112、女神の審判


「っはーーーーッ ナミすわ〜ん! アリエラちゅわ〜ん! ビビちゅわーん! おまけ共〜! 無事だったんだね〜! よかった!」

茂みから現れたのは、バロックワークスの残党ではなくサンジだった。
彼は広場に出て、オレンジ、ローズブロンド、水色の頭を確かめるとすぐに表情をとろけさせた。煙草からもくもくのぼる煙はハート型。相当嬉しかったのか、手は小鳥の羽のようにパタパタ動かしている。

「よー! サンジー!」
「わあ、サンジくん可愛い〜」
「お前。そんなこと言うからあいつ調子乗んだよ」

まるで小さな男の子のようなくすぐったさが胸に触れたから、感情のままこぼしたらゾロにむっすりされた。彼はきっと嫉妬をしているんだ。そう察知して剣士さんにもまた可愛さが膨らんでいく。
きゅん、としているアリエラに比べてウソップとカルーはまん丸な目をつんと尖らせてサンジにじわじわ近寄っていく。

「あんにゃろ! 助けもしねェで今頃のこのこ現れやがって!」
「クエーッ!」

ずんずん近づいてきたウソップとカルーに顔を向けようとしたとき、彼らの背後に見たこともないほどの巨体を持つ戦士が二人いて、あまりの驚愕にサンジは目玉を飛び出させた。

「うおおおお!? なんだこいつら! お前らがMr.3か!?」
「え、ちょっと何であんたがその名を知ってるの?」
「そりゃ──うほうっ ナミさん、君はいつもなんて刺激的なんだ

対峙していない敵の名を口にしたサンジに疑問に思ったナミが問うたが、シャツが焼け焦げたせいで素晴らしいプロポーションが剥き出しになっているため、真っ先にそこに反応したサンジはドキンと胸を鳴らせ目をハートに鼻の下を伸ばした。

「殴られたい?」
「まあまあ。その姿じゃ風邪引きますよ、おれのジャケットでよければどうぞ」
「ありがとう…」

刺激的かつあまりの色気にくらりとしそうになったが、こんなジャングルの中で女性を下着姿のまま居させるのは紳士として見過ごせなく、メロリンをすぐに止めて自分のジャケットをナミの体にかけてあげた。少し肌寒かったナミも素直にお礼を告げて、ジャケットに袖を通した。

「ねえねえ、サンジくん。本当にどうして知っているの?」
「ん……あ、アリエラちゃんまで…」

答えが知りたくてアリエラもかけよって見たが、晒されているくびれたお腹と布が短いためいつも以上に盛り上がって見える胸元にサンジはまた目をハートにするよりも、メロリンすら忘れて頬を染めていた。だって世界中の女性を愛している中、唯一恋慕を抱いてる女性だからだろう。分かりやすい反応にナミもあら?と疑問に抱く。

「アリエラちゃんも服が…。おれのシャツでよければその上から着てくれ」
「やだ、大丈夫よサンジくん。私は寒くないから全然平気! ありがとう」
「本当にいいのかい?」
「うん、本当に大丈夫よ。優しいわね」
「そりゃあもう…アリエラちゃんのためならおれは何でも差し出します
「……アホ」
「あァ!?」

真摯に振る舞う姿や、その愛が癪に映ったゾロがついボソリとこぼすと、サンジもタレ目をつんと尖らせてゾロに突っかかる。そりが合わないのに惚れた女性が一緒な二人。今にも一触即発してしまいそうな雰囲気だったが、今はそんなことをしている暇はない。

