ブリキの心臓 | ナノ

2


「本当にいいことだらけだわ」
 アイジーは《オズ》の中庭でユルヒェヨンカ、ペレトワレと共に古い書物の翻訳をしていた。外国から取り寄せた書物らしく、古い言葉を多く用いるため、なかなか読み進めにくい文字羅列だった。ユルヒェヨンカは早くからギブアップしており、アイジーとペレトワレが四苦八苦翻訳していくのを書き留めるだけの係に徹している。埃っぽい臭いのするページをパラパラとめくりながら、ペレトワレは瞳の淡く細い笑みを浮かべてアイジーの言葉に反応を返した。
「いきなりどうしましたか、シフォンドハーゲン教授」
 穏やかな昼下がりにぴったりの優雅な雰囲気のあるペレトワレは、その唇からミルクティーでもこぼれ落ちてきそうなくらいの優しい声でアイジーに言う。
「最近、本当にいいことだらけなんですの、ペレトワレ教授」
「それはいいことですね」
「ええ、いいことですわ。怪しいくらいに」
「不幸と幸福の山を程よく味わった者は長く続く幸福に比例して久しい不幸を懐かしむ。……貴女が恐れているのはこれから起こるかもしれない不幸ですね?」
「やだ、アイジーったら、やっぱりラブロマンスヒロインになりたいんだ」
「ラブロマンスヒロインとは? ミス・ヤレイ」
「幸せすぎて怖いのーっていう女の子のことです」ユルヒェヨンカは春のそよ風のように甘い声で困ったふうに続ける。「アイジーは心配性だよ。……確かに君は可哀相なことに《ジャバウォックの呪い》っていう死の呪いに憑かれてるわけだけど、あの偉大なるアイジー=シフォンドハーゲン教授にかぎって解けないわけがないって!」
「いくらカカシの呪いを呪解したからって、ユルヒェヨンカは私を過大評価しすぎなのよ」
「私知ってるよ。アイジーが本気を出したらあの高ーいお空だって飛べちゃうし、たった一睨みしただけで皆を黙らせちゃったり出来るの」
「友達の期待が重い……」
 アイジーは神妙な表情のまま震えるように低い声で呟いた。それに対してペレトワレはくすくすと華奢な笑い声を喉元で鳴らす。
「とても理不尽なことを言うことになりますが、貴女には先の不幸を案じる暇などありませんよ? これ以上不幸なことにならないために、今私たちはこれを翻訳しているのです」さっきまでかじりつくように覗き込んでいた書物をひらりと手の平で指した。「案ずるのも大事なことです。察するのも、思考するのも。貴女には慎重な洞察力と知性を感じます。それと同様に、目の前が見えなくなるような不器用さと少々強引な傲慢さも。とりあえずは目の前のことから片付けましょう。なによりこの書物は、貴女のための“そういうもの”ではありませんか」
 今こうして三人で翻訳作業に取り掛かっている書物は、『古今呪人総攬』という、過去465年から910年までのこの国の呪いについてが他国からの視点により記されている。特に目立った事件を起こしたものなどがこの書物に書き表されているらしく、“呪いによって死んだ事件”などが――つまりは死の呪いについてなどが載っている確率が高いという。これを読むことが出来れば、過去にジャバウォックの呪いに憑かれた人間の詳細を知る手がかりになるかもしれない。《オズ》中の書物を読み漁り、手を尽くしつくしたアイジーにとって現段階においては最後の砦とも言える手段なのだ。
 一から全てを翻訳していくには時間も労力もないので、まずは五章分五つのタイトルを訳して、それから知りたい項目をそのタイトルから選び出し、そこから翻訳作業に入る――という比較的効率のいい順序を追っている。しかし廃れた言葉も多く入り混じっているため、たった一行を訳すだけに三十分もかかったりしていた。
「“他に去りし者の”……者の……? “他に去りし”という意味すらわかりかねますわ」
「この『新言語百科典』では“他界”を意味し、こちらの『改訂版・語訳をしよう!』では“持ち場を離れる”や“考えを曲げる”などの意味がありますね。文脈から判断するに『新言語百科典』のほうが正解かと」
「繋げると――“生と言われる浅い夢を見たとうに死んだ人間は”――ですね? ペレトワレ教授」
「恐らくは」
 こうしてペレトワレに付き合わせることを悪いと感じながら、同時にアイジーは彼女に感謝していた。いくらアイジーが膨大な量の書籍を読み込んでいたとしても、やはりまだ十五歳の子供なのだ。歳の壁の前では偽れない無知があるし、なによりすぐに挫折してしまう筈だ。この作業に助力をしてくれる先輩様に、アイジーは心中で尽きる限りの賛辞を送った。
「それにしても意外だな」
「なにが?」
「だってね、アイジー、あの《鏡の呪い》を受けている教授にすらわからない言語があるんだよ?」
「まあ、それを言われればそうね」
 アイジーはユルヒェヨンカの言葉に納得して、ペレトワレのほうを見遣った。
 キーナ=ペレトワレは《鏡の呪い》に犯されている。鏡の呪いとは知の呪いであり、なんでもわかってしまう呪いだった。カカシの呪いとほぼ対極に位置するその呪いは千里眼とも天才とも魔性の知識とも渾名され、当の本人ですらどういう経緯で得ているのかもわからないことを知っているという、複雑怪奇な呪いだった。キーナ=ペレトワレ、彼女の知らないことはない。それこそが彼女を彼女たらしめ、独特な物言いをする根源だった。
「確かにそうですね……知らなくていいことは簡単に知れてしまう――いいえ、知っているのに、求めているものほど出て来はしないのです。そして知っているからこそ、本当に哀しい悲劇を生んでしまうことがある。知らないほうが、わからないほうがいいこともあるのですよ」ペレトワレはせせらぐような溜息をつき少し苦笑した。「世界で一番美しいのが誰かを知る必要などどこにもないのと同じようにね」
 その言葉に、アイジーは自分の“無知”を噛み締めて、ユルヒェヨンカは自分の“無能”をやんわりと撫でた。
 アイジーは全くなにも知らない。驚くほどに無知で無教養だ。知識だけは人並み以上にあるのにそれを情けないほどに持て余している。余計なことには敏感であるのに肝心なことをなにも理解していないのを、今までで厭と言うほど悟ってきていた。十五歳になるまでは外の世界のことすら知らなかったのだ。シフォンドハーゲンの屋敷という箱庭でずっと当たり前のように生きてきた。箱庭を世界と勘違いとし、家族や召使いを全人類だと思い込み、自分の立場や環境すら断片的にしかわかっていなかった。知る必要がなかったからだ、たとえ知ったところで、何一つ変わらないから。だからこそ今のアイジーは無知を徹底的に嫌う。無知は恥であり罪であり罰だ。カカシの呪いが解けたユルヒェヨンカも、その気持ちはよくわかった。そしてそれは、ペレトワレの言う言葉の意味を理解できないことを表す。これが無知と既知の違いなのか――二つの“正しさ”には完全なる断絶があり、それからは目には見えない凄まじさを感じる。
 それからアイジーは「……そういえば」と小さく話を切り替えた。
「今日はシオンもリジーもスタンも見かけないわね。ハーナウ校って上級生には居残りをさせる習慣でもあったりするの?」
 ハーナウ校――庶民の十三歳から十八歳までの子供が通う学校であり、シオンやリジー、スタン、そしてユルヒェヨンカの学び舎でもある。そこの六年生であるシオンたちはユルヒェヨンカの先輩に当たった。
 ユルヒェヨンカは躊躇いがちな喉で「ううーん……」と唸るように呟き、まどろむように鮮やかなグレーの瞳を細めた。


|
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -