あの夏の日を忘れない
44
 耳朶を飾る赤い石。指先で触れると荒ぶる心は自然と凪いだ。青は緊張しているのか口元がやや強張っている。開いては閉じる唇に、そのまま何も言わないでほしいと強く思った。

「夏目。俺は椎名由だよ」
「? 分かってる。気を付けるさ」

 うっかり赤と呼ばないように、という意で捉えたのか。……そういう意味じゃなかったんだけどな。任せろと笑う青に苦笑する。好きだ、なぁ。

「夏目。聞かせて?」
「もちろん」

 胸が痛い。痛い、痛い、痛い。
 背中を火傷した時だってここまで痛くはなかった。微笑みを浮かべた顔の裏を暴いてくれたらと思う一方で、知られたくないとも思う。こんなにドロドロとした感情を俺が抱いているなんて、知るだけ気分が悪くなるだけだろう。
 ふと観客席に視線を投げると、入り口付近に円の姿が見えた。よっと手を上げる兄は、俺の出した結論に気付いているのだろうか。迷いを振り切るように頭を振り、青に向き直る。

「中一の時、初めて会った時から好きだった」

 気付いたのは最近だけど、と付け足す青に唇を噛みしめる。

「……俺はお前のことが嫌いだったよ。お前だけじゃなく、皆が皆幸せそうで憎たらしかった」
「そっか」
「あのままずっと嫌いでいれたら楽だったのに」
「それは寂しいな」

 何も考えず全てを拒絶し、憎み続ける。そんな在り方も選択肢としてはあったのだろう。それを俺の存ぜぬままに捨てさせたのは、あの日能天気に風邪かと心配した目の前のこの男なのだ。ああと二村に同意する。確かに、これは最悪だ。どうしてお前を好きになってしまったんだろう。報われないと分かっていながら好意を抱き続けるなんて、俺にはできない。俺は椎名で、お前は夏目だ。跡取りだ。なぁ青。頼むから、

「椎名、俺は」

 俺に告白しないでくれ。

「お前が好きだよ」

 心臓が捩じ切れそうだ。
 痛い。体が冷える。血液の流れが止まったような気がした。指先がピアスに伸びる。
 大丈夫。大丈夫だ。今までだって上手に嘘を吐いてきた。覚悟を決めなくてはならない。青をこれから先ずっと騙しきる覚悟を。自分さえも騙して、嘘を吐いたことさえ忘れてしまうことを。青が好きだというこの気持ちをなかったことにする。
 できる筈だ。何度自分を殺してきた? 今度だってできる。俺は殺し慣れているし、殺され慣れている。その筈だ。

 長い息を吐き、感情を飲み下す。パチン、頭の中のスイッチを切る。演技をするのだ。今から俺は赤ではなく椎名由になる。ただの椎名、椎名由だ。椎名グループの跡取り息子の椎名由。

 ――忘れろ。
 夢だったのだ。今ならまだ引き返せる。ただ友達だと思っていたと笑って嘘を吐け。嘘はお前の十八番だろう?

 耳朶のピアスを弄ぶ。
 ほら。

「ごめん夏目。俺はお前のことをそういう目で見たことはない。一切ない」
「あか、」
「俺は椎名だよ、夏目」

 言っただろ。

 窘めるために笑うと、夏目は目を見開いて口を噤んだ。

「俺も夏目も男だろ……。悪いけどさ、そういう対象には見れないよ」

 嘘だ。

「俺はお前のことは好きじゃないし、」

 嘘だ。

「これからも好きになることなんてないよ、一生」

 嘘だ!

 胃の奥から何かがせりあがる。喉がすっぱい。もう終わりかなと小首を傾げると、夏目はのろのろと頷き、マイクを司会に返す。ああ、気持ち悪い。頭がぐらぐらする。
 頭痛か、最近はなかったのにな。

 司会が場を締め、舞台袖からステージを降りる。

「赤、」
「どうした、漆畑」
「……、なんでもない」

 言葉を飲み込む漆畑に珍しいことがあるものだと思う。いつもなら、いや。もういいか。『いつも』のことなんて。

「椎名……、なんで夏目を振ったの」

 瞳を揺らして問う牧田におかしなことをと独り言ちる。指先でピアスを弄る。

「なんでって、さっきも言っただろ。好きじゃないから」
「嘘だねぃ」
「なんで俺が嘘を吐くんだよ」
「……自分に聞けばいいじゃんか。すぐに答えてくれると思うけどぉ?」
「意味わかんね」
「ほんとに?」

 嘘。

 殺しきれていない自分に気付きイライラとする。うるさい、うるさい、うるさい、

「うるさいな」

 ――あ。

 漏れ出た本音に動揺する。違う、こんなこと牧田に言うつもりじゃ、

「……椎名。八つ当たりは別にいいンだけどねぃ? テメェに嘘ついてるお前は許せねぇ。何のために俺たちはフラれたんだよ。これじゃ応援するフリさえできねぇだろうが。ふざけんなよ」

 牧田が怒ってる。どうしようと思うのに表情は俺の意を介さない。ニコニコニコニコ馬鹿みたいに笑っている。ああそうか、うまく殺しきれたんだ。
 安心した。よかった、これで俺は椎名として生きることができる。頭痛ももう感じない。喉だけは先の名残でまだ変な味がするけど、それも口をすすげば済むことだ。

「好きな人なんていないんだから仕方ないだろ」
「……お前、なんかおかしいよ」

 俺の返答に怒気を沈めた牧田は、奇妙なものを見るような目でこちらを見つめる。いや、みたいなじゃない。正しく変なものを見ている目だ。なんだかおかしい。無性に笑える。

「生憎と元からだ」

 クスクスと笑って客席へと続くドアに手をかける。端を通り出口へ向かうと、手すりにもたれる円と目が合った。

「おいで」
「……、ん」

 差し出された手に右手を重ねる。
 円は講堂を抜け、中庭を抜け、寮へと歩く。生徒会長の自分の部屋まで連れてきた円は、ほらと俺をベッドに押し込んだ。

「もうちょい右に寄って」

 言葉通りに右に寄ると、隣に円が潜り込んでくる。ベッドはセミダブルの大きさだが男子高校生二人が寝るには少し手狭だ。

「疲れたな」
「……うん、」
「寝ちゃいな」
「ん、……抱きしめて」
「仰せのままに」

 円が俺を抱きしめる。狭いベッドの中で馬鹿みたいだ。円の胸で顔を隠す。服が濡れるのに気づいていただろうに、円は何も言わなかった。






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