それは最大の禁忌


ある日の温かい昼下がり。
美味しそうな香りと共に表れた彼女の手には、銀色のトレー。
トレーの上には、タルトとティーポット、空のティーカップが2つずつ。
ゆるりと浮かべられているその笑みは、何者も魅了するかのように美しい。


『修也』


「、名前」


『タルトを焼いてみたんだけれど…悪魔に味覚はあるのかな?』


「無かったら作ればいい…俺は何度も名前の料理を食べてるからな。
心配要らない」


『そうか、それは良かった』


ふわりと笑う名前は誰よりも美しくて、まるでこの世のものとは思えなかった。
この世の者でない自分が言うのだ、間違いは無い。
いつまでも、この幸せな毎日が続くと信じていた。
けれど終わりは、突然訪れた。


愛していた彼女が死んだ。
語りかけても、何も返してはくれない。
まるで眠っているかのようにその顔は相変わらず美しいのに、白い肌に触れればその向こうから感じられるのは氷のように詰めたい体温。
可笑しいな、彼女も俺の肌に触れる度、『君の体は冷たいね。まるで氷のようだ』と言っていたのに、今ではそれが逆になってしまったのだ。


「名前…」


いつか、こんなときが来るとは思っていた。
悪魔である自分と、人間である彼女。
長い時間を一人孤独に生きる悪魔、短い時間を多くの人間と関わり生きる人間。
あまりにも、生き方も生きる時間も、違いすぎて。
されど彼女の隣は酷く心地よくて、誰にも譲りはしないと、近付く人間全てを追い払っていた。
自分の周りから人間が遠ざかっていくのを、彼女は一体どんな目で見ていたのだろうか。
いや、例えどんな目で見られようとも、きっと俺は人間を遠ざける事を止めなかっただろう。
馬鹿らしいとは分かっている。
悪魔が人間などという短命な生物と恋に落ちるなどという事は、酷く馬鹿げているのだと。
それでも、彼女と過ごした時間は、今までのどんな時間よりも幸せで、愛しくて、切なかった。
いつか離れ離れになる日が来るのだと考えると、切なくて、苦しくて、もどかしくて仕方がなかったのだ。
だからと言って、思いを忘れる為に彼女の傍を離れる事も、覚悟を決めて彼女の死を受け入れる事も出来なかった。
今の自分にできる事は、嘆き悲しむ事だけ。
彼女がそれを望んでいるだろうか?
そう聞かれれば、答えは否。
分かってはいるのだ、こんな事をしても彼女が甦るわけでもないし、彼女が喜ぶわけでもないのだと。
けれどそうするしか他に無いのだ。
きっと今、無理に意識を遠ざけようとしても、虚しくなるだけ。
名前の傍を離れようとしない俺の背後に、一つの気配が現れた。


「…何の用だ、鬼道」


「……」


「、鬼道?」


現れたくせに何も喋ろうとしない鬼道。
俺は仕方なく振り返り、鬼道の姿を捉えた。
鬼道は険しい表情を浮かべていたが、何かを決意したように、口を開いた。


「…禁忌を犯す、覚悟はあるか」


「禁忌…?」


「…一つだけ、死んだ人間を悪魔として蘇生させる方法がある」


「!!」


聞いた事が無い、そんな、人間を、悪魔に…!?


「俺も知らなかったし、知ったときはお前に告げようかどうか迷った」


だが、と遠くを見つめて仕方なさそうな笑みを浮かべる鬼道。
あぁ、こんな笑みを浮かべさせることのできるやつは一人だけしかいない。


「円堂がな…禁忌だとしても、それで豪炎寺。
お前が救われるなら、それは"禁忌"じゃなくて、"救済"だと、そう言ってな」


「円堂が…」


「円堂のいう事には一理ある。だがその方法が、俺たち悪魔にとって禁忌であるという事を忘れるな」


鬼道の言葉が、心に重くのしかかる。
けれど、考えても見ろ。
人間にこんな思いを抱く事自体、禁忌じゃないか。
それについては何も言わなかった鬼道が、こんなにも"禁忌"という言葉を強調するなんて。
さながら、"最大の禁忌"と言ったところだろうか。
俺に迷いは無かった、その最大の禁忌を犯す覚悟など、既に出来ていた。


「…成功したら、俺達にも紹介しろよ?」


「…分かっている」


本当は紹介する気なんて更々無かったが、この方法を教えてもらった以上、向こうの願いを聞き入れないわけにも行かない。
鬼道は、「幸運を祈る」と一言残してその場から姿を消した。


「悪魔が「幸運を祈る」、か」


可笑しな話だと思う。
けれど、今の俺はその可笑しな話に縋るしかないのだ。
もう一度、彼女の声が聞きたい、彼女の体温に触れたい、その瞳に、俺を映して欲しい。
その一心だった。
力なく横たわるその冷たい体を横抱きにし、俺の体に彼女が座るような形で抱く。
あぁ、軽い…まるで人間ではないかのようだ。
彼女が人間ではなく、悪魔としての蘇生を望んでいるかなんて事は分からない。
もし彼女が望んでいなければ、嫌われてしまうだろう。
それでもいい、名前が生きてさえくれるのなら、俺はそれで構わなかった。


「すまない、名前」


俺は、お前のいない世界など、耐えられないんだ。
じわり、と世界が歪むのが分かる。
それは彼女の思いを無視したが故の罪悪感か、それとも、彼女が自分の元へ帰ってくるという事への歓喜か。
自分の気持ちに整理などつかないまま、俺は、彼女の冷えた唇に自分のものを重ねた。
初めての口付けがこんなに切ないものだなんて、想像もしていなかった。
軽く触れるだけで離したが、直ぐに重ねる。
今度は、深く。



豪炎寺…チャンスは一度だけだ
最初は触れるだけ、直ぐに2回目をしろ
その時に、お前の魔力を彼女に流し込め…いいか
拒絶反応が出たら直ぐに止めろ…彼女の体を、壊したくないならな



冷たく潤いを失った舌と、俺の舌が触れる。
嫌でも実感させられた、彼女は、死人なのだと。
最早、鬼道から言われた拒絶反応のことなど頭から頭から消えていた。
唯彼女が、再びぬくもりを取り戻すのを願いながら、無我夢中で唇を重ね続けた。


「(頼む、目を開けてくれ、名前…!)」


ぴくりと、舌に刺激を感じた。
思わず唇を離しそうになったが、鬼道の"チャンスは一度だけだ"という言葉が頭を過ぎる。
まだだ、まだ、彼女は蘇生しきっていない。
震えない睫に冷たい肢体がその証拠だ。
後頭部に添えている手で、ぐっと顔の距離を縮めて、さらに深く。
乾いていた舌が、冷たかった舌が。
潤いを取り戻し、ぬくもりを取り戻して、俺のものと絡められるまでにそう時間は掛からなかった。
くちゅり、と水音が立って、俺から送り込まれた唾液を、名前が飲み込んだ。
ふるりと睫が震えると、涙の膜を張った瞳があらわれる。
苦しげに寄せられている眉に気付くと、もう十分だと胸板に手が添えられた。
一抹の不安を残したまま彼女から唇を離せば、銀色の糸がだらしなく伸びて、ぷつりと切れると彼女の白い顎にそれが垂れる。
傷つけないように優しくそれを指で拭えば、名前は虚ろな瞳を俺に向けた。
ぼんやりとはしているものの、確かに其処に俺が映っていて。
あぁ、彼女は生きている、成功したんだ!
荒い息を繰り返している彼女を力強く抱きしめると、名前は、以前と変わらぬ声と口調で言葉を紡いだ。


『苦しいよ、修也…』


「名前、名前!」


『…どうして、私は…死んだ筈じゃ…』


この問いに答えたら、彼女は俺を嫌ってしまうのだろうか。
大きな不安を抱えたまま、俺は彼女を抱きしめたままに口を開く。
鬼道に教えてもらった事、俺の我侭で名前を蘇生させてしまった事、それほどまでに名前に抱く想いが大きい事。
許されるだなんて、そんな浅はかな事は考えていない。
名前の肩口に顔を埋めたまま、一向に顔を上げようとしない俺の耳に、小さく笑う声が聞こえた。


「、名前…?」


『嬉しいよ、修也』


「!」


『また、君と一緒にいられるなんて』


今度は、ずっと一緒にいられるんだろう?


種族の違いに、流れる時間に切り離される事無く、永遠に近い時間を、共に過ごせる。
顔を上げた俺の頬を優しく包み込んで、触れるだけの口付けを落とす名前。
漸く収まったと思ったのに、世界が再び滲み出した。
けれど、名前の微笑んだ顔は、はっきりと見える。


『愛してるよ、修也』


「俺もだ…愛してる」


もう一度、互いに顔を近付け合って、唇を重ねて。
犯した禁忌を抱えていく事を、愛する人を離さない事を、誓った。



それは最大の禁忌
そして、最大の救済


企画サイト「I want your Kiss」様に提出

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