あの夏の日を忘れない
24
 やぁ、さっきぶり。
 ベンチに寄ってくる甲斐に顔を顰める。つれないなぁとぼやく声を無視する。ぎしり。ベンチの軋む音に、甲斐が隣に座ったのだと分かった。

「Tシャツ一枚? 寒くない?」
「……寒みぃ」

 甲斐は「んー?」と声を上げ伸びをする。

「さっきまでジャージ着てたじゃん。あれはどうしたの」

 不思議そうに言う甲斐に内心ぎょっとする。よく覚えてるな、こいつ。

「川に落ちた奴に貸した」
「ふーん。ホント、ぶりっこだよね。お兄さんと重ねちゃった?」

 揶揄う甲斐の足を力任せに踏みつける。甲斐は痛みに息を詰まらせるも、ため息を吐き受け流した。クソ野郎が。苛立ちを紛らわせようと貧乏ゆすりをする俺に、甲斐は自身のジャージを掛けてくる。くたびれたジャージからは甲斐の匂いがする。嗅ぎ慣れた匂いだ。鼻に皺を寄せる。

「タバコくせぇ」

 ジャージの匂いに文句を言うと、甲斐は目を細めこちらを見る。なんだその子供を見るような目は。不満に思い顔を背ける。背後で、ライターのカチリという安っぽい音がする。ベンチ周りの空間を塗り替えるように、タバコの煙がこちらに流れてくる。臭い。鼻を手で覆うと、甲斐はそれを押しのけ無遠慮に鼻を摘まんでくる。睨もうと振り返ると、途端、口を塞ぐように唇を貪られる。やめろ。言おうとした言葉は甲斐の口に飲み込まれた。ハァ、とタバコの煙が流し込まれる。むせるも、甲斐の指は俺の鼻を摘まんだままだ。空気欲しさに、ニコチンに侵された空気を肺に送る。甲斐の喉がこくりと鳴った。意識が朦朧とする。生暖かいものが喉に近い箇所に挿入され、思わずえずく。宥めるかのように空気が送りこまれる。白んだ意識の中、俺は酸素を必死に肺へと送りこんだ。生暖かいものはくちゅり、と音を立て口の中から出ていった。ぺろり、俺の唇を舐め、甲斐は俺から身を離す。

 は、と新鮮な空気を吸う俺の唇を唾液が伝って落ち、地面を濡らす。ぐったりとする俺を、甲斐は労わるように抱き起こした。

「このまま、」

 肺を汚して目も濁らせて、心をくすませて。そうして穢れて捨てられて、俺に堕ちて、ずっとずっと、

「俺だけを見ていればいいのに」

 耳朶を食(ハ)みながら紡がれた言葉に、びくりと背筋を震わせながら嘲笑う。

「きっもいな」
「チッ、まだ元気そうだね」

 甲斐は手当されたばかりの俺の首に親指を押しあて、絆創膏の上から弄る。閉じた傷口が開いたのか血が絆創膏に滲む。そう深くない傷とはいえ抉られるとやはり痛む。俺は舌打ちをし甲斐の手を振り払った。甲斐の目は、振り払われた手を追いかけるように川の方向へと流れていく。

「さっさと消えろ」
「……そうするよ。由のオトモダチにも見つかっちゃったし」

 馬鹿にするような響きを纏った『オトモダチ』という言葉に眉を顰める。甲斐はそんな俺を憎らし気に冷たく見やり、背を向ける。

「じゃ、今度こそ。またね、由」

 甲斐と入れ違いに、カヌーで遊んでいた面々が駆け寄ってくる。澱んだ空間と化していたベンチは、その瞬間表情を変えた。

「大丈夫ッ!? 気が付いたらあの変な人に絡まれてるしほんともー!!!!」
「平気ッ? 怪我は!?」

 あわあわと取り乱す彼らをなだめていると、一人落ち着いていた三浦が耳打ちをしてくる。

「肌蹴てる。あと口元。拭った方がいい」
「あー、本当だ」

 煙にむせたり、えずいたりしたためだろうか。甲斐が俺に着せたジャージは肩の下までずり下がっていた。着直すのも癪だが寒いのも事実だ。肩まで引き上げ着用しなおす。口元をジャージの袖で拭い、ため息を吐く。気怠さを振り払うように髪をかき上げる。甲斐の野郎。好き勝手しやがって。

 花井は、すんすんと鼻を鳴らし、鼻を摘まむ。

「椎名。タバコの匂いがする。これ使って」

 手渡された消臭スプレーをありがたく受け取り、衣服に噴射する。

「鼻が慣れちゃって消えたか分かんないんだけど……消えてる?」
「ん、大丈夫」

 匂いが消えたと太鼓判を押した花井は、俺の全身をじろりと確認し、軽く唸る。目に毒ではあるね、と眉根を寄せる花井に、視線で意味を問いただす。花井はため息を吐くと俺の前髪をくしゃりと混ぜた。

「あんまり人の視線意識しないでいるとヤられるよってこと」
「え、あぁ、そういう……?」

 ないと思うけどなぁ、と独り言ちると、花井は目線をやや下に落とし顔を顰める。面々のズボンの辺りを見やった花井は深い溜息を吐いた。

「そうでもないみたいだけど?」
「おい、ちょっ、見るなって!」
「不可抗力だからッ、違うから!」
「なんも違わないでしょ、変態」

 詰る花井と、慌てる平野と委員長。三浦はそそくさとジャージを脱ぎ、腰に巻き付ける。六月とはいえ、Tシャツ一枚で過ごすにはまだ肌寒い季節である。

「……寒くないか?」
「寒い」

 じゃあ何で脱いだ。
 腕を擦る三浦は、俺の視線に答えることなく微苦笑した。





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