VR
今までの生い立ちなんて思い出したくもない。
男は気を抜くとふと湧いて出る不快感につばを吐いた。
しかしそんなことでこの現実が変わるわけでもない。
母親は男を愛した。
それはそれは、愛情をたっぷり注いだ。
母親の手作り弁当を見た友人からは、パンをかじりながら羨ましがられたのを覚えている。
あの頃はまだ嫌っていなかった。
誇らしくさえ思っていた。
しかし、今はもうそんな感情消え失せた。
刷り込みが、勘違いが、思い込みが、呪いが、解けたともいう。
いっそ夢から醒めなければ幸せだったのではないかと思うほど、もはや男にとって母親は「うざい」だけの存在と化していた。
それはもう、あの時の手作り弁当すら憎むほどに。
そんな男の元に一人の紳士が姿を現した。
男は実家暮らしだ。
そして自分の知り合いではない。
母親の知り合いか?
当たり前のように挨拶をしてくる紳士を前に、男は頭を悩ませた。
「このVRを着ければ、貴方を理想の世界へと誘います」
男の困惑を軽く流した紳士は、自身の目的であろう言葉を続けた。
怪しいセールスか。
ならば何故玄関口ではなく自室まで来ているんだ。
訝しむ感情しか湧き上がらない筈だが、男は紳士の手元の方が気になり、一先ず電話に手を伸ばすのを保留にした。
紳士が手元に持っているのはゴツいゴーグルのようなもの。
存在は知っている。
ゴーグルの内側に映像が流れ、仮想現実を楽しめる機械だ。
持ってはいないが。
「こちらは五感全てをもう一つの世界へと誘う物です。着けたら最後、どっちが現実がわからない程に没頭できるでしょう」
「へぇー」
思いの外、気のないような声が出たが、その反面、男はその機械に興味が集中していた。
リアルなゲーム体験や冒険には興味はなかったが、現実逃避には丁度いいかもしれない。
少なくとも、自分の人生のほとんどの時間を占める母親の顔を見なくて良くなるだけで僥倖だ。
「しかし、裕福な家で適度な距離感の両親のもと何不自由なく暮らす。なんて都合の良いものは提供できません」
紳士が忠告してくる。
幻想ならば好き勝手やりたい、とは思わなくもないが確かに。
なにが適度と呼べるかなんて分かったものじゃない。
今の男からしたら、寝起きにリビングで「おはよう」なんて笑いかけられただけでその母親を疎ましく思ってしまいそうだ。
「このゴーグルの先にあるのは、親に捨てられ孤児として今の年齢まで生きた世界です。まぁでも、乞食ではありません。職は今の貴方のスペックに合わせて改めて探してもらう必要がありますが、壁が薄くて狭くて汚いアパート暮らしからはスタートできますよ」
「構わない。その世界へ行かせてくれ」
紳士の提示した環境は酷く粗悪な人生の設定だった。
ここから成り上がりを目指すゲームがなにかがベースにでもなっているのだろうか。
あるいは富裕層が底辺の人間の生活を興じる道楽が目的か。
いずれにしろ、男は初めから答えを決めていた。
顔が見たくないなら、いっそ顔を知らない人生でいいかもしれない。
幸いパソコンの腕前はそれなりだ。
ドラゴンと魔法が道理の世界でなければ職探しだってそれなりにこなせるだろう。
男は紳士から簡単な説明を受け、渡された書類にサインをした。
紳士に見おろされながら床に横になり、ゴーグルを嵌め、この世界と別れを告げる。
そして男はゴーグルをはずした。
視界の先に紳士はいなかった。
それに見覚えのない天井、隣から隣人らしき人間の笑い声が漏れ聞こえてくる。
起き上がる為に手を付いた床がギシ、と軋んだ。
ざらついた埃っぽい感触が、隙間風が、とてもリアルで男の身に沁みる。
それと同時に「過去の記憶」が流れ込んできた。
この世界での記憶だ。と、紳士から事前に説明は受けていたが確かに。
中々に孤独で虚しい空虚な人生が、さも自身の本物の記憶のように流れ込んでくる。
作り込まれているが所々欠けている感じがまたリアル。
しかしこの世界の一般的常識はしっかり保管されている。
記憶の名を借りた説明書、といったところなのだろう。と男は納得した。
この世界はさっきまでいた世界より少し近未来に思えた。
パソコンの知識が通用するのか、男に一抹の不安がよぎる。
紳士曰く、いつでも「リタイア」は可能だと言っていた。
所詮は作り物の世界。
ゴーグルを外せば現実の世界が戻ってくる、ということだ。
しかし男はあの世界に帰る気は毛頭なかった。
どんなにこの世界がシビアでも、ゲームだと思えば「成り上がり物語」を楽しめる気がしていたからかもしれない。
紳士からは、これだけリアルな世界に没入できるだけあって、自身の判断でリタイアはできても事故や暴漢などに襲われての死亡は脳が勘違いして本当の死亡に繋がる可能性が高いから気を付けろ。とは口を酸っぱくして忠告された。
折角手に入れた新しい世界を手放したくないのだから、そう無茶はしない。と男は笑って返したが。
さて、「説明書」だけでは実感が湧かない。
仕事探しも兼ねて一先ず散歩でもするか。
そう最初の行動を決めた男は、壁が薄くて狭くて汚いアパートの錆びた玄関のノブに手をかけた。
「もしも貴方がまた親を求めるならおっしゃってください。いつでも貴方の理想の世界へ誘ってさしあげましょう」
end
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