ブリキの心臓 | ナノ

1


 どうしたらエイーゼの機嫌が治るだろうか、アイジーはそればかりを考えていた。
 もう随分と暑くなり、多少腕の出す服を選ばなければならなくなったある日のこと。アイジーはゆらゆらとした青いワンピースに皺が寄ることも厭わずに、真っ白い脚を伸ばしたまま《オズ》の連絡橋に座り込んでいた。傍らには一人で食べきれるとは到底思えない個数の桃が転がっている。そのうちの一つをむんずと掴んで乱暴に咀嚼する様は、生まれ持った見目の全てを台なしにしているとさえ感じられた。からっとした風はアイジーの髪を撫でてじんわり滲んだ汗を乾かしていく。日差しはだんだん厳しくなってきたが、アイジーの肌はそれに怯えることなく晒されていた。イズに知れれば小言を言われるであろう暴挙だった。棟を結ぶ連絡橋には現在アイジー以外はいない。手すりを越えた外の真下では何やら人の声が聞こえるが、アイジーには関係ない話をしているのは一目瞭然、いや、一耳瞭然だ。
「……どうしよう」
 果汁を唇から垂らしながら、アイジーは物憂げな眉を吊り上げて唸った。
 アイジーが《カカシの呪い》という呪いの呪解方法を発見したことは、すぐにシフォンドハーゲン家にも伝わった。家にはアイジーの書いた論文が美しい綴じ糸と共に郵送されてきたし、金縁に入れられた賞状は屋敷の壁に飾られたりもしている。解いた呪いがジャバウォックの呪いでなく、どこの馬の骨とも知れない小娘の呪いであることに、きっと三時間にも及ぶ遠回しな非難を浴びせられるんだろうなあと、アイジーはオーザやイズに身構えていた。しかしアイジーの予想に反して、二人はアイジーを責めなかった。――というよりは、責められなかった、というのが正しい言い回しなのかもしれない。二人がアイジーを責めるよりも先に、エイーゼがアイジーに食ってかかったのだ。
 アイジーは、よりによってエイーゼに責められるとは思っていなかったので、それには多少唖然とした。
 そりゃあ“自分のために行く”だのと言っておきながら自分の呪いを解くよりも先に他人の呪いを解いたなんてことを言われたら、あの寛大なエイーゼだって怒りの一つくらい飛ばしたくもなるだろう。過激な怒りではなかったにしろ、アイジーにはきつい一撃だった。折角仲直りできた兄とまた冷戦状態になってしまうのかと冷や冷やしたものだが、その辺りの線引きを出来ないエイーゼではない、我を忘れてアイジーを突き放したりはしなかった。エイーゼの吐き出す怒りには、自分の役に立てない不甲斐なさや切なさで満たされていた――エイーゼが自分を思ってくれているのを知っているアイジーは、悲しみや憤りよりも罪悪感を感じた。だからこそエイーゼに“いつからお前はアンデルセンのお菓子屋の娘になったんだ”、“シフォンドハーゲン邸に一匹、野蛮人が紛れ込んでいるみたいだな”なんていう厭味を言われても、従順に謝ることしか出来なかった。
 しかし、アイジーだって解こうと思って呪いを解いたわけではない。ユルヒェヨンカの件は本当にまぐれだったのだ。エイーゼに責められてもどうしようもない。
 自分の呪いもまぐれみたいに解ければいいのに。
 そんなことを考えながらアイジーはもう一口桃を啄んだ。
「頭でも撫でれば機嫌がよくなるかしら」
 一度試してみるか、と決意してみるも、きっとその行動は無駄となるだろう。単純なアイジーなら、たとえ不機嫌になったとしてもエイーゼが自分に触れてくれるというただそれだけで、すっかり元の機嫌に戻るだろう。しかし相手は自分自身や自分のドッペルゲンガーなどではない。双子の兄のエイーゼだ。アイジーと違って世間の常識に磨り揉まれたエイーゼは、アイジーよりも随分と大人びている。この歳にもなって兄妹が過剰に仲がいいのもスキンシップが過ぎるのも色んな観点からしておかしなことであると認識している。片割れに触れられたくらいで上機嫌になるなんてそんなこと、理性的に考えればありえないことだろう。そしてその理性はエイーゼにもいつの間やら備わっていて――――つまるところ、アイジーの決意した行動は逆効果でしかないのだ。
「それでも駄目だったら死ぬしかないわね……」
 むしろこの一言のほうが効果覿面だろう。
 アイジーは晴天を仰いでぼんやりと目を閉じた。


