あの夏の日を忘れない
1
 七月。体育祭が終わりやってくるのは五月ぶりのテストだ。いつものんびりとした空気の漂っている風紀室は、焦りに顔を引き攣らせた委員で溢れかえっていた。

「漆畑ぁぁぁぁ!!!! ここ! ここ分からんっ」
「神谷ぁぁぁ!!! 教えてッ、無理です教えて下さいぃぃッ」
「嫌だぁぁぁ、嫌だぁぁ……! なんでテスト? 一か月半でそんな聞くことあります?」
「ああ範囲どこぉぉぉ何回見ても同じ範囲だぁぁ……狭く…ならない…」

 阿鼻叫喚である。

「夏目委員長ぉ、ここ教えて下さいよぉ」

 悲鳴じみた叫び声に混じり、甘ったるい声が聞こえる。言わずと知れた宮野である。問題集から顔を上げると、勝ち誇ったような目で青の腕に手を絡ませる。いや、ドヤ顔されても困るんだが。溜息交じりに目を細めると、気付いた青は慌てた様子で宮野の腕を振り払った。

「ちっ、違うからな!」
「何がだ」
「……何がだろう」

 お前に分からないことが俺に分かる訳ないだろうに。青は困惑した表情で首を傾げる。いや、そんな顔されても。
 宮野は眼光鋭く俺を睨みつける。面倒くさい。

 スマホが震える感覚に、画面を確認する。牧田だ。スワイプし、スマホを耳に当てる。

「もしもし?」
『あ、椎名。テスト範囲で分からないのが出たんだけど。部屋に来てくれない?』
「ん? ああ。分かった」

 また後で、と電話を切り、立ち上がる。

「あ゛? 帰るのか」

 声を掛けてきたのは前回と違い風紀の勉強会に参加している二村だ。

「ああ。牧田が勉強で分からんとこあるんだってよ。部屋に教えにいくわ」
「あいつが……?」

 二村は眉間に皺を刻むと、机の上に広げていた勉強道具を片付けはじめる。

「二村?」
「俺も帰る」
「え?」
「部屋の方が静かだし、お前行くなら分かんねぇとこ聞けるだろ」
「うん、まぁ、そうだな?」

 若干腑に落ちないものの、言っていることは正しい。曖昧に頷くと、二村はチ、と舌打ちし立ち上がる。

「行くぞ」
「…おー」

 じゃあ、と手を振り風紀室を後にする。宮野は相変わらず睨んだままだった。



 三〇八を訪れると、牧田は共用スペースのソファに背を預け座っていた。二村の姿を認めると、へぇ、と唇の端を持ち上げ首を傾げる。

「菖ちゃんも来たの」
「あ゛あ゛? 来たってなんだ。帰ってきただけだわ」

 揶揄うような牧田の口調に、二村は目を細め低く答える。

「過保護だねぃ。俺が本気になったから警戒してるんでしょ、菖ちゃん」
「本気?」
「そうそ。俺が椎名をものにするって話」

 何のことだと聞くと、牧田は楽しそうに教えてくれる。それにしても、おかしな話だ。

「牧田が俺のものになるんだろ」

 言い間違いを指摘すると、牧田はハッと楽しそうに息を漏らす。
 体育祭をエスケープしやってきた美容室で、俺は牧田をスカウトした。牧田が今年成績を上げ、来年上位クラスに配属されれば、卒業後牧田を雇うと。断られる可能性も考えたが、牧田はあっさりと頷いた。

『いいよ? お前が俺を欲してくれるなら』
『欲しいから声かけてんだろ。知り合いだから誰でもスカウトすると思うなよ。期待してるやつしか誘わねぇよ』

 お前は本当に俺の欲しい言葉ばっかくれるよねぃ。そう、眉を下げた牧田の真意は分からないけれど。恐らく、自分の家族のことを考えていたのだろう。学校に戻ってきてから勉強に励みだした牧田を見ていれば、彼の中で何かが変わったのだろうということは容易に察せられた。牧田の家族に干渉することなんて、俺にはできない。自分の家族でさえままならないのに、どうして他人の家族までどうこうできるのだ。俺は、何もできない。それでも、牧田が傷つく結果にならなければいい。知り合いが傷つく姿を見るのはごめんだった。

「し〜いな、ここ分かんねぇ」
「習ってるとこは全部理解できてるって言ってたのになぁ」
「ちょっと成績を上げるくらいなら余裕だけど、お前が求めてるのはそんなレベルじゃないんでしょ」

 まぁな、と言うと、牧田はやはり楽しそうに笑う。二村は機嫌のいい牧田に、複雑そうなリアクションだ。

「できる限り上に行けとかいう無理難題でも、応えるよ。俺には、お前のくれたお守りがあるから」

 チャリ、とこれ見よがしに首元のロケットペンダントを摘まみあげる。大切にしてくれているようで何よりである。それに、と嘯く牧田に首を傾げる。

「かっこいいとこ見せなきゃねぃ」

 ちゅ、とペンダントに唇を落とす牧田に苦笑する。

「期待しとくよ」

 ほらよ、と問題集を指しだすと牧田は唇の端をゆるりと持ち上げ、髪を耳にかけた。

「鈍いなぁ」
「今更だろォがバカか」

 二村は呆れたようにソファに背を預ける。

「……負けねぇ」

 低く唸る二村に、牧田は意地悪そうにニヤつく。

「おー? ようやく認めたんだ?」
「ハッ、ここまでハメられたら認めざるを得ねぇだろ」
「まぁねぃ」

 困ったとでも言いたげに俺を見つめる二人に、意味がよく分からないものの居心地の悪さを感じる。

「性質の悪い薬物みてぇな」

 二村はそのきつい印象を与えがちな目元を和らげ、俺を見つめる。そわ、と走るむず痒さに俺は語気を強め勉強するよう促す。ほんと、なんだ、これ。くっと眉根を寄せると、二人は楽し気に頬を緩めた。




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