あの夏の日を忘れない
30
 気になる。非常に気になる。ちらりと隣を伺うと、秋山に手を振られる。微妙な気持ちになった俺は、視線を逸らし、ホワイトボードに向き直った。『議題:出店の条件』というワードが頭の中を上滑りする。駄目だ、全く集中できない。内心溜息を吐くも、隣からの熱視線が止む気配はない。心底うっとうしい。青、と静かに呼ぶ。

「どうした」
「トイレ行ってくる」
「おー。ドア出て右だ。会議進めとくぞ」
「分かった。助かる」

 ぎぃ、と扉を押し、トイレへと向かう。トイレに着いた俺は、ぼんやりと小便器の前に立ち尽くした。正面の鏡には、げんなりとした自分の顔。中学時代を思わせる表情に、大分キてるなと自覚する。

「ほんとに何なんだ、アイツ……」

 会議の最中、やたらと秋山の視線を感じた。最初の内は気のせいだと思っていたが、確かめるたび目が合うのはやはりおかしい。既視感のある類のそれに、不気味さを感じた。秋山の気配に引っ張られつつある自分に苛立ち、舌打ちをする。

「まずいな」

 道中いろいろとあったからか。それとも海に近いからか。今日の俺はかなり弱っているらしい。気分を入れ替えようと、顔を洗う。頑張ろう。鏡に映る自分の顔は、やはりどこかくたびれていた。
 外に出ると当の秋山に鉢合わせた。

「あ」
「……おー」
「あれぇ、もう帰っちゃうんですかぁ? 残念」

 うわぁ。
 間違いない。こいつ、俺のことを性的に狙っていやがる。初対面で口にしていたあの言葉は、冗談ではなかったということか。引いた顔をする俺に、秋山はうっそりと笑う。

「副委員長が帰るならぁ、俺もか〜えろっと」
「いや、俺に構わず用足して行きなよ」

 咄嗟に、猫を被った。自分でもなぜそうしたかは分からない。ただ、そうしなければと思ったのだ。にこ、と笑って言う俺に、「猫を被らなくてもぉ」と秋山がじゃれつく。ええい引っ付くな。

「秋山くん、離れて」
「なんで急に猫被っちゃうんですかぁ」
「……被ってないよ。秋山くん、ほら、離れて」
 
 ね? と笑う俺に、秋山はもぉ、と独りごちる。分かってくれたと思ったのは一瞬。尻を撫でられる感触に、説得が失敗したことを悟る。ねぇ、副いいんちょ? 甘えるような声。頭の中で警鐘が鳴り響いた。じり、と後退する。秋山は楽しそうに歩を進める。眼差しはやはりアイツに似ている。だからだろうか。俺の中で、時間の流れが巻き戻るのは。

「俺ねぇ、綺麗な人が好きなんです」

 秋山は、聞いてもいないことを話し出す。

「先輩見た瞬間に、お相手おねがいしたいなぁって」

 また一歩、距離が近づく。抵抗しなければと分かっているのに、錯覚を覚えた脳が、体に気怠さを訴える。何もかも投げ出したいような、そんな。じりじりと近づく秋山は、俯く俺の顎を掬い上げた。

「ねぇ副いいんちょ? いいでしょ?」

 場所が、甘ったれるようなその口調が、ここは違うと俺に告げる。それなのに、どうしてだろう。状況があまりにも似通っているからか。ねとりとした雰囲気が、俺の時間を巻き戻す。

「セックスしましょ」

 秋山は、俺の手を引きトイレへと舞い戻る。個室に入り、鍵をかけられたのを、ぼんやりと霞みがかった頭で理解した。ああ、これはまずいな。すごく、まずい。

「……やめて」
「まだ猫被ってるしぃ」

 指摘に直感する。この猫かぶりは、俺の最後の防波堤だと。これを崩してしまえば、本当にあの頃と何も変わらなくなってしまう。だからこそ俺は咄嗟に意味をなさない猫かぶりをしたのだろう。自身の制御でいっぱいいっぱいの俺に気付くことなく、秋山は俺を便座の蓋に座らせる。俺のズボンを、秋山はあっさりと寛げた。いけないと頭の奥では分かっているのに、心が、体が追いつかない。何もする気になれない。もうどうなったところで構わないと、思考が俺を手放しはじめる。

「副いいんちょー。つまんないから反応してよぉ。全部脱がしちゃうよぉ」
「……、……っ」

 ああ、頭が痛い。その感覚すら懐かしい。……めんどくさいな。したいなら、勝手にすればいいじゃないか。自暴自棄な思考が頭をもたげる。秋山の手が下着を取り上げようとするのを、他人事のように見る。空っぽの体を壁に預けようとし――聞こえた声にハッとした。

「椎名〜っ!」

 青の声だ。帰りが遅いから心配してやってきたのだろう。理解した瞬間、跳ね起きる。秋山が個室のドアに体をぶつけたようだが気にしてなどいられない。下着とズボンを上げた俺は、扉をバンと開け、外に飛び出す。もつれる足で廊下へ飛び出す。転びかけた俺の体を、青は当たり前のように受け止めた。

「あお」
「……、赤」

 呼ぶと、青は表情を変える。

「あお、」
「……何があった?」

 答えることができず、ただ首を振る。もどかしさにぎゅうと抱きつくと、青は戸惑いながらも抱きしめかえす。

「……赤」

 困ったような青の声。徐々に思考がクリアになっていく。背中を撫でる青の手に、ほぅと息を吐いた。

「……あたま痛い」
「夕飯食べたら、頭痛薬でも飲もうか。片岡さんに言って出してもらおう」

 コクリと頷く。開け放たれた窓から、潮の匂いが入ってくる。頭痛の悪化するのが分かった。
 





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