ブリキの心臓 | ナノ

2


(だから、風呂にいるときやトイレにいるときは、僕が傍にいることを意識しないよう、話しかけないでおいたんじゃないか)
「だ、だって、ず……ずっと、ずっとそうやって、騙しておいてほしかったわ……!」
(君が聞いてきたんだ。僕に責められる謂れはないだろう?)
 真っ赤になりながら――恥辱だか憤怒だか今となっては検討もつかない涙をぼろぼろと零すアイジーを、ジャバウォックは宥めるように撫でた。しかし、その手すら「触らないで!」とアイジーは強く拒む。彼は付き合ってられないとでもいうふうに首を傾げた。
 アイジーは壁にぎゅっと手をついて全身の熱を冷ますように動かなくなった。ひらひらと翻すような風が吹くたびに気持ち良く熱は滅んでいく。息を整えて、ゆっくりと振り返った。呆れた顔をしたジャバウォックが頬杖をついて優雅に座り込んでいた。
(気はすんだ?)
 アイジーはつんとした態度を取る。まるでこの数日間のように、ジャバウォックなど知りません、という表情をしていた。さっきまで持っていた桃をもう一口啄む。
(またサンドバックになったのかい。君って案外、マゾヒストなんじゃないの?)
「……そんなわけないでしょう」
(どうだか)
「そんなわけないって言ってるじゃない!」
 と叫んだところで、自分がジャバウォックと会話をしてしまっていることに気づいた。アイジーは“しまった”という顔を浮かべる。
 ゼノンズといいジャバウォックといい、何故彼らは自分を乗せるのが上手いのか……悔しそうに顔を歪ませるアイジーに、ジャバウォックは柔らかに嘲笑した。そして、なにか言い出そうと唇を開かせた途端。
「待って」
 アイジーは自分の唇に人差し指を当てて神妙な顔をした。耳を澄ませるように身体を傾け、ぴとりと壁に身を寄せる。
「……今の声……」
 ジャバウォックはつまらなそうな顔をした。そして黒い髪を靡かせてスンと姿をくらます。
 アイジーは貝のようにじっとさせて目を閉じる。

