あの夏の日を忘れない
11
「、忘れ……?」

 俺に伸ばしかけたまま動きを止めた腕。戸惑ったように俺の言葉を反復する円に、やってしまったと口を歪めた。

「なぁ、由……?」
「まど、」
「俺は何を、」
「……ごめん」

 震える声で謝り、円を押しのける。呼びとめる声を無視し、部屋から逃げる。前を見ることもなく、感覚だけでエレベーターホールまで走り抜ける。ぼんやりと光るエレベーターのボタンに飛びつき、カチカチカチと下のボタンを連打する。間もなくして、軽快な音と共にエレベーターのドアが開いた。箱に入り、二階のボタンを押す。扉を閉めるなり、床に崩れ落ちる。

 ぽたり。
 髪がまだ乾いていなかったのか、床に雫が落ちる。
 言えるかよ。一人零した言葉に耳を覆う。誰が、言えるもんか。お前は、父さんの死んだ理由を忘れてるって? お前が、母さんに──、

「……気付かせないって決めただろ」

 それなのに。何で言っちゃったんだよ、馬鹿。
 ぽたり。再び落ちた雫に、のろのろと視線を移す。CDを叩き割った時に指先でも切ったのだろうか。今度の雫は、赤く滲んでいた。





 二〇四の部屋は明るかった。共同スペースのドアを開けると、三浦がキッチンで料理をしているのが見えた。三浦は俺の姿に気付くと、一瞬表情を消した後微笑む。……あ。何かあったって気付かれた。

「……、おかえり」

 もうすぐご飯できるけど食べる?
 菜箸でフライパンをかき混ぜながら言う三浦に、食べると返事をする。

「……俺、人の作った飯好き」
「そう」

 あんま期待はしないでよ、と苦笑する。手元に置いたスマホをじっと見つめ、三浦は小声でレシピを読んだ。ジュウという油の音に、近くに寄ってもいい? と尋ねる。いいよ、という返事に俺は三浦の近くへ寄った。

「焼きそば。塩とソース、どっちの方が好き?」
「……、ソースかなぁ」
「了解」

 火を弱火にシフトし、おたふく印のソースを麺へとかけていく。おぼつかない手つきで顆粒ダシを加え、さっくりと混ぜる。小皿にちょこんと麺を盛った三浦は、皿の中身をぱくりと食べた。

「……? マズくは、ない、」

 気がする。自信なさそうにそう付け足し、三浦は俺の口元に麺を差しだす。口を開け咀嚼すると、ソースの香りがふわりと広がった。

「顆粒ダシとソースもうちょい入れてもいいかも。あとマヨネーズちょっと足すとおいしい」
「分かった」

 三浦はせっせと調味料を足し、再び味見をする。ぱぁ、と表情を明るくした三浦は、俺の口元にも箸を運んだ。食べると、焼きそばの風味が先ほどより濃くなっているのが分かった。おいしいと呟くと、三浦は少し表情を緩め頷く。

「じゃ、飯にしようか」

 焼きそばを皿に盛り、テーブルへ運ぶ。いただきます、と二人で手を合わせもそもそと食べはじめる。食事中独特の沈黙が二人の間に横たわる。

「……何も聞かないのか」
「聞いてほしいの?」
「いや」

 そうだ。いつもの俺ならわざわざ聞かれに行くような真似するはずないのに。らしくもないと苦笑する俺に、三浦は静かに箸を置き視線を投げる。

「聞かれて困る話があるのは、椎名だけじゃない」

 反省に走っていた思考から我に返る。

「……口下手だから上手く言えないけど。俺が情報屋だって知って、利用するでも、変に距離を置くでもなく接してくれる。これって案外貴重なことだよ」

 頬杖をつき、気怠げに話す三浦。ふと視線を落とし、何かを言い澱む。躊躇を誤魔化すようにグラスを指先で弾くと、三浦は再び俺へと視線を投げた。

「椎名。何があったかは聞かない。俺が知ったら、それを売らなくちゃいけなくなることもあるかもしれない。俺はそれをしたくない。聞かない。聞かないけど。俺が、俺が椎名の友達だってことは覚えておいて」

 聞き慣れない言葉に目を見開く。友達? という俺の言葉を、三浦は照れくさそうな顔をして肯定した。

「そう、嫌?」

 つっけんどんな物言いに破顔する。ううん、という言葉は存外頼りない響きを纏っていた。

「俺、友達って言われたの初めてだなぁ」

 俺の言葉に三浦はギョッとしたように姿勢を正す。

「委員長たちは?」
「はっきりとは言われたことないなぁ……。犬とは言われたけど」
「ああ……」
「そっかぁ、友達かぁ……」

 そっか、と繰り返す俺に、三浦は黙って麺を咀嚼した。





(91/212)
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -