あの夏の日を忘れない
54
 母さんと二人きり。食事の用意や洗濯をしてくれていた畠は俺が親戚を使って追い出した。畠のいない今、椎名を遠戚に預けていては潰えてしまうのはそう遠くない未来だ。

 つまるところ俺は、母さんと二人で生活しながら椎名をコントロールしなければいけなかった。

 母さんの症状は日に日に重くなっていった。元の母さんの面影なんて微塵もない。馬鹿みたいに後悔しながら、俺は何食わぬ顔で日常を送り続けた。間違っても問題のある家庭だと周囲に悟られる訳にはいかなかった。

 毎日中学に通ってはいたものの、友達らしい存在なんてできなかった。どこかおかしいと気付かれているのだろう。どれだけ清潔にしたところで遠巻きにされてしまう。誰かに話しかけられることなんて殆どありはしなかったし、俺も話しかけることはしなかった。たった一人のイレギュラーが現れるまでは。

「やぁ、椎名くん」
「……、」
「あ、俺のこと知らない?」

 なぜか囲んできた女子から逃げた屋上。きぃと錆びた扉の軋む音に顔を上げる。目の合った彼は俺がいるとは思っていなかったようで、慌てて何かを背に隠しにこやかに笑ってみせる。
 そう、確か名前は

「甲斐樹」
「っ、知ってたんだ」

 にこやかに口角を緩めていた甲斐は、途端笑みを消して俺を見る。甲斐はにこやかな笑みを浮かべている同級生だった。困っている生徒がいれば人助けをする。人当たりが良く、成績も良いため他推で学級委員になっていた。人気があるのか、女子に話しかけられている場面を目にしたことがある。普段人の名前なんて覚えていないが、甲斐は別だった。存在のやかましさゆえに嫌でも頭に入ってしまう。
 
 無表情の甲斐は冷酷な雰囲気を纏っていたが、それこそが彼の本質であるかのようにしっくりときた。この顔を見れば普段のにこやかな表情が胡散臭く見えてくるから不思議だ。

「椎名くん、人に興味なさそうだから知らないかと思ってた」
「……まぁ、そうだけど」

 俺の返事に、甲斐は口元に笑みを乗せる。
 そっか、じゃあ特別だ。
 蛇の獲物を狙うような雰囲気を纏った笑みに、ぞわりと寒気が走った。

「椎名くんはなんでここに来たの?」
「……囲まれたから」
「あぁ、それで。椎名くんモテるしね」

 何言ってんだこいつ。モテるとかいうのはこいつの方だろう。おかしなことを、と眉を顰める俺に、甲斐はきょとんとする。蛇のようなそれを引っ込めた甲斐に、さっきから色んな表情を見てるなと思う。

「モテてるのに気付いてないのか」
「……遠巻きにされてることは気付いてるけど」

 それをモテると言うのはあまりにも嫌味だ。目を眇めると甲斐はくっと喉を鳴らす。

「お前はなんで来たんだよ」
「俺〜は、タバコ」

 なんと言うか迷ったのか、間延びした口調で答える。ズボンの後ろポケットからひしゃげたタバコの箱を取り出す甲斐に、そうかと言う。

「……で、吸ってもい?」
「勝手にしろよ」
「どーも」

 手慣れた手付きでタバコに火を点けた甲斐はふぅと紫煙を宙に吐く。

「椎名くんは何も言わないんだ?」
「何もって?」
「タバコは体に良くないとか、未成年だとか、思ってた奴と違っただとかさ」

 スパー、と煙が漂う。煙臭いなと思いながら口を開いた。

「……言ってほしいのか?」
「いや」
「ならこれでいいだろ」

 壁に背中を預け、宙を見る。甲斐の吐いた紫煙がゆるりと空を曇らせる。

「ま、確かに」

 小さく同意した甲斐はにやりと口元を緩めた。

 ◆

 きぃ、とドアの開く音。顔を上げることなくぼんやりとする。母さんの症状は更に重くなっていった。母さんを病院に行かせてないのは自分のくせに、怖いなんて馬鹿な話だ。こんなどうしようもないことばかりしているのに誰も叱ってなんてくれない。母さんに円と呼ばれるたび、自分が死ぬ気がした。良い成績でも取ってくれれば由、と褒めてくれるかもと期待した。良い成績でも褒めては貰えないと気付いた俺は、低い成績を取ることにした。由ならもっとできたはずなのにと怒られた。

 由は俺なのに、俺に負けると怒られる。多分母さんは怒る理由が欲しいだけなのだと気付いた瞬間、勝負事が怖くなった。怒られたくなければ、俺は俺に負けてはいけないのだ。

 苦しかった。その内、楽になる方法を覚えた。要は自分を由だと思うから苦しいのだ。他人事として物を見てしまえば、俺の置かれた状況はそう苦しいものではなかった。

「     」

 ぼんやりとしていると、甲斐の口が言葉を紡ぐ。薄い膜を隔てて見える景色はやはり他人事だ。視界の端に映る甲斐は、苛立たしげに眉根を寄せる。手に力の込められる。殴られるのかな。見慣れた仕草に、きっと甲斐もそうするのだろうと。そう、思ったのに。

「……っ?」
「ふーん? 案外反応しないね」

 唇の温かい感触に指を乗せる。今、何が。
 一瞬、甲斐の顔が近付いてきて、離れていった……ように見えた。それで、それから唇に何かが押し当てられて。

 困惑した状態のまま、甲斐の顔を見つめる。初めて話した時のように甲斐はやぁと言った。

「やっとこっち見たね」
「……何だ、あれ」
「何って、キス」

 しゃあしゃあと言い放つ甲斐に、驚いているこっちがおかしいのかと思った。唇にまだ感触が残ってる気がする。信じがたくて未だに唇を触っている俺に、甲斐はにやりと笑みを浮かべる。

「なぁに? またシてほしい?」
「? っ、」

 否定するより早く、甲斐は唇を押し当ててくる。咄嗟に逃げようとする俺の頭を引き寄せ、甲斐は唇を貪る。顔を間近に寄せたまま、甲斐はぺろりと俺の唇を嘗める。口の端から唾液が垂れていたらしい。再び唇を合わせてきた甲斐は、俺の口に舌を挿れてくる。

「〜〜ッ?」

 なんで他人の口に舌を挿れるんだよ。

 意味の分からない甲斐の奇行に目を瞠る。ようやく見せたリアクションに、甲斐はうっそりと目を細めた。

「ん」

 甲斐は自分の舌を指さしながら何かを言いたげに俺を見る。舌を出しながらん、なんて言われても意味が分からない。意味が分からなすぎて怖い。目を瞑って舌を逃がす。知らぬ間に腰が引けていたのか、甲斐は俺の腰を抱くように引き寄せる。口の中で必死に舌を逃がすも、狭い口内ではそう逃げる場所もない。絡めるような舌の動きに、ぞくりと背筋が震えた。

「っふ」
「声漏れてんの? やーらし」

 ぴちゃ、と口の中で音がする。びくりと身を縮めると、甲斐は俺の体を腕で拘束する。身動きが取れない。怖い。身じろぎをする。ぴちゃぴちゃと相変わらず水音は続く。段々と苦しくなってきた気がする。

「息。鼻でしなよ」
「っは、」

 喉がひくりと上下する。言われたとおりに鼻で呼吸してみると苦しいのが遠ざかった。酸素が回ったのか、頭が働きはじめる。はたと、甲斐の学ランを掴んでいる自分に気付いた。コイツのせいで苦しいのに何コイツに縋ってんだ。そう思うと何だか急に腹が立った。
 舌を噛んでやると、甲斐はくぐもった声を出す。離れた甲斐の唇から、つぅと唾液の橋が伝った。

「あ゙ー、痛ぇ」

 甲斐が喋ると橋はぷつりと切れる。甲斐は唾液に濡れた唇を手の甲で拭う。

「……で? 椎名くんは何でまたそんなに塞ぎ込むようになっちゃったワケ」
「別に」
「何で言わない? 椎名くんの話聞いて俺が何かするとでも?」

 外面だけはいい甲斐のことだ。言いふらしたりはしないだろうし、俺を助けたりもしないだろう。

「……母さんが、心の病気で」
「あぁ、だから最近生傷が絶えないのか。なんで? 他に家族は? 誰も助けてくれないの?」
「……助けてくれたよ」

 俺が裏切っただけで、皆助けようとしてくれた。その手を拒んだのは他でもない俺自身だ。

「ねぇ、なんで? 椎名って兄弟いるの? そいつは?」
「……双子の兄貴ならいたけど」
「死んだの?」
「……生きてるよ」

 死んだのは俺の方だ。

「っていうか椎名くん双子だったんだ。お兄さんの名前は?」
「……円」
「椎名円?」
「……うん」
 
 微妙に痛い所を突かれて言葉が詰まる。

「で? なんで椎名くんがそんな状況に置かれるワケ。なんでそのぼんくら達は助けてくれないんだよ」

 助けてくれたと言っているのにいつの間にか助けてないことになっている。相手をするのが面倒になってきて、思わず黙り込む。

「おーい、椎名くん? ちょっとー?」

 口調だけは優等生の名残が残っているものの、表情はひどく凶悪だ。俺の無反応にしびれを切らしたらしい。ぐいと襟首を掴み、再び顔を寄せてくる。

「もっかいされたいの?」
「……死ね」
「あーあ。威嚇しちゃって怖いね」

 ちゅ、と唇が一瞬触れる。
 眉を顰め、舌打ちをする。もうコイツに話してしまおうか。事情を知ったからと心配するコイツではないし、何より何もしてこないから下手な心配もない。言ってしまった方がかえって楽な気さえしてきた。

「……一度しか言わねーからな」
「聞かれて嫌、とかないの」
「……嫌?」

 嫌って、なんだっけ。
 また、薄らと皮膜が貼られる。他人事めいた思考はその答えを出してくれない。

「……ま、いいけど」

 再びぼんやりとしはじめた俺の頭を叩き、甲斐はゆるりと紫煙を吐き出した。
  





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