「やめなさい!!」
「ウッ、」
「はいっ

ナミのゲンコツが落ちて二人の衝突は免れた。もう一度、サンジに問うと彼はポケットから煙草を一本取り出して、火をつけながらしなやかに岩の上に腰を下ろした。

「おれはたった今までMr.0と電伝虫で話をしてたんだ」
「えっ!? サンジさん、ボスと話を…!?」
「あァ。ジャングルの中におかしなアジトがあってな。あいつ、おれのことMr.3と思い込んでたみたいだったから、みんなのことはもう始末したって言っといたぜ」
「じゃあ…私たちは死んだことになっているのね…」
「さすがサンジく〜ん! 頭がキレるわね!」
「いやあ〜 アリエラちゃんたちに喜んでもらえて何よりさ」
「とりあえず、これで追っ手の心配はないわけね」

そこには大きな喜びを感じるのだが、それでもまだ重大な問題は消化されないままだ。サンジへの怒りもすっかり消えたウソップが腕を組んで、困ったように爪先をとんとんと地面に打ちつけた。

「やっと追っ手はが来なくなったが…肝心なおれたちがここを動けないなんて〜ッ…、」
「動けねェ? まだこの島に用事があんのか?」
「サンジくん、あのね…実は…」
「なあに? アリエラちゃん。せっかくこういうもんを手に入れたんだが……」

スラックスのポケットから永久指針を取り出してみんなに見せると、カルーからゾロまで一列に並んだクルーがサンジの手元を見つめたまま、あまりの出来すぎた驚愕にあんぐりと口を開けた。それはもう、顎が地面にまでつく勢いで。

「え……何?」

まさか全員にこれほどの反応をもらえるとは思っていなく、呆然と首を傾げると、サンジの穏やかな低音に誘われるように全員真っ白だった意識を取り戻した。

「「アラバスタのエターナルポースだーーッ!」」
「わあ、やったわ〜ッ!」

365日の滞在の予定が本日出航に変わり、みんなじわじわ広がっていく喜びを身体で表していた。ルフィとウソップは何度もバンザイし、ナミとアリエラはお互いぎゅうっと抱きしめあって喜んでいる。ゾロは口元を弛ませて腕を組んでいるだけだが、この中で一番喜びを感じているビビは目尻に涙を溜めてサンジのぎゅっと抱きついた。

「ありがとう、サンジさん! 一時はどうなることかと…ッ」
「いやいや〜…どー…どーいたしまし…テヘ そんなに喜んでもらえるとは……」

砂漠を思わせる花の香りがふわりと香ってサンジはだらしなく表情を蕩けさせた。そんなにもログが深刻な問題だったとは…。

「お〜し、みんなで煎餅パーティーだ!」
「きゃー! 私も混ぜて〜!」
「…ガキくせェ」

ルフィとナミが仲良く煎餅で乾杯をしているのを見て、アリエラの心もウキウキしたのだろう。エトワールとしてこの世の女の頂点に立ったアリエラの本当の姿は17歳と年相応で微笑ましいものである。エトワールの時は貴族たち、上流階級を相手にしてきたらしいから、さっきのMr.3の口ぶりから察するに随分と気高い素振りで相手をしてきたのだろう。

「ほい、アリエラ」
「ありがとう」
「ん? あ、もう三つしかねェぞルフィ」
「なにィー!?」

慌ててウソップの持っているせんべい袋を覗き込んだルフィだが、本当に三つしか残っていなかった。まだ行き渡っていないのは、ゾロとサンジとビビ。だけど、ルフィとウソップはもう食べてしまったから2枚足りないのだ。

「そんなことしている場合じゃないわよ! 行くわよ、キャプテン。ぐずぐずしてる暇はないの!」

煎餅を食べ終えたナミは、意識をこちらに戻してパーティーしようとしているルフィたちを叱責する。一刻もはやくアラバスタにつかないとならないのだ。岩に腰を下ろしていたゾロが立ち上がり、サンジの横を通り過ぎると彼も指に挟んでいた煙草を咥えて立ち上がった。

「あ、そうだ。お前」
「あ?」
「狩り勝負は忘れてねェだろうな?」
「あァ。それならおれの勝ちだ。こんなでけェサイを獲った」
「サイ? そんなの食えるんだろうな?」
「あったりめェだ」

