あの夏の日を忘れない
9
 屋上で膝を抱えていると、小雨が降ってきた。突然降り出した雨はしとしとと俺の肌を濡らす。ぎゅう、と膝を抱える腕に力を入れ、頭を埋める。ジョエル・R・フォスターと出会ったのも、こんな雨の日のことだった。

「I am sad and sad. Hey I love you, how are you?」(悲しくて悲しくて。ねぇ、僕を愛してよ、なんて)

 路地を包む雨に紛れ聞こえる歌声に、意識を奪われた。一秀はここで待っているようにと、俺をショーウィンドウの下に避難させると傘を買いにいった。一秀がいなくなると俺は歌声に誘われるようにふらふらと路地に彷徨い出た。歌声の前にしゃがみ込むと、ジョエルはちらりと俺を流し見る。

「I don't feel sorry for hope. Who started saying that Wishbone would make a wish come true?」(願ったって叶いやしない。ウィッシュボーンが願いを叶えてくれるなんて誰が言いはじめたんだか)

 余韻に掠れの残る声でジョエルは歌う。痛いな、と胸の中で独白をこぼす。自分のことを歌われているような錯覚。だが俺は直感的に分かっていた。これは、彼自身のことを歌った歌なのだと。一秀が傘を差しこちらに走ってきたのに気付いた俺は、ポケットの中からチップを取り出し、ギターケースへと投げ入れた。

「Crap.」(くそったれ)

 呟き、背中を向ける。なんで屋根の下にいないんだよ、と怒った口調で俺を叱った一秀は、俺の後ろを見ると目つきを鋭くする。

「What are you gonna do?」(どういうつもりだ、クソガキ)

 ジョエルの拳を受け止めた一秀が唸るように問いかける。視線を後ろにやると、ジョエルは俺を憎々しげに睨みつけていた。

「You made me a fool.」(バカにしやがったな)

 吐き捨てられた言葉に、あぁと嘆息する。

「I have not. I just thought it was miserable.」(してねぇよ。惨めだなと思っただけで)

 俺もお前も、とは言わなかった。だがジョエルは俺の言葉の意味に気付いたようだった。

「I see?」(なるほど?)

 呟き、ギターを仕舞い背に背負う。

「My name is Joel R. Foster. Come again,fucking fucker.」(俺の名前はジョエル・R・フォスター。また来いよ、クソ野郎)

 嘲るように笑うと、ジョエルは顎をしゃくり背を向ける。そうだ、と振り返りジョエルは笑った。

「The court is more useful than the umbrella here. It's a misty rain.」(ここいらじゃ傘よりコートの方が重宝するぜ。霧みたいな雨だからな)

 あばよ、と背中越しに手を振るジョエルに目を眇める。

「Thank you for it.」(そりゃどうも)

 この地の天気は変わりやすい。雨はもう止んでいた。







 ぎぃ、と控えめに開いた屋上の扉に視線を向ける。雨に顔をしかめるそいつに、よぉ、と声をかけられる。不快な気持ちを押し殺し、やぁと応える。取り繕った俺の反応にそいつは寂しげに眉を下げた。

「どうしてここに来たんだ、円」
「お前を探してる夏目に会ったんだよ」

 心配してたぞと俺を咎める円に、うるせぇよと小さく反駁する。円は俺が荒い口調で話したことに頬を緩める。荒れている俺と裏腹に穏やかな表情をしている円に苛立つ。

「帰れよ。濡れるぞ」

 鬱陶しさにそう言うも、お前も濡れるだろと返される。言い淀む俺の隣に、円はしゃがみ込む。ほら、と頭に掛けられた上着にジョセルのことを思い出す。無意識のうちに抱えていた封筒を手先でいじると、円は封筒に興味を示した。

「誰からだ?」
「……ジョエル」
「いや、誰だ」

 察しろよ。言いたくねぇんだよ。
 睨みつけたい気持ちを我慢し、頭を上着の中に隠す。顔でも合わせていると碌な事を言いそうになかった。

「……去年イギリスに留学してた時にできた友達」

 正確に言うと留学でも友達でもないのだが。それを知らない円はへぇ、と無邪気に目を大きくした。

「由、留学なんてしてたんだな……」

 知らない間に色んなことしてるなぁ。
 呟く円に、うるせぇよと低く返す。円は俺の反応に不思議そうな顔をする。あぁどうしよう。取り繕えない。情けなさに、グリグリと膝に顔を擦り付ける。円は、俺の望み通り何も知らないだけだろう。なのになんで。なんで俺はそれが無性にさみしく感じられるのだろう。お前だけが楽しそうなのが気にくわない。それなのに幸せになってほしいなんて。なんて、暴力的で、矛盾した願いなんだろう。

「I don't feel sorry for hope. Who started saying that Wishbone would make a wish come true?」

 あの惨めったらしい歌を歌う。俯き震える俺の背を、優しく撫でる体温があった。なんの歌? 俺の八つ当たりを怒る様子もなくただ受け止める円に、苛立ちが増す。

「クソ野郎の歌」
「……、」
「……円」
「ん?」

 俺の頭に顔を寄せ首を傾げる円。俺を雨から隠すように、ぎゅっと上着の上から俺を抱きしめる仕草に眉を寄せる。

「お前の部屋、CDプレイヤーある?」

 そう聞いたのは苛立ちからか。何も知らない呑気な円が少しでも顔を歪めたらいいと。

「ああ、ある、けど」
「お前の部屋でCD聞いてもいい?」

 俺の部屋、CDプレイヤーないからさ。
 俯いたままそう言うと、円は何も聞かずにいいよ、と返事をする。

「その前に夏目に連絡しなきゃな」

 頭の上で悪戯っぽく笑う円に、上着の中で首肯した。屋上の雨は、まだ止まない。





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