ブリキの心臓 | ナノ

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 よりにもよってあの下衆のところですか、そう言ったペレトワレは心底複雑そうな表情でアイジーを見つめる。いつもの穏やかな表情と一変して、雨が降る前の空の色のような顔を映していた。淡いブロンドを揺らしながら溜息をつく彼女はいかにも物憂げで、その細められた目の奥には果てしない嫌忌を孕ませている。アイジーは些か不安になりながら彼女の言葉に頷いた。
 護衛官から告げられたアイジー=シフォンドハーゲンの受けるペナルティー。それはペレトワレの恭しい眉をまるでアサガオの蔓のように複雑に捻じ曲がらせるほど、忌避されるような内容だったようだ。
「まさか……あの不快な男の手伝いをしなければならないなんて、シフォンドハーゲン教授も運が悪いですね」
「……そんなにですか?」
「ええ」ペレトワレは全身全霊の嫌悪を滲ませて続ける。「貴女も会えばわかることでしょう。ヴァイアス=ルビニエルがどういう人間なのか」
 ヴァイアス=ルビニエル。バクギガンやペレトワレと同期にある《オズ》研究員だ。実を言うとアイジーもこの男のことをまったく知らないというわけでもなかった。
 彼ほど《オズ》内で怪しい噂を聞く者もいないように思う。貴族の娘であるアイジーとは別ベクトルに、彼はいい噂を耳にしない人間だった。しかしそんな彼も“教授”と渾名される人間のうちの一人であり、優秀な研究員だという。バクギガンやペレトワレが理論の開拓者だとすれば、ルビニエルは効薬の開拓者。所謂“呪いの症状や効果を薬で抑える研究”の第一人者なのである。四六時中胡散臭い匂いの立ちこめるあの調合室にずっと篭っているらしく、青髭の呪いに効く薬なんかも彼が調合しているのだという。シオンのバンダースナッチの呪いも薬で抑えこめるタイプのものなのだとしたら、彼がルビニエルを探していたというのも頷ける。薬という薬は全て彼が調合しているのだから、彼を頼るしかないのだ。
 しかし、一体どうしてヴァイアス=ルビニエルが、“呪いを封じるための薬”なんていう信じられないものの調合方法を知っているのかというと、これはまた驚くべきことに、彼も《鏡の呪い》に犯されているらしい。知の呪いである鏡の呪いは本人の行動や意思に関係なく世界一定の知識を所有できてしまう呪いだ。皮肉なことにその呪いのご利益あってか、彼は未知なる筈の薬の調合に成功したのだ。こんな滑稽な、ご都合主義な、わけのわからない話はない。この馬鹿げた成り行きを聞くたびにアイジーは首を傾げるのだった。
「ペレトワレ教授も同じ《鏡の呪い》を受けてらっしゃるのに、ルビニエル教授のように薬を調合したりしないんですね」
「《鏡の呪い》にも個人差があるようでしてね、私の場合は呪解薬についての知識を与えてくれることはありませんでした。あの男にしろ、私の知る分野を少しも聞いたためしがなかったりするのです」
「呪いに個人差があるなんて初めて知りましたわ」
「研究を深くすればするほど新たな発見が生まれるのですよ」穏やかな笑顔に妖しい影が浮かぶ。「けしてあの男のようなゲテモノに手を伸べる必要などないのです」
 もしかして仲が悪いのだろうか。そう思わせるくらいの声色にアイジーは思わず尻込みした。
 基本的にこのキーナ=ペレトワレという人間は善良的だ。お淑やかで知的で冷静沈着で、女子修道院にいそうな佇まいをした彼女は誰が見ても清廉に映る。柔らかな睫毛が描く微笑の線は穏やかさを増長させているし、物静かな雰囲気もどこか神聖なイメージを抱かせる。それだけに、意味ありげに笑みを深くしてまで言う“あの男”とやらにアイジーは大いに興味を抱いた。その興味も、後ろ向きなものではあるけれど。
「ルビニエル教授の手伝いをする、と言っていましたが、どういうことをするのでしょうか?」
「覚悟しておいでなさい」