「――そういえば、今日はちいっとも話しかけてこないわね。ジャバウォック」


 アイジーのその声に呼応するかのように、真っ黒い影がスンと現れた。パープルフリンジしたように神々しく輝いているシルエット――それはすらりとした体躯で、果てしなく黒に近い色の服を纏っている。細い髪は艶のある漆黒で、どんな刃物よりも人殺しき金眼は真っ直ぐにアイジーを見つめていた。優雅な顔立ちをしたその青年は――ジャバウォックは――くすりと楽しげに微笑んで、アイジーを見下ろす。
(これは驚いた。まさか君のほうから話しかけてくるなんてね)
「ずっと一方的に干渉してきたくせにどの口が言うのよ。皮肉を言ったり頭を掴んだり皮肉を言ったり突き飛ばしたり、皮肉を言ったり皮肉を言ったり……サンドバックにでもなったような気分だったわ!」
(ならば、もう少しサンドバックらしく揺られてくれよ。悉く無視してくれた君が言う?)
 肩を竦めるジャバウォックはどこからどう見ても“人間”だった。これがアイジーにしか見えない“呪い”だなんて本当に信じられない。
 夢の中に彼が出てきてから、彼がアイジーに干渉してくることが多々あった。その全てをアイジーは無視していたのだが、まるでからかうかのような彼の行動や言動には正直憂鬱になるものがある。そんなにちょこまかと出て来られるくらいなら、いっそ堂々としていればいいのに。
 目の前に立つ美しい青年を見上げてアイジーは唸るように言う。
「……貴方の姿や声は、私以外の人間には見えないのよね?」
(それどころか、触れることさえ出来ない。僕も、だけど。僕に君だけが干渉できる、つまり僕は君になら干渉できる。こんなふうにね)
 ジャバウォックはアイジーに歩み寄って傍らに屈み込む。アイジーの手首を掴んだかと思えば、彼はあまりにも自然な動作でアイジーの持つ桃を食んだ。
「……私と、私に接触しているものには触れられるってことなのね?」
(その通り)
「その理論でいくと――私が地に足をつけているから、貴方も地面に立っていられる――かしら? 私が空中の散歩でもしたら貴方は存在しなくなるの?」
(そういう仮説を立てられるあたりの聡さには感服するけれど、君はまだ未熟だね。君の愛しい兄弟ならきっと推測出来ただろうに)
 アイジーは少しムッとした。しかしジャバウォックは気にせずに話を続ける。
(君が地面に触れている前に、まず君は空気に触れている。君が触れているものなら、僕は自由に干渉できる)彼はにやりと妖しく微笑んだ。(それにね……忘れたのかい? 僕には元々翼があるんだ)
 飛ぶことくらいわけないよ。
 憎たらしいくらい綺麗に笑う彼に一瞬だけ目を奪われる。金色の瞳はきらきらと、残虐なくらいに光っていた。
「ちなみに、どうして貴方は人の姿をしているの?」
(元の姿に戻ったら怖がるくせに)
「……………」
(まあ、省エネ状態だと思ってくれればいい。姿形は違えど僕があの怪物であることには変わりはない)
 見れば見るほど、話せば話すほど、彼は誰よりも美しい人間らしいというのに、彼は誰よりも人間からほど遠かった。
 アイジーは急に大きく吐息し、目を眇めて、ジャバウォックに問う。
「貴方は……ずっと私の傍にいたのよね?」
(そうだけど?)
「それは私が赤ん坊のときから? ずっと私を見ていたの?」
(勿論。僕はあくまで《呪い》――君と不可分な存在だ、ずっと君を見ていたよ、いつでもね)
「……そう、それは、つまり……」
 まるで一世一代の決心でもするかのような顔つきだった。アイジーはぷるぷると震えながら問い尋ねる。
「風呂に入るときも……?」
(見ていたよ)
 アイジーはくるっと彼に背をむけて連絡橋の壁に頭を擦りつける。シルバーブロンドから覗く小さな耳は隅まで真っ赤だった。肩を揺らしながら首を振るアイジーは荒い息で憤慨する。
「死にたい気分だわ!」
(それ、僕に言うと洒落にならないんだけど)
「ああ、あっ、貴方、もちろん目は逸らしていたわよね!? そ、ん、レディの裸を直視するなんて、まさか、そんな……っ」
(身体洗うときにいつもうなじから洗うのは癖なの?)
「やっぱり見てたのねっ!」
 アイジーとて、立派な乙女である。十五年も邸に籠っていたことを考えれば、出逢う異性など家族か使用人くらいの、少女としては初心そのものである。たとえ呪いとはいえ、見目麗しい青年の姿をしている彼に、自分の裸体を見られていたなど、耐えられようはずもなかった。
 うなだれるように身をよじるアイジーに、ジャバウォックは溜息をついた。
(まだ未熟な身体に欲情するほど僕は飢えてないよ。それに赤ん坊のときから見ていたわけだし……君のおむつからなにまで知ってる相手に、なにを今更……)
「ってことは、トイレのときも見てたの!?」
 エイーゼにも見せたことないのに! とよくわからない非難を浴びせるアイジーに、ジャバウォックは煩わしそうに目を閉じる。その反応さえアイジーは気に食わず、更に甲高い声で彼を詰った。


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