ブリキの心臓 | ナノ

2


(アイジー、君は今どこに向かおうとしているんだ?)
「えっ……どうして?」
(正直、僕にはあまり関係のない話だけど)ジャバウォックは少し溜めるように、アイジーの様子を伺いながら口にする。
(このまま歩き続けると、君の敬愛すべき《バンダースナッチ》と遭遇してしまうようだ)
 《バンダースナッチ》――つまりはシオノエル=ケッテンクラート。
 アイジーは毒の塗られた短剣で突き刺されでもしたかのような顔を見せた。
 それに気をよくしたふうなジャバウォックは曖昧に笑みを浮かべる。
(おかしなものだね。ついこのあいだまで、あの少年は君にとっての絶対であり、希望の光だったのに。今やどうだい? 名前を聞いただけで息も出来ないようじゃないか)
 そう、アイジーにとってシオンは自分を救ってくれた太陽だった。初めて会ったときから、彼はアイジーにとっての希望だった。あのときのアイジーは独りぼっちだった。たった一人で、自分を嘲笑う人間に言い返すことすら出来なくて。でも、それを救ってくれたのは他の誰でもない、シオンだった。一番誰かにいてほしいときにいてくれた、神様のような少年。
(君はそんな彼がまだ好きだったりするのかい?)
 友達じゃないと言われた。最初から友達じゃないと、なかったと。
(あんなに酷いことを言われたのに、君はまだ彼が好きなのかい?)
 アイジーはそのまま足を動かした。止まることを忘れた。シオンに会うのが怖いくせに、それでも引き返すことをしなかった。

(もう、嫌ってしまえば楽なのに)

 スカートに皺が寄るくらいぎゅうっと裾を握る。廊下を突っ切って、中庭に出る煉瓦作りのアーチをくぐろうとした。しかし、そこで気づく。アイジーは隠れるように構内に引っこんだ。そして外から自分の姿が見えないように、柱の影に身を寄せる。
 シオンが、いたのだ。
 だから言ったのに、とジャバウォックの呆れる声が囁くように響いた。アイジーは息苦しいぐらいに忙しなくなる心臓を押さえつける。まだ目も合っていないのに体はがちがちに強張っていた。暑さとも違うところからくる熱が身を蝕む。
 シオンは中庭の――アーチのすぐそばのところにいて、大勢の友達と集まって話していた。あまり見たことのない顔ぶれに、彼の人脈の広さを知る。シオンは人気者だった。いつでも輪の中心にいる。自分なんかとは大違いの人間。本当に大違いだ。やっぱり自分なんかが彼といれたのは奇跡なのだ。楽しそうな談笑があがるなか、アイジーを揺さぶるような一言がぶわりと大きく鼓膜を揺らす。
「そういえばシオン、ミス・アイジー=シフォンドハーゲンは本当にもういいの?」
 駆け上がるように、全身の血が逆流していくような気分だった。
 仲間内からあがったその台詞にシオンは厭そうな声で「いいんだよ」と告げる。
「だろうなあ。もう面倒臭くなったんだろ? ……最初っから利用するつもりだっただけみたいだし」
「まさか本当に友達なんかになっちゃったのかって不安になってたんだよ? そうならそうって最初から言ってくれてたらよかったのにー」
「ちょっとシオンが優しくしただけで友達面するんだから馬鹿みたいだよなあ、原始の石頭様は!」
「……お前らもいい思いしたかったら“友達になろうぜ?”とかなんとか言ってやればいいんだ。多分なんでもしてくれるさ」
「うわ、シオンってば嫌なやつー」
「そんな嫌なやつと喋ってるお前はなんなんだよ」
「おっと揚げ足を取られたか!」
 ドッと笑い声があがる。自分を馬鹿にした笑い声が。スイカズラの匂いを吸って膨張し、こだまする。アイジーの華奢な鼓膜を痛いくらいに揺らし、そのたおやかな胸に無数の鋭い棘を刺した。
 アイジーは歯を食いしばる。これ以上の恥辱はなかった。悔しくて悔しくて、でも全てが本当だった。
 最初から――このアイジー=シフォンドハーゲンなんかにあのシオノエル=ケッテンクラートが釣り合うわけがないと、そうわかっていた。そんなこと最初からわかっていたのに、だからこそ、今は本当に自分が恥ずかしい。自分はなんて馬鹿なんだろう。思い上がりも甚だしい。彼と自分が友達になれるなんて、それこそお情けじゃないと、ごっこ遊びじゃないと到底叶いっこないだろうに。本当に馬鹿だった。馬鹿で、無知で、愚かで浅はかで――だけどとても満たされていた。なによりも嬉しかった。全てが完璧だった。希望に満ち溢れていた。満ち溢れていた。けれど、今はもう、なにもない。棘のように吹き抜ける風が邪魔をして、優しい彼の言葉が聞こえない。もうなにも思い出せない。全てが嘘だと知って、偽りだと知って、彼がもう傍にいないことを知って、酷い痛みの中、ずっとずっと暗い迷路を手探りで歩き続けねばならない。もうなにもないのに。希望なんて、どこにもないのに。それを知ってしまったのに、それでもまだ、私は彼を想い続けなければならないんだろうか――――。
「アイジー」
 ぱしん、と手を掴まれる。その手は引っ張るように自分を歩かせた。どんどんとシオンたちから遠ざかり、笑い声も霞んでいく。離れるたびに歩調が緩やかになっていった。手を引く人間の後ろ姿が視界を犇めく。顔を上げると、そこにはゼノンズがいた。
「……なんで」アイジーは信じられずに無意識に呟く。「ゼノンズ、なんで貴方が……なにを……」
「大丈夫か?」
 ゼノンズは珍しく真摯にアイジーを気遣っていた。シオンたちから随分と離れた、誰もいない廊下の隅で、緩やかにその足を止める。白い光が憎らしいほど朗らかに射して、そして香ばしい色をした雲に遮られた途端影が生まれた。
 凛々しい眉を実直そうに寄せて「シオノエル=ケッテンクラートだな」と押し殺すように言う。
「……なにが」
「さっきの。中庭で話してたやつらだよ」
 聞かれていたのかとアイジーは歯を食いしばる。でも絶望感にそれもすぐどうでもよくなって、うなだれるように力を抜いた。
「……ああ」アイジーはぼんやりと言った。「そう、だったわ」
 ゼノンズの顔を見ることが出来なくて思わず目を逸らした。そういえば自分はこの彼に無実の罪を着せてしまっていたのだ。知らぬ間ではあるが申し訳ないことをしたな、という反面、どうして自分をここに連れて来たのかがわからなかった。
「わかっただろ?」
「……なにが」
「所詮あいつらは野蛮人なんだよ」
 そんなことないわ、と言い返す気力も、もう、ない。もう、なにもない。いつもなら極端に拒絶する“貴族様の高説”に、アイジーはなんの反応も返せなかった。
「下劣で、卑劣で、容赦がなくて、野卑で野蛮でどうしようもない。わかっただろ。あいつのことなんか、あいつらのことなんかもう、忘れたらいいんだよ」
 そう優しく肩を抱いて、ゼノンズはアイジーに言った。自分に差し延べられる手にアイジーは顔を上げる。


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