 散々に言うな。アイジーは嘆息がちにペレトワレを見遣った。長いスカートを揺らしながら歩く彼女には一縷の乱れもなかった。
 現在二人は件の調合室へと向かっている。《オズ》の中でも辺鄙な位置に存在しているその部屋への道は、進むたびに不穏な空気を見せ始めていた。だんだんと嗅ぎなれない異臭が鼻腔を擽ってくるし、心なしか空気も澱んでいるようにみえる。他の場所のものよりも古びた窓からはカナリアのように青みを帯びた黄色の光がベールさながらに射している。その光をきらりと反射して宙を舞う埃は星屑を溶かしこんだように優雅に流れていった。静かになっていく空気に比例して異臭は更に強くなっていく。アイジーは思わず鼻を摘まんだ。やっぱりこの廊下は嫌いだと思った。
「ここです」
 ある扉の前でペレトワレは止まる。そこにはアイジーも何度か見たことがある、調合室と書かれたプレートが置かれた扉。深緑の扉面に金色のノブがついたその入り口は、どうしてか入る気を萎えさせるに十分の雰囲気を醸し出している。
「私はここで失礼しますね」
「えっ、中まで着いてきてくださらないんですか?」
「可愛らしいお誘いにお応えできず申し訳ありません、シフォンドハーゲン教授」ペレトワレはぶっきらぼうなくらい淡々と告げる。「あの男の吐いた息を、私はなるたけ吸いたくないんです」
 まさかそこまで言うとは思ってもみなかった。アイジーは目を丸くしたまま、来た道を戻っていくペレトワレの後姿を見つめる。颯爽と引き返す彼女に声をかけることはもうしなかった。
 アイジーは緊張気味にごくりと唾を飲み込む。
 大丈夫、そのヴァイアス=ルビニエルという男も人間なのだ。ペレトワレという個人があそこまで忌避しているだけで、話してみると案外普通の人間だったりするものじゃないか。なにも恐れることはない。
 アイジーは深呼吸をしてコンコンと数度ノックした。
「失礼します。第五期研究員のアイジー=シフォンドハーゲンです」
 応答は、ない。
 もう数度ドアをノックする。
 やはり、応答は、ない。
 微妙な時間が刻まれていくのを感じながら、アイジーは“しょうがない”とノブに手をかけた。
「入りまぁす……」
 部屋に入った瞬間、ものも言えぬ異臭がアイジーの鼻腔を襲った。後ろ手に閉めるドアが緊張で強く打ち付けられる。
 生姜、イチョウ、ハス、胡椒、ドクダミ、ハナハッカ――あらゆる臭いがまぜこぜになったそれにアイジーは噎せかえった。一通り呼吸を荒ませたあと、改めて部屋の中を見渡す。ガチョウ婆さんのテントの中よりも不可思議なもので溢れ返っていた。
 棚一面にずらりと並べられた瓶の中には名も知らぬ数々の木の実や薬用植物が詰め込まれていて、日当たりの良さそうな一角にはトネリコの鉢が置いてある。真紅や深緑や群青の布が幾重にも吊され、宙に浮かぶカーテンのように名もなき空間を仕切っていた。インテリアとは名ばかりの綺麗に保存された魚の骨がまるでティーバックのようにいくつか干されたりもしている。バッタの脚のように折れ曲がったがらくたとしか思えない器具や、不器用に重ねられた寸胴鍋、重たそうな図鑑の山々、壊れかけの温度計。最新鋭の魔法使いの住家のような部屋にアイジーは圧倒される。
 不気味な色をした湯気が立ち込めるあたりに、その人間はいた。
 後ろ姿で顔はわからない。ミルクを入れたコーヒーのような深い茶色の髪をしている。フードのついた濁ったペパーミントグリーンのローブを着ていて、生地には赤銅色の模様があしらわれてあった。丸まった背中越しに大きな鍋が見える。箆でグツグツとなにかを掻き混ぜているようだった。螺旋を描く湯気は、暖炉の鍋置き台の上にある窓から射す光を真珠光沢に変えていく。怪しげな雰囲気を持つその人間はようやっとアイジーのほうへ振り向いた。


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