ブリキの心臓 | ナノ

3


「そんなことはね、ないよ。うん。リジーとスタンは多分普通に今日は来ないだけなんじゃないかな……えっとね、だけど……シオンは、さ……」不安そうに俯いた。「今は、今だけは、会わないほうがいいと思うな」
 ユルヒェヨンカの言葉にアイジーはこれでもかというほど顔を顰める。宝石のようだと誉めそやされたバイオレットグレーの瞳が、火山岩にも劣らぬ無骨さをひしひしと表していた。
「どういうことなの?」
「一応、ここには来てるんだよ? でも今ルビニエル教授を探しててね……えっと、とにかく、うん、だめ」
 ユルヒェヨンカの歯切れの悪い返答はアイジーをむず痒くさせた。とにかく今はだめ、それはどういうことなんだろう、第一あのルビニエル教授を探しているだなんて、一体どんな冗談なの? アイジーが悶々と考え込んでいると、ペレトワレが悟ったかのような声をあげる。
「あの不快な男のところに行く理由など一つしかありませんね……」
「えっ?」
「確かシオノエル=ケッテンクラートはバンダースナッチの呪いに犯されていましたよね?」
 バンダースナッチの呪い――確か激しい怒りを抱くと手のつけられない暴力者に成り果てるという、あのシオンとは真っ向違う性格を持つ呪いだ。シオンは気さくで明るく、頼りがいがあり、なによりも神様のように善良だ。太陽の元に生まれてきたあの金色の少年が、手のつけられない暴力者になんて……信じられない。アイジーは空を睥睨するように目を細めた。
「ええ、そうなんです。だから、半年に一回くらい……“ある”んです」
「でしょうね……ミス・ヤレイ、貴女も気をつけるように。いくら幼なじみとはいえ、迂闊な真似は出来ないでしょう」
「はい、わかってます」
 ユルヒェヨンカとペレトワレの不穏な会話は、アイジーを半のけ者にしていた。事情を知らないのはアイジーだけに違いない。そう思うとほんのりとした苛立ちが募った。
「なにも気にすることはありません、ミス・シフォンドハーゲン」まるで赤子をあやすような口調でペレトワレは告げる。「全てはあのヴァイアス=ルビニエルに任せておけばよいのです」
 納得のいかない返答ではあったが、言いにくいことならば仕方がないと、アイジーは無理矢理完結させた。この聡明な女教授、キーナ=ペレトワレがそうおっしゃっているんだ、悪いことにはならないだろう。
 さて、翻訳の続きを――と本に向き直った途端、粗い紙の膜を岩粒で破ったような不快音が耳を突いた。それが《オズ》の屋上に取り付けられた業務連絡用スピーカーからだと気づいたころには、ジオラマ=デッドの聞き慣れた厳かな声で静粛な言葉を吐きだしていく。

