ブリキの心臓 | ナノ

2


 挨拶巡りでもしなければならないのかと陰欝していたが、その心配は瞬く間に杞憂だったと知る。相手からこっちに話し掛けてくるのだ。誘蛾灯にでもなったかのような気分さえした。
 歓談できるほどの間柄でもないのに、どうして声をかけてくるのか――そうは思うも、歓談できる間柄になっておきたいのだろうと、アイジーは推測した。相変わらず窮屈な思いをするだけだった。途中、エイーゼの学友たちとも言葉を交わした。というよりも、エイーゼの学友率のほうが高かった。こんなことになってしまうなんて、さっきエイーゼと別れた意味は。アイジーは精神的に疲労していくのを感じていた。
 疲労を感じさせるのは対面的なストレスだけでない。ボーレガード家、シベラフカ家、イェルビンスキー家、スワン家、グレイス家、ティストイル家、ヴァイオリン家、ハンベルク家――シフォンドハーゲンと特に親交の深い家は絶対に覚えろと、イズに口が酸っぱくなるほど言われた。その聞き慣れぬ情報が、さらに脳みそを圧迫し、把握に疲労困憊だ。
 不幸中の幸いが、“その貴族以外、あとは最悪にこにこして乗り切っているだけいい”と許されたことである。あまりに適当すぎるが、案外、そういうものなのかもしれない。シフォンドハーゲン家ともなる大名家なのだ。嫌でも名前を覚えてもらいたい家はたくさんあるだろう。相手がどんなアクションを起こすかはわからないが、熱心な家なら自然と覚えてしまうはずだ。気張るのは親交の深い家だけでいい。
 そうこうしているうちに、三十貴族と挨拶を交わしただろう。アイジーはものを食べる暇も与えられなかった。口元が引き攣りそうなくらい笑顔を貼りつけていたとき、軽やかな曲が流れ始めた。
 シフォンに包まれたような華やかな音色はダンスをするに適したリズムだ。途端にホールにわっと色とりどりのドレスの花が咲いた。曲に合わせてくるくると優雅に踊り始める。
 アイジーは嫌な予感がした。
 急に自分の周りに同世代ぐらいの青少年の人数が増えたような気がした。紳士的に話しかけてくれてはいるが、意識はあくまでダンスに向いている。そりゃあ、このタイミングで踊った相手なら、親しくなるのは容易だろう。おおっぴらにダンスを申し込んでくる人間はいなかったが、さっきよりもスキンシップが増えたのは明らかだった。
 オーザもイズもいつもならさりげなく制してくれただろうが、大人には大人の会話があるのだ。いまや、この社交場は、大人の世界と子供の世界に二分されている。アイジーの運命は、彼女自身の技量に命運は託されていた。限界も近い、アイジーの技量に。
 押さえこんで、見ないふりをして、無理矢理捩伏せていた人見知りの気が、ここにきて急に爆発しそうになっていたのだ。滲む羨望や嫉妬や興味の目が、全て気持ち悪く感じてくる。今すぐにでも邸に戻り、眠ってしまえたなら、どんなに素敵なことだろう、そう感じたくらいだ。
 しかし、その絶妙なタイミングで「やあ、アイジー、やっと会えたよ」と――他よりもよっぽど気さくに話しかけてくる声に、アイジーの小さな願望は抹殺される。
「ほら、言った通りでしょう、お父様。コッペリア座の踊り子が束になっても敵わないくらいの、麗しい天使のようだと」
「いやいや、これは、聞いていた以上だな。その瞳はまるでブルーゾイサイトのようだ。今まで社交界に出てこなかったのが不思議なほどじゃないか」
 きりりとした眉に、洗練された立ち振る舞い。赤銅色の釦が映えるジャケットを着た少年が、その父親と思わしき人間と並んでいる。アイジーは内心で“出たな”と睥睨した。
「あら。どうも。ゼノンズ、ミスタ・ヘイル」
