ブリキの心臓 | ナノ

1


 彼を思い出すということは温かい希望の光に包まれたままうたた寝をするようなもので、彼を好きになるのは幸せよりも素敵ななにかを歌って迷うことのない道を進むようなものだった。



 まるでトラウマのようだった。悲しいだとかの感情と一緒に怖いという感情が、アイジーを支配していた。彼の姿を探すことすら怖くて、なにも出来ない。アイジーは、胸の中をどろどろとどよめく氷で出来た黒い塊を、慰めるように体を丸めた。
 昨日、シオンに拒絶された。
 それだけで絶望以上の絶望感に苛まれた。なにも考えられない頭で帰路につき、ぼんやりとした感慨で家に帰った。いつも通りにご飯を食べ、風呂に入り、ベッドに潜った。でも上手く寝付くのが困難で、結局は相当時間目を開けたままで過ごしていた。怖くて怖くて仕方がなかった。シオンに拒絶された。シオンに拒絶された。拒絶された。拒絶された――ぐるぐると考えているうちに寝てしまっていて朝になってすっきりした頭で理解を固める。

 シオンは、自分を拒絶した。

 もうそれだけだ。それ以上はあってもそれ以下はない。最悪だ。もう、嫌だ。なにがシオンなら大丈夫、だ。そうやって我が儘を言ってシオンを縛りつけていたのだ。
 最初から――このアイジー=シフォンドハーゲンなんかにあのシオノエル=ケッテンクラートが釣り合うわけがないと、そうわかっていた。そんなこと最初からわかっていたのに、だからこそ、今は本当に自分が恥ずかしい。自分はなんて馬鹿なんだろう。思い上がりも甚だしい。彼と自分が友達になれるなんて、それこそお情けじゃないと、ごっこ遊びじゃないと到底叶いっこないだろうに。本当に馬鹿だった。馬鹿で、無知で、愚かで浅はかで――だけどとても満たされていた。なによりも嬉しかった。全てが完璧だった。希望に満ち溢れていた。それが今は――絶望よりも深いところで喘いでいる。
「おやおやアイジーお嬢様! 今日は一段とご機嫌が麗しいようで!」
「そのおっかない一睨みで道行く人間がバッタバッタと倒れ込んじまうに違いないぞ!」
 主にこの二人のせいで。
 アイジーは自らの不運を呪った。だからなんでこんなときにこの厄介な二人に出遭ってしまうのか。重い眉を更に澱ませてアイジーは俯いていた。
 《オズ》の中を宛てもなくうろうろしているとこの二人に捕まった。注意していればよかった。シオンの一件のせいで気が抜けていたのだ。いつもなら相手が気づくよりも先に自慢の脚で逃げれた筈なのに。アイジーは心中で歯噛みしたまま二人の罵倒が止むのを待った。
「最近はあの大っ嫌いな灰かぶり女とつるむことが増えてさぞ幸せだろうねえ。おい! 髪に煤がついてるぞ!」
「同性愛者かよ気持ち悪い!」
 楽しそうだな、とぼんやりそんなことを思った。この分だとすぐには終わりそうにない。研究員のくせに馬鹿みたいにお暇なこの二人は研究に齷齪するでもなくこうしてアイジーに構っている。面倒臭くて、アイジーはもう待つことをやめた。付き合ってられないと溜息をついて二人の脇を滑るように過ぎる。
 しかし二人は先回ってアイジーの目の前を塞いだ。ぴょこぴょこと何度か動いてみたが一向に通してくれそうにない。その間も嘲笑うような他愛もない言葉が投げられる。最初のころはそれが辛くて悲しくて仕方なかったが、今はどちらかと言えば鬱陶しいという感情のほうが目立つ。だんだん苛々と眉を寄せればシェルハイマーは愉快そうににやっと笑った。
「なに、その挑発的な顔。もっと虐めてほしいって?」
 言ってない。アイジーは心中で詰りながら彼らを眇めた。この憂鬱なときに、本当に鬱陶しい連中だ。ハルカッタはシェルハイマーの言葉に便乗するようにアイジーをからかってくる。昨日見かけた《青髭》の少年に対するお優しい振るまいとは大違いだった。それに少しばかりムカッとくる。そして何度目かの下品な笑い声が高鳴ったあと「そういえば」と切り出すように妖しく首を傾げた。
「今日はケッテンクラートと一緒じゃないみたいだけど……まさか愛想尽かされちゃった?」
 アイジーの胸に、冷たい穴が空いた気がした。
 表情には出さなかった筈だ。しかし二人はそれすら気にならないというようにつけこんでくる。
「可哀相にーい、まあ気を落とすなよアイジーお嬢様。所詮石頭には柔らか過ぎるお相手だったんだ」
「次は象牙の彫刻とでもお話しとけばいいだろ」
「うっわ、こえー!」
 アイジーは拳をぎゅっと握った。流石にこれは聞くに耐えなかった。他のことならまだ我慢出来たのに、今このタイミングでシオンの話をされるとなると、もう限界だ、どうにかなってしまう。
 昨日の彼の冷たい目がフラッシュバックする。今にも泣きだしたい衝動に駆られた。でも、この二人の前で泣くなんて、そんなこと、絶対にしたくない。
「どうしたんだ? アイジーお嬢様」
「さっきからだんまりで、まさか図星だったりしちゃうのかよ」
 ――――もう、だめ。
 アイジーは唇を歪ませて「そういえば貴方たち……」と顔を上げる。


「あのあとお家に帰って大好きなママに泣きついたりしたのかしら?」


 一瞬だけ――アイジーのバイオレットグレーの瞳に人殺しき金色がちらついた。
 シェルハイマーとハルカッタはゾクッと肩を震わせて、恐怖の青とも羞恥の赤ともつかない色を顔に散らせる。途端に言葉を失った二人をアイジーは小さく嘲笑った。それに更に色を深める。
 勝者はアイジーだった。
 滑らかなシルバーブロンドを靡かせて早々とその場を立ち去る。
 追い掛けてくるような足音は聞こえない。野次も勿論なかった。完璧にその場を制しての勝利だった。思わず口角が上がる。
(卑怯なことをするね)
 酷く耳障りのいいたおやかな声が鳴った。アイジーは誰にも聞き取れないような声で囁くように返す。
「あっちは二人掛かりよ。これで丁度おあいこじゃない」
(にしても、僕のスキルを自分のものみたいに濫用しないでくれる? ていうかどうやってるんだ?)
「知らないわよ。なんだか知らないけど、いつの間にか当たり前みたいに使えるようになってたの。鳥が当然のこととして空を飛ぶようにね」
(君には困ったものだな)
「でもまだ完全にはコントロール出来てないのよ。さっきだって、一瞬しか貴方の目を使えなかったわ」
(それで十分だ。いくら目だけとはいえ、あんまり僕の存在を視認しすぎると命に関わるから)
「あの二人ならそれもありよ」
(なしだろ。ミス・ジャバウォック)
 呆れたように、ジャバウォックは囁き音を吐いた。


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