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(あった……!)
僕は壁にかけられた懐かしい表札に、ほっと胸を撫で下ろした。
***
「幼馴染との結婚が決まった。
だから僕は実家に戻る。
悪いけど僕のことはもう忘れて。」
「そんな……!」
あまりにも一方的な別れ方だった。
強張った顔をした彼女を残し、僕はこの部屋を後にした。
だけど、あの時はそう言うしかなかったんだ。
きっかけは田舎の母親に悪い病気がみつかったことだった。
その数年前に父親を亡くし、母の面倒をみるのは僕しかいなかった。
彼女にそのことを話せば、きっと一緒に田舎に行くといってくれたと思う。
だけど、そんなことをしたら彼女を苦しめることになる。
彼女は、つい最近、やりたかった仕事を任されるようになったばかりだということもあった。
そのために、彼女がどれほど努力を重ねて来たかを僕はよく知っている。
母の介護は、これから先、何年かかるかわからない。
治療費もかかるだろうから楽な生活だってさせてはやれない。
そんな大変な生活を彼女にさせられるはずがなかった。
だから、僕は嘘を吐いた。
彼女を傷付けることはわかっていたけど、別れることが彼女のためだと思ったから。
それから二年後…母はあっけなく逝ってしまった。
思っていた程大変なこともなく、こんなことなら彼女に正直に話せば良かったと僕は後悔した。
このまま通院していれば、それなりに長生きしてくれるのではないかと思った矢先…母は逝った。
急なことで、しばらくは心の整理が着かなかった。
慌しく過ぎていく日々の中で、思い出されるのは彼女のことばかりだった。
何度も連絡しようと思った。
だけど、あんなひどい別れ方をしてしまった手前、今更そんなことは出来ない。
そんな心のせめぎあいを僕は何度も繰り返し、そして、更に一年が過ぎた頃、ようやく僕の心は決まった。
「明日、彼女に会いに行こう。
許してもらえなくたって良い。
あの時の事情を話し、彼女を傷付けたことを心から詫びるんだ。」
***
(どうしたんだろう?)
彼女は留守だった。
「ユキ、いないのか?」
扉越しに声をかけたら、隣の扉が開き、見知らぬ中年の女性が顔をのぞかせた。
「あなた、吉村さんのお友達?」
「え…ええ、まぁ……」
「吉村さん、昨夜、この先の交差点で事故に遭ったのよ。」
「えっ!」
僕は近くの警察署を訪ね……そして、彼女が即死だったことを聞かされた。
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