ブリキの心臓 | ナノ

1


 ――彼女のコトはドウか、メドレナ=メドレイと、名前で読んであげてくだサイ――鮮烈に真っ暗い森に入るその前に、アイジーはルビニエルの言葉を思い出していた。



 黒い森と呼ばれるその森は、アイソーポスやグリム、アンデルセンからも遠く離れたところに位置している。滅多にない植物が多く生殖しており、トウヒの木が作る深い影が“黒い森”と言われる由縁だった。元は戦地だったとか鉄道が通っていたとかで、あちこちにひび割れた石碑や腐りかけの線路が見える。独特な雰囲気のあるその真っ暗い森に入るのは、勿論アイジーにとって初めてのことだった。
 まず森の中は思っていたよりも随分と黒い。暗いというよりは、黒い。影が深すぎるようで、まるで真っ黒に塗り潰されたかのような空気を縫って、彩度の高い緑や黄緑が閑かに姿を見せている。光という光は全て植物が吸収し発光しているため、太陽が射すことがなくても暗いという印象は抱かなかった。奥のほうはうっすらと、青みがかった象牙色の霧が霞むようにかかっている。透き通る空気は湿っぽくて、けれどどこか肌寒い。片麻岩が茂る草から毀れるように突き出して無骨な地面を生み出している。進めば進むほど珍奇妙な植物がこちらに頭を垂れてきた。雪が降ったあとのようなウサギゴケの群生にグロテスクな鮮血を流すハイドネリウム・ピッキー。墨色の折れ木からはロクショウグサレキンモドキが皓々とした蒼を点描し、その足元の腐敗した土葉からはソライロタケが負けじと存在感を放っている。ふと視線を外すと鈍色の鎧の屈継が深い苔を生したまま捨て置かれていた。遠くに散らばっている粉々になった金属の光はこの鎧の一部だったのかもしれない。翡翠の眩さ持つそれらはお伽話の挿絵のような美しさがあった。黒い森はアイジーを感嘆させるには十分な雰囲気を醸し出している。
「綺麗なところなのね……」
 色とりどりの艶やかなベールを作るヒメキンギョソウを潜り抜け、誰に言うでもなく独り言をこぼす。バイオレットグレーの瞳は感動と恐怖が滲んだ興奮に見開かれている。形の良い唇でほうっと溜息をつきながらその華奢な足を森に這わせていった。今にも小人が現れて切り株の上で陽気な音楽を歌いだしそうだ。もしかしたらユニコーンなんかが森の奥から姿を見せてたおやかにお辞儀をするかもしれない。鮮やかな緑と深い色彩に囲まれてアイジーは笑みを弾ませた。大きな樹木の根っこを踏み越えながらルビニエルに感謝したい気持ちになった。
 “摘んでこいと言っテモ素人の君に植物ノ見分けがつかナイことなんて目に見えテます。ですからとりあえず、黒い森の中にある、ナワシロイチゴ畑を目指してくだサイ。一ヶ所だけ刳り貫カレてイルかのように日当たりがいいところがありマスからそれを目印にするとよろしいでショウ”――そこに行ってどうするのかと思っている暇もないほど、彼は素早く続けた――“そこで暫く待ってイナさい、そうシタラきっと、アッチのほうから見つけてくレル筈デスから”
 それマデは、黒い森とは名ばかりの美しイ森を楽しむといいですヨォ。
 ルビニエルに対する感動を噛み締めながら、“まさしくその通りだわ”とアイジーは頷く。この森は確かに真っ暗闇が目立つがなにも植物まで黒いわけではない。むしろ逆で、黒が溶け込んでいる分その異彩は目を貫くほどに強い。そしてなによりも図鑑でしか見たことのないようなまぼろしい植物が当たり前のようにそこにある。幻想的だけれど儚くなく、圧倒されるほどに苛烈な存在感に、アイジーは舌を巻いた。《オズ》から馬車でここまで二時間、その二時間を堪えた甲斐があったと心から思う。アンデルセンとはまた一つ違う黒い森の素晴らしさに胸を高鳴らせていた。
「こんなのがペナルティーだって言うんなら何度だって来てもいいわ……」
 ここに来る前までは噂の“ミス・メドゥーサ”に怯えていたくせに、もっと言うならこの森に来たのだからその怯えは増長されるべきなのに、そんなこともすっかり忘れてアイジーはこの光景に目に焼き付けていた。慣れない足元にふらつきながらも笑顔は忘れない。ルビニエルに持たされたバスケットをぐるんぐるんと振り回しながらシルバーブロンドを翻す。迷子になるかもしれないという可能性すら忘却しているアイジーは、この森に咲くどんな花よりも朗らかだった。崩れた煉瓦壁の裏に見つけたノウゼンカズラの花盛りにいっそう笑みを深める。どうせなら摘んでいきたいとも思ったが、ルビニエルに言われた言葉を思い出してそれを押し留める。
 “森にある植物にはなるベク触らないようにしてくだサイ。毒があるものだって少ナクありマセンし、かぶれでもしたトシテ怒られるのは僕なンですカラね”
 そんな危険なものがあるのならアイジーだって触りたくはない。見るだけに留めておいて持って帰ろうとは思わなかった。けれど次に来るときは画家を連れてくるのがいいかもしれない。もしくはテオあたりから写真機を借りるのも悪くない。脳内の端で楽しさを踊らせながら、ポケットにしまっておいた羊皮紙を取り出した。少し滲んでしまった青いインクの字をすらりと目でなぞる。
「トリカブト、ヤドリギ……ジギタリス、アカチシオタケ…………コノ、コノフィチッ……コノフィツム・イグナブム? もうわけがわからないわ」
 顔を顰めてぼんやりと呟いた。アイジーとて植物の話に疎いというわけではない。昔から本を読んでいたがそのなかには植物図鑑も多く存在したし、むしろ植物の図を眺めているほうが子供心としては楽しかった。しかし最早なにを指しているのかもわからない名称の羅列に頭をくらくらさせていた。こんなものが薬の調合に必要なのか。どんな植物なのだろう。星のように輝くキノコだったりラズベリーよりも甘酸っぱい木の実の種だったりするのだろうか。豊かな妄想を膨らませていると、一ヶ所だけ、とても眩しい光を見つけた。
 そこは一面プラチナに輝いているようにも見えた。羽虫が太陽の光を浴びてキラキラと空を舞っている。足元にはこの森にしては地味な類の赤紫があたり一面に広がっていた。流石にここまで歩いてきて、これがなにかわからないアイジーではなかった。
「――ここね。ナワシロイチゴ畑とやらは」
 もっと可愛らしい花畑のような空間を想像していただけに感動は薄かったが、それでも目的地につけたという感慨は相当なものだった。一つ深呼吸をして光を目一杯浴びる。当たり前の光量なのに何故かとても眩しく感じられて、それがおかしくて思わず笑ってしまった。


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