 アイジーが返事をしたのにゼノンズは微笑み返す。最後に会ったのはユルヒェヨンカの件で口論をしていたときだ。それをまるでなかったことのようにしれっとしているのだから、本当に彼は神経が図太い。
 周りを押し退けるような高圧的な態度に辟易しながら、アイジーは微笑んだ。
「私のご要望通りの絨毯をありがとう、ゼノンズ」
「お気に召したならなによりだよ。そのドレスも素敵だ、今日の君は格段に美しい。調子はどう?」
「最高って感じよ」最高にしんどいって感じ。「ところで、ミスタ・ヘイルに会うのは初めてでしたわよね?」
 アイジーはドレスを摘まみ上げ、優雅にお辞儀してみせた。子供っぽいそぶりだけれど、お前がやれば大受けすると、エイーゼに言われた“一張羅”だ。
「アイジー=シフォンドハーゲンと申します。素晴らしい今宵に、お会いできてうれしいですわ」
 アイジーがそう言うと、ヘイルは犬のように穏やかな笑顔を見せた。
「どうも、ミス・アイジー=シフォンドハーゲン。君のお父様にはいつもお世話になっているよ。ちゃんとしたお礼はまだできていないがね」
「あら、ここまできて、貴方までお父様の話をなさるのね? さっきからお父様がモテてモテて大変。お母様ったらきっと嫉妬してしまうわ!」
 少し離れたところにいるオーザとイズを一瞥しながらおどけてみせるアイジーに、周りはクスクスと笑った。
 ヘイルの、オーザ=シフォンドハーゲンの存在をこの歓談に絡めてほしいという意図はなんとなく察してはいたアイジーだが、それを無慈悲にかなぐり捨て、あくまで父親を呼ばなかった。
 人間は女の子を――それも可愛らしい女の子を、馬鹿だと思う節がある。アイジーの“一張羅”も、それを促進させた。さきほどの会話は“あら、ならお父様を呼ばなくっちゃ”という流れに持っていきたかったに違いないし、また、持っていけるはずだとアイジーを見下していただろう。
 よろしくってよ。そちらが自分を馬鹿な女の子だと思っているのなら、なってさしあげても。ただし、なににも気づいてあげない。
 さっきの意図などわかりません、というような無邪気な顔でアイジーは対応する。
「さっきからみんなお父様の話ばっかりなんですのよ。もしかしたらみーんなお父様の愛人なのかしらって勘違いしてしまうくらい」
 つまり、それだけ多くの人間が、似たような策をアイジーに吹っかけたわけであり、そして、アイジーはいなしているわけである。
「ミスタ・シフォンドハーゲンは、交遊の域がお広い人間だから、仕方がないだろうね」
「そうですわね、きっとあの薔薇の花びらだってお父様のお友達に違いないんだわ」
「君は面白いことを言う子だな」
「エイーゼと違って、愛嬌がありますでしょう? エイーゼは愛想はいいけど、かわいくはないの」
「酷なことを言う。君と比べてしまえば、誰もかわいくないと言うほかあるまい。ミス・アイジー=シフォンドハーゲン?」
「ふふっ、今の言葉忘れませんから。いつかミセス・ヘイルに告げ口してさしあげるんだわ」
 こりゃまいった、とまた軽やかな笑い声が拡がった。
 なんとか煙を巻けたようで、アイジーは微かに口角を上げる。
「ああ、そうだアイジー」
 ゼノンズは思い出したように声をかけて胸を張った。なんとなく嫌な予感がした。
「初めて会った日の約束、覚えているかい? パーティーで会ったらダンスをしようって」
 やられた――と思った。アイジーの周りに出来ていた人だかりの面々にもピシリとした亀裂が入るのを感じる。まさかそういう誘い方を持ち出してくるなんて、狡賢い。というよりも、図太い。
 再度言う。最後にゼノンズと話をしたのはユルヒェヨンカのことについて喧嘩別れしたときだった。あのときの空気はとても険悪なものだったし今でも少し根に持つ部分がアイジーにはある。それなのに、彼はなんでもないことのように、馴れ馴れしくダンスを申し入れた。
