あの夏の日を忘れない
29
 そういえば先輩は俺たちの関係を知らないのだったと気付き、「漆畑」と呼び直す。橙のむっとした表情は和らぐことなく、顰められたままだ。

「おーい、蓮さーん? 俺はお前のじゃないだろうが」

 威嚇するのやめろ。
 頭に軽くチョップを落とし宥めると、橙はどこが琴線に触れたのかころりと機嫌を直した。

「いい……」
「何がだ」

 妙なスイッチが入ってしまったらしい橙に、なぜここにいるのかと尋ねる。橙は、また目を鋭く細めながら先輩を見つめた。

「今日は親衛隊とお茶会って言ってたから」

 もう俺のいない時に赤を傷つけさせたりなんてしない。

 小さく決意めいたように呟く橙に、苦笑する。もしかして、対談の日の様子から何か勘付かれたのだろうか。思えば、あの日の橙の空気には少し張りつめたものがあった。そう思うと帰れと撥ねつけるのも躊躇われる。

「先輩。こいつも一緒にいていいですか。無理にとは言いませんが」

 おずおずと願い出ると、先輩はにこりと微笑む。

「もちろん、歓迎しますよ。それが椎名さまの願いならね」
「ありがとうございます」

 ふてくされたような顔をしている橙の頭をぐいと掴み、下げさせる。橙は、不服そうな顔をしながらも促されるままに頭を下げた。

「では、椎名さま。参りましょうか。皆揃っています」

 開かれたドアの向こうから息を詰める気配が聞こえた。入るのを躊躇い、橙の顔を見る。橙は促すように浅く頷いた。その目が先日の江坂のように鋭く教室を見つめたのに気づき、俺はそっと体の力を抜いた。

 踏み入れると、ざ、と足をそろえる音。

「「お待ちしておりました! 椎名さま!」」

 入り口からアーチを作るように親衛隊がずらりと並んでいる。皆一様に頭を九十度に下げる姿は統制された軍隊のようだ。思わずうわ、と顔を引きつらせる。橙は対抗心を刺激されたのか俺の肩を引き寄せた。うっとうしい。手を叩くと、不服そうな顔が返ってくる。そんな顔をしても嫌なものは嫌だからな。

「あの、椎名さま、そちらの方は……」

 戸惑いがちにかけられた声に頷き、紹介する。

「こいつは一年の特待生、漆畑蓮。風紀委員だ」
「椎名先輩とは中学からの付き合い。いずれ付き合う予定」

 ツンと澄ました顔でホラを吹かれ、ぎょっとする。横に控えている先輩は、この短時間で橙の言動を理解したようで、隊員たちに「お友達らしいですよ」と訂正していた。橙は不満なのか睨み付けていたが。

「おい、漆畑。付き合うだのなんだのは俺を落としてからにしろ」

 手順ってもんがあるだろうが。
 叱ると、橙は目をギラリと鈍く輝かせる。俺だって、鈍くはない。橙の好意には気付いているつもりだ。

 Coloredの幹部は、俺、青、橙、桃、緑の五人だ。その中で、橙だけが異色だというのは後から入った連中の間でも知れた話だった。桃と緑は、もともと青が率いていたメンバーだった。メンバー、といってもそう大きなチームではなく、たった三人だけのグループだ。青いわく、夜の街に繰り出しはじめた頃、因縁をつけられている二人に出会ったらしく。そこから、街に繰り出す時には一緒に遊ぶようになったそうだ。

 そんなたった三人のチームを助けたのが俺。この四人がColoredの初期メンバーだ。橙は、そんな俺たちにある日突然声をかけてきた。いや正しくは俺に、か。



 好きです、という声に顔を上げる。喧嘩相手を叩きのめしたばかりの体はほんのり気怠い。声をかけてきたのは、黒髪の男だった。夜の街を出歩くには不釣り合いな、お堅い雰囲気を纏った男は、学習塾の帰りなのか制服姿でスクールバッグを肩にかけている。

「お前、何」
「俺は、漆畑蓮。君は?」
「……、椎名、由」

 適当な名前を言おうかと思い、やめる。家の外でも違う人の名前で呼ばれるなんてごめんだった。

「椎名、由……」

 そっか、と噛みしめるように名前を呼ばれる。通り過ぎた車のエンジン音、客引きの声に掻き消されるほど小さかったそれは、いやに耳に残った。居心地の悪さに身じろぎする。そういえばこいつはさっき俺が好きとか言ってなかったか。声の熱っぽさにはたと思い出す。

「お前、何が目的なの。俺に近づいたところでいいことなんて何もないけど」

 得体の知れなさに警戒する俺を、漆畑は困ったように見つめた。

「君のことを教えてって言ったら、また怖がらせちゃう?」
「……うるせぇな」

 図星とはいえ表立って指摘されるのは居心地が悪い。向かい合って立つ俺たちを動かしたのは、俺たちのやり取りに気づきやってきた青の声だった。

「赤、どうかしたか?」
「……別に」
「そいつは?」
「……知らねぇ」

 知らねぇじゃないだろ、と呆れた風の声を無視する。フードを深く被りそっぽを向くと、青はため息をつき面倒事を引き受ける。

「お前は?」
「漆畑蓮。お前らのチームに入れて」

 突飛な申し出を鼻で笑う。学習塾帰りのお坊ちゃんがチンピラのチームに入る? 馬鹿も休み休み言え。嘲る気持ちを露わに、顔を見返す。漆畑は生真面目な表情でまっすぐこちらを見つめていた。

「一緒にいたい」
「……チッ」

 戸惑う内心を隠すように、漆畑に背を向ける。どうしようか迷った風の青の尻を蹴り上げ、ついてくるよう促す。

「赤。いいのか?」
「知るかよ」
「……赤」

 手をクンと引かれ、立ち止まる。後ろを振り返ると、青が口を引き結び俺を引き留めていた。静かな双眼は一切の感情を窺わせることなく俺の瞳を覗いている。

「本当に、いいのか?」
「……」

 チッと舌打ちをし目線を逸らす。逸らした先には、相変わらず生真面目な顔をした漆畑がいた。さっさと諦めて立ち去ればいい。頭に浮かんだ思いつきに、ニヤリと口角を持ち上げ、笑ってみせる。

「おい、漆畑ァ。お前のそのクソつまんねぇ髪を金に染めてこいよ。そしたら、入れてやる」

 できる訳ねぇけど。言い残し、背を向ける。

「分かったッ!」

 まさかあの生真面目そうな男が金髪に染めるなんてどうして思えただろう。後日、髪を金に染め目の前に現れた漆畑に、俺は言葉を失うことになる。約束だもんな? とにやけ面で宣う青に拳を入れ、漆畑をビードロの中に招きいれる。学習塾通いの真面目くんは、こうしてColoredのメンバーとなった。



 ずっと気付いていた。毎日毎日、円と呼ばれて、返事をして。肝心の由は死んだなんてそんな嘘の中で生きていた。嘘に織り交ぜられたほんの少しの真実は、まばゆいほど輝いていて。俺が、気づかないはずがなかったのだ。橙の目はいつだって強く強く欲を宿していたのだから。

「落として、いいの?」
「できるもんなら」

 にや、と笑ってみせると橙はへらりと頬を緩める。

「言ったからね」
「俺は約束を破らねぇよ」
「そうだったね」

 わざとらしく髪を弄ぶ橙に苦笑する。いい加減染めるのをやめたらいいのに、地の色が出るたび律儀に染め直しているのだ。

「気づかねぇフリはもうやめだ」

 くしゃりと、橙の顔が歪む。泣く寸前のような表情。それでもどこか嬉しそうな橙に、やはり俺は酷いことをしていたのだと気付かされる。吉衛先輩のように、ダメならダメだと拒絶すればよかったのだ。気付かないフリなんて、そんな卑怯なことをするくらいなら。

 嫌いと罵る先輩の優しさを思い出し、俺はそっと橙の頭を撫でた。





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