ブリキの心臓 | ナノ

1


 “あたしの人生の唯一の誇りだ”――そう、ブランチェスタがあの二人に言っていた。その勇ましくも気高い言葉に、子供のように心を打ち振るわせたものだ。この一言に、一体どれほどの苦悩を隠していたのか、知りもしないで。



 迷子にはならなかった。
 それだけが、いや、それがなによりも、アイジーに勇気を与えていたのは言うまでもない。木立ちする青々とした空を見上げて、アイジーはぐんぐんと街並みを突き進んでいった。
 職人の街・アンデルセン。
 薄瑠璃とも薄紅とも違う、トルコ石色や薄い黄色、淡いラクダ色をしたまばらな煉瓦道が永久に続き、それは硝子を含んでいるのか太陽の光を浴びてきらきらと瞬いている。カラフルな雑誌や新聞が並べられた露店や山吹色の影を落とす窓の広い建物。流れる川は幻想的なまでの水色で、その上をゆったりと漕ぐゴンドラには深い帽子を被った屈強な男たちがいる。靴職人の工房からは絶えずミシンの音が聞こえてきたし、ふと覗いた赤縁の窓の中には艶々としたバイオリンが飾られているた。推進ジェットを取り付けた空飛ぶ椅子や絨毯からは静謐な透明色の空気が吹雪のように舞って、花壇に並んだ名も知れぬ夏色の花をゆらゆらと揺らす。異種交配された蝶模様の翼を持つ小鳥たちが囀るのは、雄が歌う求愛の調べだろう。どこからかはカラタチの擽ったい芳香が漂ってくるが、あっという間にそれは掻き消えて、代わりにヨーグルトとレモンと蜂蜜のアイスの匂いがスイーツパーラーから誘惑してくるのがわかる。
 それを思いっきり食べたい欲求を押さえつけて、アイジーは“キラキラの建物”を探し回った。
「おかしいわ……たしかにシオンにはこのあたりだと聞いていたんだけど……」
 それは休日のことだった。シオンに大方の行き道を教えてもらい、馬車でその付近まで到着、あとは歩きで――という算段だったのに、どうも目的地には着きそうにない。オーザやイズ、エイーゼにも内緒で、屋敷から抜け出すように外に出たアイジー。ここまで来て頼れるような人間もおらず、地図を見ながら困惑していた。困惑しながらも歩みを止めないのは意志の表れだろう。あたりを数度伺いながら、右の角を曲がった。
 今回のアイジーの服装は、いつもよりもずっとシンプルで素朴だ。前回グリムで起きたことを考えると、到底お洒落する気になれなかった。地味な色のワンピースにはフリルもレースもついておらず、ただゆるやかなリボンだけが装飾されている。貴族にしかないような艶やかな長髪を除けば街娘にしか見えないだろう。髪だって、いかにも手入れしてますの、なんて堂々とした態度を取っていれば騙せるだろう。シオンやユルヒェヨンカとつるみだしてからは庶民の知恵が働くようになったか、だんだんと逞しくなってきた。
「キラキラ、キラキラ……第一キラキラってなんなの? シオンは見ればすぐにわかるって言っていたけど」
 アイジーは首を傾げた。
 アイジーが目指しているのは、宝石商・“マッカイア”だ。アンデルセンの中にあるというキラキラの建物――それがマッカイアの店舗だという。
 しかしアイジーにとってはアンデルセンのもの全てがキラキラと見えてしまう。青空の下に並ぶ町並みは真珠のように光沢し、花も服も窓も木もビーズのように輝いている。それよりもいっとうキラキラしてるだなんて、よっぽどだろう。
 アイジーは「ふぅむ」と唸るように眉を潜めた。

“……信じられないなら、確かめてみればいいと思う。でも君、灰かぶりの呪いのこと、理解してる?”

 昨晩ジャレッドに言われた一言によってアイジーは突き動かされていた。
 実を言うとアイジーは、《灰かぶりの呪い》の深くを知らない。それは勉強不足だとかいう怠惰的な理由ではなく、単純に“縁がなかった”のだ。アイジーはジャバウォックの呪いや災厄の子と呼ばれる人間などにほとんど重点を置いていたし、その動作はつい最近まで続けられていたのだ。ほとんどの残り分は、カカシの呪いの呪解についての論文に時間を費やしていて、正直ほかのことを調べている余裕などなかった。研究初期のころ読み漁っていた書物にチラリと見かけたのが最後だったのだ。
 ただ数字だけ。
 たったの一文。
 灰かぶりの呪いについて記述してあったくらい。
 《灰かぶり》――不幸の呪い、と。
「……ああ」
 見つけたわ、と。アイジーは失笑気味に呟いた。バイオレットグレーの瞳が数メートル先の建物をゆっくりと見上げていく。
 その建物は、アイジーが今まで見たもの全ての中で最も華美な見た目をしていると言えた。宝石商という名に相応しい。実に“キラキラ”している。
 壁面は砕いた白金を埋め込んだかのように粗く煌めいた鏡色で、傷や汚れひとつなくつるつると平らだった。黒真珠を溶かして作ったような伸びやかな薔薇や茨の模様が施されている。扉は曇り硝子で出来ていて中の様子は殆ど見えないが――よく磨かれているのがわかる――太陽の光を反射して真っ白になっていた。ドアノッカーはシフォンドハーゲン邸のものよりも随分と立派に見える。銀色の蝶が優雅に翅を伸ばし、その翅は間違いなく宝石で出来ていた。街の雰囲気とはまた一つ掛け離れた意味でキラキラとしているそれに、流石のアイジーも息を呑んだ。
「店をまるごと強盗してしまいたくなるようなところだわ……」
 頭をゆるゆると振りながら、立ち尽くしていた足を一歩ずつ踏み出していく。
 アイソーポスの貴族も一目置くわけだ。華美好きな彼らのこと――こんなに立派な建物、たとえアンデルセンにあったとしても気に入ってしまうのも無理はない。しかもこの外装なら、中はもっと期待できる。町並みよりも随分と頭が出ているその高さは気位の高さと同じだろう。貴族どころか王族が来ても恥じないよう、最大限の気を使っているようにも見える豪奢だ。
 ここの家の娘に生まれたなら、少なくとも一端の貴族に負けずとも劣らない贅沢が出来るだろう。毎日お風呂には入れるし、ふかふかのベッドに身を挟み込める。朝昼晩の三食を美味しい料理で満たせられるだろうし、繊細で緻密な刺繍の施された高価なお洋服を何枚も着せてもらえるに違いない。庶民の女の子の夢がぱんぱんに詰まった砂糖菓子のような生活をいつまでも送れるはずだ。毎日同じような質素な服を着なくても、シャワーを我慢しなくても、ましてや煙突掃除屋なんてことをしなくても、十二分に生きていくことが出来るだろう。
「本当に、ブランチェスタは“マッカイア”の娘なのかしら……?」
(まだ疑ってるのか)
 さりげなく自分の呟きを拾ってきたジャバウォックにアイジーは一瞬視線を外す。
「まあ、そうね」周りに怪しまれないように小声で返した。「ブランチェスタを罵る意味でなくって、その……ほら、彼女にはあまりにも似合わないから」
(言おうとしていることはわかるよ)
「貴方は納得してるの?」
(ブランチェスタ=マッカイアが“マッカイア”であることをか?)
「そうよ」
(なら、その通り)真っ黒な青年がスンとアイジーの隣に並ぶ。(この建物から、ブランチェスタ=マッカイアの気配がする)
「そんなの、わかるの?」
(まあね)
「へぇ、ジャバウォックってすごいのね……」
 アイジーの感嘆の声にジャバウォックは目を見開く。鋭い金眼をアイジーに向けた。アイジーは弁明でもするように「あっ、違うわよっ、貴方がすごいって意味じゃなくって、いえ、すごいんだけど、その、種族っていうの? 種がすごいのよ、種が!」と喚き散らす。あくまで小声だったのが迫力に欠けるが、ジャバウォックも追及することはなかった。
「って、ていうかジャバウォック、ブランチェスタの気配がわかるのなら、彼女がここのどのあたりにいるのかもわかるんじゃないの?」
(わからないよ。君の知らないことを僕は知らないんだ。僕はあくまで君自身だからね)
「ブランチェスタの気配を察知したじゃない」
(それは僕のスキルのうちだからさ)
「ふぅん」アイジーは疑わしげに目を眇めた。「ジャバウォック、今私の後ろを横切った人は男だった? 女だった?」
(は? ああ……あれは、男だね)
「私は男だって“知らなかった”わ」
 アイジーの言葉に、ジャバウォックは数秒間押し黙る。それからすぐに聞き心地の良い笑い声が鳴った。
(君は結構したたかだな)
「そうかしら。それで、ジャバウォック、今のはどうやって説明するつもりなの?」
(説明はしない。このあたりの細かい原理は僕にはわからないから。そういうのを考えるのは君の仕事だろ?)
 アイジーの挑発的な笑みに、更に余裕の笑みを囁く。アイジーはぷんと頬を膨らませて機嫌を損ねた。
(それで、君はどうするつもり?)
「……行く、行くわよ、勿論。そのためにバクギガン教授に無理を言ってしまったんだから」
 アイジーは鞄の中にしまってある三枚ほどの紙束を覗き込む。それから大きく深呼吸をした。
 アイジーの作戦はこうだ。
 まず宝石商“マッカイア”の中に客として入り込む。それとなく会話を交わしたあと――ブランチェスタに届けなければならないものがあったから渡したい、ここにいるならどこにいるかを教えてほしい――と切り出す。場所を聞き出せれば儲け物、ブランチェスタの状態が知れる。聞き出せなくてもそれはそれで構わない。相手が自分から渡しておくと持ち掛けたとしても、機密事項なので、と返せば深くは申し出られないだろう。今回の計画はあくまで“ブランチェスタの状態を見る”ことにある。つまり渡せなくても構わない。むしろ渡すことはマイナスだ、アイジーにとってのリスクなのだ――何故なら、この計画ではアイジー=シフォンドハーゲンはブランチェスタ=マッカイアと顔を合わせてはいけないから。
(本当、自分を嫌ってるだろう人間によくそこまでむきになれるよ。ブランチェスタ=マッカイアに“渡さなければならないもの”とやらの存在が知れたとき、次に彼女が《オズ》に来たとき訝しまないよう、メイリア=バクギガンに頼んでおくなんて)
「この書類は、前々から彼女がバクギガン教授に頼んでおいたものなんですって。バクギガン教授に随分と無理を言って、忙しいなか優先的にこれを取り計らってもらったの。徹底はしなきゃ。それにね、ジャバウォック」アイジーは目の前の建物に一歩踏み出す。「ブランチェスタ=マッカイアは、私が好きな人間よ」
 アイジーが中に入るころには、真っ黒の影はスンと消えた。


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