 図太い。図太くて、厚かましい。厚かましいのに、どこか落ち着いた物腰をしているのが更に神経に障る。まるで喧嘩別れしたのをこちらが譲歩してやっていると言わんばかりではないか。
 ここは流石に踊るのも仕方がないかとアイジーが口を開いたとき、オーザが「アイジー」と呼んだ。
「お前に紹介したい相手がいる。来なさい」
「わかりましたわ、お父様」
 グッドタイミングな呼び出しにアイジーはほくそ笑んだ。微妙そうな顔をするゼノンズやミスタ・ヘイルに「では、また」と微笑んで去っていく。いくらミスタ・ヘイルとはいえ“紹介したい相手がいる”と言って呼んだところへ邪魔するようにおべっかを使う人間ではないだろう。これで完全に二人との会話を断てたと言える。アイジーは軽やかな足取りでオーザのもとへ向かう。
 オーザの隣にはエイーゼとテオがいて、そして見慣れない親子二人が並んでいた。どちらも感情を表に出さないタイプなのだろうか、冷淡な色の目は見据えるように真っ直ぐで唇はじっとしたまま動かない。二人とも、どこか凛としている。エイーゼが“優雅な身のこなし”でゼノンズが“立派な立ち振る舞い”だとしたら、この二人には“隙がない”という表現がしっくりとくるのだ。少年のほうは、見たことがある気がする――闇色の髪に海よりも深いブルーの瞳――彼はアイジーを淡白に見据えていた。
「エイーゼから聞いたぞ……ボーレガードとは何度か会ったことがあるらしいな」
「はい、お父様。もうすっかりよくしていただいていますわ」
 どの口が言うのかと自分でも思ったし、それはテオも同じらしかった。顔を反らしたテオの肩が小刻みに揺れている。父親の前だからしょうがないと割り切ってアイジーは受け流す。
「シベラフカ家とはまだ交遊を持っていないだろう。シベラフカ家もボーレガード家と同じく古くから繋がりがある。挨拶を」
 そう言われてミスタ・シベラフカに向き直る。相変わらず無愛想な表情だったが、さっきよりは幾分かましになった気がした。アイジーが声をかけるよりも先に、洗練された動作でアイジーに礼をする。
「はじめまして、アイジー=シフォンドハーゲン嬢。私の名はダレッド=シベラフカという……特に息子は君のお兄さんと仲良くさせていただいているらしい。ジャレッド=シベラフカだ。お前も挨拶を」
 ジャレッド=シベラフカ。聞いたことがある。エイーゼの昔からの友人で。いや、そうではなく、それ以前に、彼は、あのとき。
「ああ、思い出したわ!」
 アイジーは手を重ねて笑った。輝くような笑みはすっきりと、会話を途切れさせた悪意などは微塵も感じられない。エイーゼたちがぎょっとするなかアイジーは楽しそうに続ける。
「ずっと、貴方とどこかで会ったことがあるような気がしていたの。やっとわかったわ! そうよね、最初に見たときに気づくべきだったのよ、ゼノンズはちゃんと貴方の名前を言っていたわ」
 ジャレッド=シベラフカ――エイーゼの友人であり――《オズ》の登録式後の交流会でゼノンズの後ろにいた人間だ。そしてこの前、シェルハイマーとハルカッタに桃を落としたとき、目が合った少年。
「いつもゼノンズの後ろにいた子でしょう? まさかエイーゼのお友達だったなんて!」
「お、おい、なんでそこでヘイルが出てくるんだ? アイジー、お前ジャレッドと会ったことがあるのか?」
「そうなのエイーゼ! あのね、実は私と、」
 そのときだった。
 今まで寡黙を貫いていたジャレッドが、いきなりアイジーの前に跪いた。


|
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -