ブリキの心臓 | ナノ

2


 そのときカサリと樒が折り重なる音がした。ゆらりと揺れる葉に、思わずアイジーは強張った。
 思っていたよりも、早い。
「ヴァイアス……来てくれたの?」
 錆びた声――涼しげに風に乗るようなソプラノにアイジーは唾を飲み込んだ。大丈夫、大丈夫、そう心中で呟いてから掠れる声で「ジャバウォック」と名前を呼ぶ。するとその瞬間瞳が冷えていくのを感じた。これで大丈夫な筈――アイジーはもう一つだけ深呼吸をして“彼女”が現れるのを待つ。
 “ミス・メドゥーサ――そう呼ばれているみたいデスけれど、その噂話は本当でアリ嘘デモあり……何故なら彼女はあくまデモ人間なんですヨ。僕らと同じデス。むしろ他の人間よりも、僕らのホウが彼女の存在に近い”
「……ヴァイアス?」
 深い影の中から人影が見えた。アイジーは身動きをとらずにそれを見つめ続ける。そうして、少しだけ緊張する唇をゆっくりと開いた。
 “ミス・メドゥーサ――彼女は、僕らと同じ、呪い持ちの人間なンです”


「初めまして、ミス・メドレナ=メドレイ。ヴァイアス=ルビニエルから遣いに来た者よ」


 そのとき、樒の奥から爆発するような轟音が旋回する。蛇の鱗を持つ太い蔦のような長い物体がアイジーの体を締め付けた。喉も胸も腕も腰も脚も余すところなく締め上げるそれに小さく悲鳴をあげる。このまま締め殺されるのではと体の芯が熱くなった。しかしその刹那また錆びた声が「シテュルノー、エウレッタ、離してあげて」と、こだまするように優しく放たれた。
「きっとあたしたちに害はないわ。この子、ヴァイアスのことを知ってるみたい……だからお願いよ、離してあげて」
 再度そう言うとアイジーの体を這っていたそれはにゅるりと引っ込んでいく。樒の影の奥に怪物のような姿を見た気がした。けれどそれに怯える間もなく、一人の少女が姿を現す。
 とても美しい姿をしている。宝石のように輝く瞳を持ち、その煌きはアレキサンドライトさながらだ。けれどその真っ白い肌に映える赤い唇からは、まるでイノシシのように鋭い牙が覗いている。首から頬にかけては青銅の鱗のような痕が見えた、もしかしたら身体中にあるのかもしれない。フードごとローブを被っているため深い影になっていたが、それでもよくわかる。胸元に垂れる情熱的なブルネットは――生きた無数の毒蛇だった。
 メドレナ=メドレイ。
 《メドゥーサの呪い》に犯された少女。
「あ、ありがとう……ミス・メドレナ=メドレイ」
「メドレナでいいわ。それよりも姉がごめんなさい。昔から少し過保護で……怪しい人を見かけたらさっきみたいに締め上げてしまうの」
 姉――さっき自分を襲った蛇のような怪物が、姉。
 聞いていたとおりの現状にアイジーは口元が恐怖で引き攣るのを感じた。
 “メドレナ=メドレイ、彼女はメドゥーサの呪いに犯されてイマす。……いえ、厳密に言えば、メドゥーサの呪い、と言うノハ違うンですが。彼女はネェ、ミス・シフォンドハーゲン――世にも珍しい、複数の呪いに犯された人間なんデスよ”
 呪いの重複は、バクギガンの論文で見たことのある題材だった。アイジーやバクギガン、ルビニエル、他の《オズ》研究員はみんな、一つの呪いにしか取り憑かれていない。けれどもし、二つ三つ――誇大させるなら百以上もの呪いに取り憑かれた人間がいたとしたら、その人間はどうなってしまうのだろうか。
 そしてそれはどうもこうもない。目の前にその取り憑かれた人間がいる。メドレナは十一もの呪いに犯された少女であり、その呪いは複雑怪奇を極めた。重複された呪いは融合し、彼女を怪物にしたのだ。以上のそれを含めて彼女を蝕む呪いを――《メドゥーサの呪い》と称している。
「あたしのことを知ってるみたいだけど、ヴァイアスから聞いたの?」
「ええ」
「そう……えっと、貴女は?」
「アイジー」
「そう。アイジー。ちなみに一体どんなご用なのかしら?」
 まるでこの森が自分の家――まあ似たようなものなんだろうが――のように尋ねる。アイジーは羊皮紙を差し出して「これを」と言った。途端に樒の奥から先ほどアイジーを締め上げたあの蛇の鱗を持つ触手が羊皮紙を掻っ攫っていく。あまりの速さにまた攻撃されると思ったアイジーは目をぎゅっとつぶってしまう。しかしその凶悪的な速さは羊皮紙をもぎ取るだけにとどまり、そして流れるような動作でそれをメドレナに渡し、奥へと引っ込んでいった。アイジーは背中からぶわっと汗が噴き出すのを感じた。なんとか調子を取り戻して話を戻そうとする。
「その紙に書いてあるものを貰いたいの」彼女の動く蛇の髪に臆しながら続ける。「ミスタ・ルビニエルが薬を作るために必要なんですって。構わないかしら? メドレナ」
「……なるほど。ついてきて」
 メドレナは長いローブを翻して樒の中へと潜り込む。アイジーもそれに引き離されないように小走りについていった。樒を抜けるとそこにはメドレナの姿だけしかなく、《シテュルノー》と《エウレッタ》の姿が見当たらなかった。アイジーとしてはそれならそれで構わなかったしむしろありがたかったのだが、それでも気になるほどには不思議に思った。しかし言い出す勇気もなくメドレナの数歩後ろを歩くだけになる。
「アイジーも《オズ》から来た人?」
「ええそうよ」
 《オズ》の存在を知っているのか。アイジーは驚きに目を見開かせた。
「ルビニエル教授と知り合いのようだけど、メドレナは《オズ》の人間ではないの?」
「あたしは違うわ。手紙が届かなかったし……それならそれもいいことだと思うけど」
「あら、どうして?」アイジーは思わず聞き返した。「《オズ》に行けば呪いを解く手掛かりが見つかるかもしれないのよ? その……メドゥーサの呪いは、大変でしょう?」
 メドゥーサの呪い。彼女と目を合わせたものは石になってしまうという、災厄になりきらない最悪の呪い。彼女の麗しかった見目は化け物のそれとなり、情熱的なブルネットは蛇の鱗を纏っている。呪解方法はまだ見つかっておらず、石にされた人間を戻すには彼女の涙が必要らしい。そこから着想を得たルビニエルが彼女の涙から“石化予防薬”を生み出したようだが本日においてそれは尽きてしまったようだ。だからこそ、ここにアイジーが起用されたのだ。アイジーはジャバウォックの呪いに犯されていて、そして今日、ジャバウォックの呪いと“向き合っている”状態にありスキルの共有すら可能であるという事実が発覚した。ジャバウォックの人殺しき瞳――それは、メドゥーサの瞳と相対し相殺する。人殺しき眼がその瞳の効力を“殺す”筈だ。だから、それを“知って”いたルビニエルは、唯一薬を飲まなくても石化しないアイジーを遣いに出すことにしたのだ。それを言われたときは正直賭けにも等しい自殺行為でないかと冷や冷やしたものだが、こうして彼女の瞳を見ながら難なく会話できているのだから問題はあるまい。ひとまずほっと胸を撫で下ろし、そして彼女の返事を待つように静寂を守った。
「……ヴァイアスが――教えてくれたの。《オズ》からの手紙が来る条件」
「えっ」
 メドレナの言葉にアイジーは素っ頓狂な声をあげる。今彼女がなにを言ったのか、数秒の間理解できなかった。
「貴女は知ってる?」
「……し、知らないわ。十五歳以上の人間に不規則に来るものだと思っていたもの。きっとみんなだって知らない筈よ……」
「ふふふ、そうなんだ」メドレナは嬉しそうに小さく笑った。「あたしにだけ教えてくれたのかも……」
 歩いていくたびに真新しい植物が増えていった。すっかり歪んでしまった線路の上を軽やかに歩くメドレナの後ろを、アイジーは見慣れない光景を見つめながらそよそよと小走る。ハオルチアの氷砂糖のような葉が潤んだ光を放つたびに、フウセンカズラの揺れる音が聞こえてくるようだった。モウセンゴケの甘い香りと愛おしげに濡れた土の匂いが混じりあい穏やかに空気に溶けていく。深い漆黒に身を寄せながら、メドレナは「教えてあげる」と機嫌良さそうに口遊んだ。
「《オズ》に手紙が届く人はね、危ない人らしいのよ」
「……危ない人?」
「そう」
「私別に、包丁を持って友達を追い掛け回したり図鑑に跨って坂道を滑り落ちたりしないわ」
「そういう危ないじゃないの。少なくとも一年以内に、“なにかある”人のこと」
 なにかある――その表現にアイジーは小さな焦燥を覚えた。


|
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -