113、茹だる延髄


無事にリトルガーデンを抜けた翌日の朝。
麦わらの一味と王女ビビを乗せたメリー号は、晴天に照らされた大海原を緩やかに走行していた。この海域は春島の夏のもの。心地の良い春の気候に合わせて、夏の日差しが時たまのぞいている。きっとこの天気も長くは続かないのだろう。航海士はマストの前で腰を下ろし、火照った身体を感じながら空を見上げていた。

「みんな! おれはな、いつか絶対エルバフに行く!!」
「よおし!」
「「きょっきょっ、巨人♪」」

昨日からずっとこの調子なウソップはルフィと肩を組んで自作した巨人の歌を歌っている。もうこの流れも10回以上は繰り返している。彼らの生き様がよっぽど心に響いたのだろう。仲間のそういった部分を見るのは嬉しいことだが、限度と言うものがある。ナミはうんざりしながら右舷で騒いでいる二人の背中を見つめる。

「…元気ねえ、あいつら。はあ…」

騒がしさではなく、体のだるさからくるため息をこぼしてナミは手の中におさめている永久指針を見つめた。メリー号はきちんと針のさす方向へと進んでいる。その熱っぽいため息に引かれてビビは目の前に座っているナミに顔を上げた。

「ナミさん?」
「…何だか昨日のでどっと疲れが出たみたい…」
「大丈夫?」
「ええ、平気」

にっこり微笑むナミにビビもならいいけど…と柔らかく微笑んだ。その間にもルフィとウソップはまだ歌詞を作って歌い続けている。彼が海賊の船長だなんて…。やはり信じ難い事実にどうしてか心がほぐされていくようだ。




「きょっきょっ巨人! エバフバフ♪ みんなでかいぞ巨人だし♪ 黒くて太くて大きいぞーー♪」

「ったくなんだ、この下品な歌は」
「うふふっ、」

二人の愉快な歌声はラウンジ内にも届いていて、サンジはおいおい、レディーがいるんだぞ。と呆れて煙草を吹かした。彼の隣に立つのはアリエラだ。無理を言ってお手伝いをさせてもらっているのだ。
「えっ!? アリエラちゃんにお手伝いなんてさせられねェよ、ゆっくり好きなことしててくれ」とあたふたされたけれど、お菓子作りは元々好きで、細かい作業は大好きだから「おねがい」とおねだりしてみると、彼はメロリンを見せず、顔を赤く染めてうわあ…とこぼして頷いてくれたのだった。

「アリエラちゃん、タルトの上にフルーツを乗せてくれるかい」
「ええ」

ニコニコと笑みを浮かべて丁寧にフルーツを乗せていくアリエラの横顔を、サンジは作業しているふりをして盗み見ていた。スイーツ作りは芸術に似ている。と謳われることがあるが、彼女を見ていると確かにそうだ。と頷かずにはいられない。カットしたフルーツの丸みや角、大きさや色などを頭で考え計算して乗せて行っている。アリエラはきっとこの作業が好きなのだろう。瞳はキラキラと輝き、生き生きしている。その姿を見て、昨夜のナミとの会話を思い出した。
『アリエラは本当に誰にも恋なんてしてないのよ。だってエトワールだっていうのにあんなにも無垢なのよ? そんなの恋したことないからに決まってるじゃない』

「…本当に無垢で綺麗だな…」
「…え?」
「え…? あ、いや…口に出ちまってた?」
「うん…。ふふ、わたしのこと?」

心の中でつぶやいたはずはずなのに、どうやら声にしてしまっていたらしい。驚いた目をしてこちらを見つめるアリエラと目があって漸く気がついたサンジは慌てて煙草を肺に送った。危ねェ…そんなキミが…なんて言わなくて本当によかった。ドキドキする胸を押さえながら、でも嘘はつきたくないから大きく頷いた。

「アリエラちゃん、本当に綺麗な光を持ってるなって…」
「えへへ、こんなにも素敵なサンジくんにそう言っていただけるなんて…嬉しいわ」
「本当に本当のことだよ。だからつい…口に出ちまったみてェだ」
「うん、ありがとう」

サンジのことは本当に素敵な男性だと思っている。すごく常識があって、紳士で誰よりも優しい人。だから本心で口にしたのだが、彼はナミたちに見せるようなメロメロの一切を封印してしまったかのように誠実に受け取るからまたアリエラの中で違和感が塒巻いた。優しいタレ目はより優しさを潜めているし、慈しむようにこちらを見つめているから嫌いなんてことはないだろうけど…。

