」アイジーは苦笑交じりに言った。「自分が人よりも不利な立場にいるのなら尚更よ」
 私だってそうだもの、とアイジーは養護する。
 この世の中には《災厄の子》と言われる、他者に害悪を齎すとされる呪い持ちの人間がいる。アイジーもそうであり、メイリア=バクギガンもそうだった。例外めいたアイジーを除き――ハートの女王の呪い、青髭の呪い、バンダースナッチの呪いを持つものを、主に災厄の子と呼ぶ。ヒューイというあの《青髭》の少年も、災厄の子と呼ばれているに違いない。けれどシオンはどうだろう――それらしい話をまるで耳にしない。彼が災厄の子であるという話は寡聞にして聞いた例がない。それが、それこそがシオンの“ストレス”の原因だ。災厄の子だと予言ですら現さないほど、徹底してシオンは抑えこみ、他者を傷つけないようにしていた。
「本当に彼らしいったらないわ」
 アイジーは少しだけ笑った。
 ジャバウォックは少しも笑わなかった。
「ねぇ、聞いて、ジャバウォック」
(……なに)
「私ね、まだシオンに完全に裏切られたとは思えないの」
(どうして? あそこまで壊滅的に手の平を翻してきたのに、君は彼のどこを信用しようというんだい?)
「彼が私の印象を下げようとしないからよ」
 ジャバウォックは押し黙る。


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