あの夏の日を忘れない
25
 あなたの苦しむ顔が見たいんだ。

 悪びれもせず言われた言葉にハッと息が漏れる。動揺する俺を見て、越は満足げにゆるりと笑む。

「なんでそんなこと言われてるのか分からないって顔かな? 分からないよね、そうだよねぇ」

 一歩、越が歩み寄る。警戒に体を強張らせると、越はちらりと写真を見せる。青と橙の写った例の写真だ。

 ぴくり。
 指先が跳ねる。また一歩、越が寄る。その場を動かずじっと耐える俺に、越はへらりと頬を緩めた。愉悦の滲む顔。唇の狭間から犬歯が覗く。

「ぁあァ、うん。あの人の言ってた意味が分かる気がする」

 意味の分からないことを独りごちた越は、また一歩近寄った。僅かに肩が揺れた。耐える俺に顔を寄せ、耳元で呟く。

「綺麗な物を貶めるのは気分がいい」

 気配が笑う。直後、腹に衝撃が走った。まともに食らい、体がくの字に曲がる。酸っぱい味が口に広がり、びちゃりと床を濡らした。ハハ、と笑った越の足が肩に迫る。衝撃を逃がそうと一瞬身構え――結局はまともに食らった。変わらず持たれた写真に、身動きが取れなくなったから。

 さして喧嘩慣れしていない蹴りでも、痛いものは痛い。辛うじて立っていた体が傾ぐ。ぐらりと顔から落ちた。水音。不愉快な匂いが鼻を突く。気分が悪くなり、また吐いた。越は愉悦の滲んだ顔で、倒れた俺の腹を蹴る。二発、三発と続くそれに、唇を噛みしめる。呻き声を出したくなかった。暫く嬲った越は、不意にスマホを取り出す。焚かれたフラッシュに写真を撮られたのだと気付いた。

「今からヤりますとかでいっか」

 メールでも送っているのか。スマホを操作する越が軽く告げる。混濁した意識が浮上した。ヤる? ……俺を?

 編入当初は意味の分からなかった言葉も、今なら分かる。散々周囲に忠告されて、誘われて、……目の当たりにした今なら。

「……趣味が、わるい」
「そうかな。有象無象にちやほやされてる君だよ? なかなかいい趣味してると思うけどな」

 ねぇ、と同意を求めるように視線を投げる。返る声に、越の他にも人はいたのだと思い出す。お可愛らしい如何にも親衛隊然とした生徒もいれば、上背がある者までまばらだが、それら全ては越の仲間なのだろう。

「越の親衛隊」
「やだぁ、僕たちはただ偶然ここにいた一般生徒ですよ」
「そうそ。たまたま弄ってたスマホで動画とか撮っちゃうかもだけど」

 下卑た笑い声が嘲笑う。ズボンの後ろポケットをバレないように確かめる。スマホの感触。

 ……助けてほしいな。

 思った自分に気づき、苦笑する。助けてほしいだなんて、馬鹿か俺は。そう期待して誰も助けてくれなかったのに、性懲りもなくまた期待している。
 馬鹿だな。本当に馬鹿だ。精々、暴力止まりだろうと思っていたのだ。色を求められるなんて想定していなかった。予想していたら……どうしていただろうか。考え、目を瞑る。
 考えるまでもない。分かったところで、やはり俺は来ただろう。かかっているのは、青と橙の、仲間の学園生活であり、今後の生活なのだから。

 意識を切り替える。
 そうだ。理不尽に嬲られるなんて慣れている筈だろう。痛みを、苦しさを無視するなんて容易いことだろう。
 俺が俺だということを、忘れてしまえばいい。全部全部忘れて、別人になってしまえばいい。

 目を開ける。

 ――ほら。
 世界はこんなにも希薄だ。






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