「変なこと言ってごめんね。さあ、もうすぐ出来上がりだ。そろそろ紅茶を淹れようか」
「うん…」

灰皿に煙草を押しつぶして火を消したサンジは新鮮な水を汲んでケトルを火にかけた。
もしかして、わたしがエトワールだったから気を遣っているんじゃないかしら…!
“もう一つの可能性”はリトルガーデンの時に慌てて消したから、残る正当な理由はこれだろう。アリエラは眉を下げてサンジの背中をそっと見つめた。

サンジの思い、違和感も気になるけれど、それよりも今はナミのことが気がかりだ。今朝、目を覚ました時、ナミの顔がいつもと少し違っていることに気がついた。少し熱っているのに顔色が悪いのだ。
「大丈夫?」と聞いてもナミは「平気平気」とからりと笑って服を着替え始めたから、アリエラもそれ以上聞かなかったけれど…。

「わたしのは後ででいいわ、サンジくん。先にナミとビビちゃんに渡しにいきましょう?」
「え、いいのかい?」
「うん。ちょっと、気になって…」
「…ナミさんのことだろ?」
「わ、サンジくんも分かったの?」
「あァ。顔色がいつもと違ったから朝食もナミさんのは刺激の少ねェものにしたんだが…どうしちまったんだろうな、ナミさん」
「ね…聞いても大丈夫っていうの。ナミは人に心配かけたくない子だから…わたし、そばにいるとどうしても心配しちゃって…だからサンジくんにお手伝いを頼んだの、ごめんね」
「ううん。アリエラちゃんは優しいもんなァ…。よかったら、またぜひ誘ってくれよ。アリエラちゃんがお菓子作りしてェならおれは大歓迎だ」
「えへへ、嬉しい。ありがとう、サンジくん」
「あ、いやあ…」

にこって笑うアリエラにサンジは息を止めて耳を赤く染めてしまった。煙草を咥えていたら床に落としてしまっていただろう。危ねェ…、ホッとして、でも察せられるのは困るために彼女に背中を向けた。アリエラは特に気にしていないようで、ポットに顔を近づけて茶葉の匂いを愉しんでいる。そんな横顔も本当に無垢で綺麗で。可愛いなあ…と頬が緩んでしまう。胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけて心のむず痒さを誤魔化し、レディー専用のティーカップを棚の奥から取り出した。


午前10時を過ぎると太陽も煌めきをより増してくる。いつもなら心地よく感じる太陽光が今日は忌々しく思えた。ああ、顔が熱い。頭が痛い…。

「……悪いけどビビ、指針見ててくれる?」
「ええ」
「これで無事にアラバスタへ帰れるわね」
「…ええ」

ナミから永久指針を受け取り、涼しい色の中に閉じ込められたゆらゆら揺れる指針を眺めながらビビは大きく頷いた。サンジの計らいにより、バロックワークスの追手はもう来なくなったし、肝心のアラバスタへの指針も入手してどこか肩の力が抜けたようだ。先日よりもずっと穏やかな表情で眺めるビビにナミも瞳を細めて「まあ、」と続ける。

「航海が無事に済めばの話だけど?」
「ええ。必ず帰らなきゃ…」

あの日、全てを終わらせるためにイガラムに問い詰め持ちかけた大胆かつ勇敢な王女の戦い。
その全てをはじめる前に宮殿の一室でイガラムと強く約束を交わしたことをもう一度、胸においてみる。
『今や国民たちに王の…あなたの父上の顔は効かない。あなたの口から国民に真実を告げるしか暴動を鎮める手段はない…。だから決してあなたは死んではならない。たとえ、周りの犠牲を払おうとも…人を裏切ろうとも生きねばならない。辛いことです…。ビビ様、死なない覚悟はありますか?』
今は亡き、イガラムとの約束、誓い。国を救うために残された唯一の光がビビだという残酷な現実は本人も痛いほど分かっている。

「必ず生きてアラバスタへ……」
「…そう力むことはないさ。ビビちゃん」

ぎゅうっと永久指針を握りしめて、瞳に強い意志を閉じ込める。今まで楽しそうに歌ってた二人組も真剣な顔してビビを見つめていた。一刻も早く帰って真実を伝えなくちゃ…。小さな肩をブルリと震わせていると、ふと前方から綺麗な革靴とヒールの足音と穏やかな低音が鼓膜を揺らしてゆっくりと顔を持ち上げた。

