あの夏の日を忘れない
47
 俺は多分、天才というやつだったのだと思う。やろうと思えば何でもできた。そんな俺が孤立しなかったのは、ひとえに円がいたからだ。

 競争と言って何かと勝負を挑んでくる理由を俺は知っていた。円は本来おっとりとした性格で、勝負事をそう好んでいる訳ではない。俺が何でもできることで退屈していたから、円は俺のために勝負を挑んでくれたのだ。次第にその比重が楽しいから、に偏っていったとしても、俺はそのことに救われていた。
 
 俺と比べると凡人である円が、俺のために努力していることを知っていた。俺の方ができるのに、たった数分の違いで生まれたのに、俺を弟にしてくれる円が好きで、憧れていた。俺にとって円はひっくり返しようがないほど兄貴だった。「にぃちゃん」と呼ぶと円が嬉しそうに顔を緩めるのが恥ずかしくて、悔しくて。ちょっとした反抗から円と呼び捨てた。少しは面白い反応を見せるかと期待したのに、円はへら、と嬉しそうに笑うのだから拍子抜けだ。
 
 もう少し違う反応であったら俺も止めただろうに、小さな子供の反発を愛おしむようなリアクションを見せるものだから、悔しくてついついタイミングを見失ってしまった。

 後から分かったことだが、母さんがおかしくなったのはお腹の子が原因だったらしい。まだ性別も分からない、「妊娠の兆し」に過ぎないものだったようだが、父さんを亡くした後に流産を確認したのはかなりの痛手だったようである。

 当時は分からなかったが母さんは流産の確認をきっかけとして鬱を患っていた。亡くした二人の遺体がないというのも大きかったのだと思う。父さんの遺体は海流に攫われたことで発見できず、胎児に至っては碌に体すら形成されていなかった。月のものと一緒に流れただろう二人目の遺体は、母さんに静かにトドメを刺していた。

 あの人がいなくなっても、お腹の子は無事に産まなくては。

 そうした気持ちをも殺されてしまったのは想像に難くない。財産の整理や契約関係の引き継ぎ。忙しさで相談できる相手と距離を置くことになった。孤独で、父さんが恋しくて、子供を殺してしまった罪悪感で、母さんの思考はぐにゃりと歪んだ。

 円のせいだと。そう思ってしまったのだ。

 各々が自分の傷に向き合うのに精一杯で、気付かなかった。愛してると、父さんがいなくなっても俺たちが守るからと、そう一言でも言えば違っただろうに。

 初めは一日の内の僅かな時間だった。
 自分でもどうしようもない瞬間があるのか、なんなのか。その時間だけ、母さんは円を絶対悪だと思い込んだ。手を出し、傷ついた円に、正気に戻った母さんは泣いて謝る。その繰り返し。隠されているその事態に遭遇したのは幸いだった。

 円を守る。できない筈がないのだ。できて当たり前なのだ。だって俺は天才で、何でもできるのだから。

「円……ッ」
「な、に?」

 だから、この母さんの問い一つで俺が傷つくなんて嘘だ。錯乱状態の母さんなら見分けられないだろうと分かった上で円に俺から寄せているのだから、分かってくれないと嘆くのは我が侭だ。

「由、顔色が」
「だいじょうぶ」
「でも、由」

 大丈夫だ。
 円が俺の名前を呼んでくれる限り、俺は頑張ることができる。近頃は母さんから折檻を受けなくなった円は、徐々にその表情の豊かさを戻していった。再びころころと変わるようになった表情に、俺はまた一つ大丈夫だと呟く。俺の頭をするりと撫でた円は、ん? と不思議そうに首を傾げる。

「……由、ここたんこぶできてる」
「っ、こないだぶつけちゃって」

 どきりと強張る内心を隠し、へらりと笑う。円の表情を意識したそれに上手く騙されてくれたのか、円はまた一つ首を傾げてから頷いた。

 円に伝わらないようにしないと。
 油断でもすれば、円に俺の感情が伝わってしまう。俺たちはお互いの感情を汲み取ることに長けているのだから。急に読み取れなくなった内心に兄の訝しんでいるのが分かったが、悟らせる訳にはいかない。

 何をしても、俺は円を守るのだ。

 円を守るための心の支えとして、父の最期の言葉を幾度も幾度も思い出した。それが心の支えから俺の行動を制限する枷に変化したのはいつからだっただろう。今となっては思い出せない。
 





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