「お前ら、まさかとは思うがそれを盗んだのか?」

――ゼノンズだ!
 外から聞こえてきた、なにやらただならぬほどに冷ややかなその声に、アイジーは目を見開く。そして、そっとばれないように連絡橋の手すりにしがみついて外を覗き込んだ。ぶわっと風が目を撫でたと同時に不審な光景を目撃する。
 ゼノンズ――そして彼の隣にいる同い年くらいの黒髪の青年と――が向かい合っているのは、あの小生意気な茶髪のシェルハイマーと、ろくでなしの黒髪ハルカッタだった。よりにもよって何故このような面子が一堂に会しているのか、そしてこの険悪な雰囲気はいったいなんなのか。しかし、ながらなによりも目を引いたのが、シェルハイマーとハルカッタが持っている一本の長い塊だった。煤に汚れた金属がぎらりと鈍く光る、茶色い長細い棒――ふさふさと絡まる糸とも木切れとも付かない尾を伸ばす――間違いない、ブランチェスタ=マッカイアの持ち歩く、というより乗りこなす、空飛ぶ箒だった。
 そういえば、さっきゼノンズは“それを盗んだのか?”とあの二人に尋ねていた。まさかとは思うが、あそこにいる小生意気とろくでなしは、ブランチェスタから箒を盗んだというのだろうか。
 それを思うと、アイジーは胸の奥がカッと熱くなるのを感じた。
「……お前らには関係ないだろ」
「って、言ってるわけだけど……ジャレッド、本当にあれはマッカイアのものか?」
「間違いない」
「まあ、そうか。そんな煤まみれの汚い箒、あいつしか考えられない……というわけでお前らは泥棒決定なわけだが、なんだ、その箒を盗んでどうするつもりだ」
「だから、お前らには関係ないって言ってるだろ!」
「原始の石頭様は引っこんでろよ」
 なんだなんだこの状況は。
 嫌そうに顔を顰めるゼノンズ。その隣で無表情をする、けれど獰猛なまでの蒼い眼差しを向けていた、黒髪の少年。苛烈に顔を歪ませたハルカッタと、面倒くさそうな顔をしたシェルハイマー。
 そこでゼノンズが、まるで挑発でもするみたいに、呆れたような溜息をつく。
「さては、それを盗んでマッカイアに一矢報いようとしたわけだ? そんな、持ち歩いたら人目に付くようなものを、憚らずに。頭がいいな、お前たち」
「……なんだと」
「お前たち、いつもマッカイアにしてやられてばかりだからな。気前よくかまいにいくせに、いっつも口八丁丸めこまれてしまうとか。勇敢だよ、俺なら恥ずかしくて外には出られない」
 その言葉に二人が激昂するのがわかった。
 息を呑む僅かな声が聞こえてきたほどだった。
 ゼノンズはそれすらも鼻で笑うように続ける。
「流石だな。没落貴族のシェルハイマーと外来貴族のハルカッタ。卑しい奴らのやることは相変わらず卑しい」
 没落貴族と外来貴族。
 その単語にアイジーは目を見開く。
 シェルハイマーとハルカッタはグリム出身だという。だから、アイジーは勝手に二人が庶民だと思いこんでいた。庶民だから、自分を嫌うのだと。そう思いこんでいた。でも、それならば、同じ身分のブランチェスタにも突っかかる意味がわからなかった。だから、アイジーは勝手に、ブランチェスタの身なりを馬鹿にしているのだと、そう思いこんでいた。
 しかし、“没落貴族”と“外来貴族”なら話は変わってくる。没落した星回りのよくなかった哀れな貴族。異国の血を嘲笑われる惨めな貴族。社交界ではすぐに嗤いものにされる可哀想な立場。それでも――彼らは貴族なのだ。あくまで心は高貴なままなのだ。だからこそ、“庶民”のブランチェスタを気に食わず、そして自分たちを冷遇する“貴族”の出であるアイジーを気に食わなかった。
 これまで自分に嫌な思いをさせてきたことはちっとも許せないが、この瞬間は、ほんの少しだけ、同情してしまう。きっと没落貴族であることを、外来貴族であることを、正当な貴族であるヘイル家の息子に、嘲笑われたくはなかっただろうから。
「とりあえず、それ、どうするんだ? まさか貴族の誇りも失くして本当に盗みにでも走るつもりか?」
 そう嘲笑うゼノンズを相手に、二人は目を細め、反攻に出た。
「……いやにかまうな、ゼノンズ=ヘイル。高がマッカイア相手に」
「まさか、マッカイアに肩入れでもしてるのか? これは恐ろしい噂が立つな」
「そんなわけないだろう。あんな灰かぶり女、見てるだけで吐き気がする」
「じゃあ、なんでこんなに突っかかってくるんだ? どうでもいいだろう、マッカイアのことなんか」
 そのシェルハイマーの言葉に、ゼノンズは舌打ちをした。ちらりと脇にいる黒髪の少年を見遣ったあと、「俺だって知るか」と囁くように言った。
 アイジーは傍観することしかできずに、その光景を見下ろしている。
 どうにかしたいのは山々だが、今ここにいるアイジーに、なにかできようはずもない。当事者にすらなっていないのだから。あの場に自分が割りこんだところで余計に話がややこしくなるだけだろう。ただこうして馬鹿みたいに傍観するしかない。
 本当に、状況は最悪だった。
 あの箒がブランチェスタのものなら取り返さなきゃまずい。あの卑怯な二人のことだ、きっと箒を折るくらいのつもりでいる。いつも舌戦で負けている恨み辛みは、相当のものに違いない。箒を握りしめるその指圧が、深く刺した爪が、それをありありと物語っていた。
「それを返せ!」
 ハッと息を呑むような鋭い声が、遠くから高鳴った。視線をスライドさせれば、棟の奥からブランチェスタが駆けてくるのが確認できる。
 ブランチェスタは、長い三つ編みを振り撒いて、爛々とした緑の目を尖らせている。いつもの、凱歌を口遊んでいるような彼女ではない。焦りに焦ったその姿は怒りに満ちていた。
 その様子にすっかり気分をよくしたらしい。シェルハイマーとハルカッタは嫌らしく口角を上げる。
 ブランチェスタは、ここまで走って二人を探しに来たに違いない。肩を上下させながら怒鳴る彼女は、すっかり余裕をなくしてしまっていた。
「お前らいい加減にしろ! そんな卑怯なことするくらいなら、真っ向からかかってくりゃいいだろうが、この意気地なし!」
「卑怯だなんて心外だなあ、勝手に置きっぱなしにしといて。そっちの不注意だろう?」
「誰のものかわかってるのに盗むやつがいるか! 早くそれを返せ!」
 細っこい腕をぴっと差し出す。
 そのときブランチェスタは、ようやっと、シェルハイマーとハルカッタ以外にも人がいることに気がついた。眉を寄せながらゼノンズたちをじとりと見つめる。


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