「おれがいる」
「そうよ、ビビちゃん! サンジくんはとおっても強いから何にも心配いらないわ。もちろん、わたしたちもいる」
「サンジさん…アリエラさん、」

綺麗な金色を揺らして笑う二人にビビもつられて強張っていた表情をほぐした。

「本日のリラックスおやつ、プチフールなどいかがでしょうか。アリエラちゃんと一緒に作ったんだ」
「ああ…あんた、姿がないと思ったら…キッチンにいたのね」
「ええ。気分転換にサンジくんにお願いしちゃったの」
「紅茶もコーヒーもどちらもおやつに合うようブレンドしてます。お好きな方をどうぞ」
「ありがとう、サンジさん」
「いえいえ

可愛らしい小さなタルトたちを受け取って、ビビはもう一つをナミに手渡す。ナミはビビの手から遠ざけてお皿を受け取った。常温で管理しているはずの白いお皿がとても冷たく気持ちよく感じる。ああ、ちょっとまずいかも…。

「ね、ねえ。ナミ、」
「なに?」

ずきんずきん痛む頭を押さえて、笑顔を取り繕うナミにアリエラは言葉を引っ込めてしまった。これ以上、この心優しき王女に余計な心配をかけさせたくないのだ。ナミの気持ちもよく分かるし、アリエラだってビビには何の心配もして欲しくない。だけど…そんな辛そうなナミを放っておくのも…。

「うおおおお! うまそおお!! サンジぃ、おれらのは!?」
「てめェらの分はキッチンだ!!」
「あら? アリエラさんの分はないの?」
「ええ。私もキッチンでいただこうと思って」
「そう。今日は若干蒸し暑いものね」

紅茶を一口啜ってビビが優しく微笑む。アリエラは笑顔で大きく頷いたが、ここにいるとナミに余計なお世話をかいてしまいそうだから、キッチンにいたいのだ。「それではごゆっくり」サンジの優しい声にはたとして、アリエラはシワひとつないスーツを追っていく。

「ふふっ美味しそ

笑顔でふわふわな金色を見つめているビビの隣で、ナミは頭を押さえて呼吸を荒くしていく。もう、目も霞んできて全身が焼けてしまうほどに熱くなってきている…。どうしよう…、落ち着かせるために一口紅茶を飲んだが、何にも味がしなかった。


「2603…2604…、ッ、2605、」

朝からずっと休憩なしで船尾甲板で500キロもあるダンベルを振っていたゾロは、ずっと己の未熟さに奥歯を噛み締めていた。
あの蝋さえ斬れてりゃ…誰を手間取らせることなかった…ッ、甘ェ…もっと強くならにゃ…あんなものどんな態勢でもぶった斬れるように…ッ!
激しい息を吐き、大量の汗を流しながら己を鍛えているゾロの体調も気がかりで、アリエラはラウンジの前で方向を切り替えて顔をひょこっと覗かせた。

「ゾロくん、休憩はいかが?」
「…ああ…またキリがいい時に行く。お前が作ったんだろ、食うから残しとけ」
「ふふ、うん」

大きな背中が抱いているのは大きな野望。そのために一切の努力を惜しまない。その姿勢がとってもかっこいいと思う。私もあんな背中になりたいなあ。なんて思って、ラウンジの方へ戻っていく。

「…ビビ、ごめん。私ちょっと部屋で休むわ」
「ええ。進路は私が見ておくからナミさんはゆっくりしてて」

波を眺めながらケーキを綺麗に切り分ける。これはきっとアリエラさんが作ったのね。とフォークに乗せると、バタン、と甲板が大きな音を立ててはっと振り返ってみる。甲板に横たわっているのは今さっき立ち上がったナミだった。全身は真っ赤な上に大量の汗を掻いて苦しそうに肩で息をしている。

「ナミさんっ!! なんて酷い熱…、みんな来て! ナミさんが!!」

珍しいビビのつんざくような声とその内容にラウンジでおやつを食べていたルフィたち四人は激しくドアを開けて甲板に顔を覗かせ、ゾロもダンベルを振りながら頭にはてなマークを浮かべた。ややあって、「ナミッ!!」「んナミすわああん!!??」とアリエラとサンジの叫び声が海原に響く。ルフィたちの足音にもビビやアリエラの声にも反応を見せないナミは、息をするのさえ精一杯なように見えて…。真っ赤に火照っている額に手を当てて驚愕したアリエラの指示の元、サンジがナミを女子部屋に運び、彼女の状態を探ることにした。


TO BE CONTINUED 原作130話-78話



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