あの夏の日を忘れない
53
 母方の親戚である桜楠ではなく、俺が預けられることになったのは父方の椎名の家だった。椎名は桜楠と違い、祖父と父の二代で大きくした企業だ。昔から細々と経営していた中小企業を大きくしたため、歴史だけはあるが、大企業としての格はやや桜楠に比べ落ちる。

 とまぁ、何が言いたいかというと、椎名の親戚は祖父・父のワンマンゆえに会社を求める輩がいるという話だ。こうして家を出ないと立ちゆかなくなるまで碌な交流をとっていなかった程度には才覚の落ちる残念な人ばかり。それが俺の預けられた家だった。

 強欲で浅はか。扱いやすいことこの上ない。
 
 椎名の親戚を唆し、畠相手に裁判を起こさせた。争点は俺の母、椎名由衣の処遇についてだ。
 畠は椎名が大きくなる以前から仕えている使用人の一族。椎名と同じく歴史はあるものの、彼らの家が強いかと言えばそれは微妙だ。いくら本家筋ではないと言え、使用人筋の家系に財力が劣ることはない。

 すなわち。ある程度正当な理由と優秀な弁護士さえ手に入れれば、分家が畠に裁判で負けることはまずない、ということだ。
 
 いくら彼らが亡き父に熱く信頼されていたとはいえ、母を病院へと送り込む権利までは有していない。畠は、俺と母さんを正当な権利の元引き離すべきだったのだ。それを抜かった。よもや俺が裏切るとは思っていなかったために。

 無論、頭の弱い親戚連中が本心から母さんの入院に難点を示していた訳ではない。彼らの目的は椎名において力を得ること。本家を守る畠の力を少しでも削げればそれでいい。本家を乗っ取ることができればなお良い。
 
「由くん、よかったねぇ」
「うん。――ありがとう」

 裁判に勝ち、母さんは俺たちの家に帰ってきた。一緒に母さんと暮らしたいと言えば、馬鹿な親戚はあっさりと許可を出す。母さんが精神を患っているということは知っていても、それがどのような症状でどの程度の重さか、彼らは全く知らなかったのだ。五月病のようなものだと思っていたのだろう。裁判を弁護士に任せきるから何も知らないままなのだ。まぁ、俺がそうするように誘導したのだが。

 遠戚のおばさんは、俺の子供らしい願いの成就が嬉しいのか、人好きのしそうな笑みを浮かべる。内心で嘲る自分を自覚しながら、俺は彼女の理想の通り、子供らしく笑ってみせる。涙で目を潤む様に、俺の心は冷えていく。

 人が良い。性格が良い。裏表のない。嘘を吐かない。なんて素晴らしいんだろうな。でも、でもさ。たったそれだけで一体何を救えるっていうんだ?

 病院から無理矢理退院した母さんは、未だかつてない最悪な状態だった。投薬も中断されたために精神状態の乱れが顕著だ。恐らく別れの日に見せたあの状態は、母の振り絞った最後の正気だったのだろう。

 親戚のいなくなった後、母さんに話しかける。俯いた母さんは表情が読めない。俺の勝手に、怒っているのか。いや、これは……。
 
「かあ、」
「……円」

 予想はできていたのに、衝撃は大きかった。
 先程嘲りを浮かべていた自分自身に、俺はそっと毒を吐く。

「……人が悪くて、裏ばっかりで、嘘つきで? 結局、それだけ手を尽くしても誰も救えやしないくせに」

 ハハ、と乾いた笑いが浮かんだ。大きな家に二人きり。

「怖いものが来ちゃうよってな」

 最近読んだ本の台詞をそらんじる。遠戚のおばさんの与えてくれた本なのだが、俺をいくつの子供だと思っているのか女児向けの絵本だった。魔王に攫われたお姫様は、助けに来てくれた勇者に言うのだ。怖いものが来ちゃうよ、と。

「……私があなたを守りましょう」

 なんて、勇者は答えたけれど。
 そんな奴いる訳ねーだろ。馬鹿が。
 





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