<避難命令。繰り返す、避難命令だ! 《オズ》の地下牢から薬切れの《青髭》が逃げ出した。まだ《オズ》をうろついている筈だ。緊急に逃げろ。もたもたするな!>

――《青髭》?
 アイジーが目を見開くのと同時に、ペレトワレが切羽詰まった声で「逃げますよ!」と呼び掛けた。彼女に腕を引かれるようにしてアイジーとユルヒェヨンカは立ち上がる。
「放送の通り、地下牢から《青髭》が逃げ出しました。ひとまず《オズ》内から出るほかありません」
「あ、あの、《青髭》って?」
「《青髭の呪い》のことです…………もしやミス・ヤレイ、貴女は知らないのですか?」
「は、い……お恥ずかしながら」
「……ミス・シフォンドハーゲン」
「突発的な“殺人衝動”に駆られる呪いで、この呪いに犯された人間は皆一様に殺人鬼に成り果てます。衝動は発作に近く、殺人衝動を引き起こしている間、その人間には自我という自我が一切欠如し、目覚めたときには記憶だけが残ります。呪解方法は未だ判明しておらず、特別に調合した薬で衝動を抑えているのが現状です。平常状態ではなんら問題はありませんが、発作が起こると手の付けようがありません」
「素晴らしい」ペレトワレは神妙に頷いた。「つまりはそういうことです。普段薬で殺人衝動を抑えていた《青髭の呪い》に犯された人間が、地下牢から逃げ出しました。おそらく、ストックから薬が切れたので新しく調合したものが完成するまでの間そこに入れられていたのでしょう……しかし、完成する前に……」彼女らしくないほど忌ま忌ましそうな表情を浮かべる。「一体ちんたらとなにをやっているのか、あの男は」
 ペレトワレは長いスカートの裾を持ち上げながら走る。その後ろに続いていたアイジーとユルヒェヨンカだが、広場に出たあたりで血相を変えて「待って!」と叫んだ。
「ぁ、あ……あの、シオン……シオンが、もしかしたら、まだ!」
 言わんとしていることを察した二人が苦渋そうに眉を濁した。
「ミスタ・ケッテンクラートのことですから、きっとすぐに逃げ仰せている筈です」
「でっ、でも、今のシオンは……」ユルヒェヨンカはへにゃりと顔を気弱く曇らせた。「私、心配なんです」
 アイジーは一瞬躊躇うように視線をさ迷わせた。アイジーだってシオンが心配じゃないわけがない。けれど、ペレトワレの言い分もよくわかった。ユルヒェヨンカは“今のシオンはだめだ”と言っていたし、どちらを信じるべきかがわからない。
「もう、護衛官の二人も放たれたはずです。なんの心配もございません」
「嘘! だったら、なんで私たちは逃げてるんですか!?」とうとうその影色の瞳に涙を浮かべた。「なんの心配もないなら、私たちがここに残っても、大丈夫な筈ですよね?」
 聡くなったな。アイジーはユルヒェヨンカを見つめて微笑ましげに苦笑した。けれど事態を思い出して、すぐに目をつぶる。
 やってみるしかないか。
「――ジャバウォック」ペレトワレやユルヒェヨンカに聞こえないような掠れるほどの声でその名を呼ぶ。「シオンの気配、貴方ならわかるでしょう」
 息を潜めるようなアイジーの真後ろで、真っ黒い影がスンと――迷惑そのものであるとでも言いたげに――現れるのを感じた。ベルベットのように艶のある深く優しい声が不機嫌そうに鳴った。
(わかるよ……すぐ近くにいるな。半径三百メートル以内。西の方角。少なくとも、ここから遠退こうとしている足取りじゃあないね)
「ありがとう」
 アイジーはそう言うとユルヒェヨンカに向き直った。赤毛が焦燥の風に揺れている。彼女の手をぎゅっと握って「いい?」と落ち着かせた。
「私がシオンの様子を見に行くわ。だから貴女はペレトワレ教授と一緒に行きなさい」
「え……」
「大丈夫、彼を見つけたらすぐに連れて行くわ」
「なにを言っているのですか、ミス・シフォンドハーゲン」
「私はきっと大丈夫ですわ、ペレトワレ教授」アイジーは痛々しいくらいまっすぐに告げた。「行ってきます」
 駆け出すと、夏特有の密度の高そうな風がさらりと肌を舐める。一定のリズムで地を踏む音は砂を払うように巻き込んでいく。逃げていく人々の間隙を縫いながら建物の波を掻き分けた。暫く走っていると、見知った後ろ姿が見える。
 間違いない。シオンだ。
 噛めば甘そうなミルクティー色の髪や、少年らしく腕まくったシャツ、柔らかい生地のサルエルに靴紐の濃いブーツ。いつもよりも丸い後ろ姿がどこか様子がおかしかった。いつもは被らない深い色のキャスケットが珍しかった。あの軽快そうな足取りが頼りないのが不思議だった。様々な不穏を抱えながら、アイジーはその肩を掴む。
「シオン!」


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