早く獲物を比べてどちらがデカいか勝負をつけたい。その上で、女神に審判をも。二人は勝負につられてみんなよりも先にメリー号へずんずん歩いていく。

「狩り勝負…?」
「狩り勝負…」

その単語がなぜかとても引っかかる。ブロギーとドリーは心の中でつぶやいて頭を傾げるが、引っ掛かりは拭えぬままだ。

「じゃあ、丸いおっさんに巨人のおっさん! おれ達いくよ」
「ん? あァ。急ぎのようだな」
「残念だが止めはしない…国が無事だといいな」
「ええ。ありがとう!」

ルフィと二人で出会った時からこぼしていたビビの言葉をしっかり聞いていたドリーは、優しい瞳を彼女に向けた。彼の温もりを受けたビビは笑みを浮かべて大きく頷く。

「じゃあな〜! もう死ぬなよぉ〜!」
「師匠! おれは絶対にいつかエルバフへ行くぜ!」
「さようなら〜、お二人とも! お元気で!」

ブンブン手を振りながら、ルフィとウソップ、アリエラは先ゆく仲間の背中を追っていく。
「見てろ、絶対おれの獲物のが上だ!」「ハッ、言ってろ」
サンジとゾロは相変わらず言い合いながら二人肩を並べて歩いているから、アリエラは少し離れた後ろで本当はとっても仲がいいんじゃないかしら?と首を傾げていた。


もう、一味の影が引いた頃。黙って彼らの後ろ姿を見つめていたブロギーがそっと口を開いた。

「友の旅立ちだ」
「あァ。西の海には魔物がいる」
「ドリーよ。貴様、傷は?」
「なに。死にはしまい」

騒がしさが消えた、静寂の中で二人の低い声が交互に響いた。そばに横たわっている武器を目で撫でて、西の海岸にいる魔物を脳の中で浮かべてみる。

「この斧もお前の剣も寿命だな」
「未練でも?」
「そりゃああるさ。100年以上も共に戦った斧だからな。だが、あいつらのためなら惜しくはない」
「決まりだな」

二人、大きな大きな身体を立たせて最後の武器を握る。目指すは、魔物の潜む西の海岸。友の旅立ちを見送るために、ゆっくりと歩んでいく。



「どうだ、おれの方が上だ!」
「どう見てもおれのトカゲの方が上だろ!」
「てめェの目は節穴か! おれのサイの方が遥かにでけェ!」
「なに言ってんだ、てめェ! おれのトカゲの方が体長はでけェぞ!」
「いいじゃねェか〜。どっちもうまそうだ」
「「てめェは黙ってろ!!」」
「ありゃ?」

メリー号に帰船したのはいいものの、まだ出航はできないでいた。狩り勝負を続行中のゾロとサンジがまだ陸で言い争いをしているからだ。ドン、と並べられているのは二人の倍の体長と横幅のあるサイとトカゲ。頭から尻尾まで並べてみると、長さはサンジの方があるけれど、体格はゾロの方がずっしりしている。

「あんたらいつまでやってんの? どうせ全部は乗らないんだから必要な部分だけ切り取って出発するわよ!」
「はあ〜い、ナミすわぁーん!」
「なあ、アリエラ。どう見てもおれの獲物の方がでけェよな」
「あッ! てめェなに抜けがけしてんだ! おれのトカゲの方がでけェよね、アリエラちゃん!」

この勝負の決定権は二人が惚れている女神、アリエラにあるのだが…本人はナミと新しいお洋服──ナミは水色のサマーニットでアリエラがブルーホワイトのワンピース──を着替えて甲板に出てから、ウソップとビビの隣で不思議そうに彼らを見下ろしていた。突然意見を求められて大きな蒼をパチパチさせた。

なんとなくゾロとサンジの心情を察して「アリエラ、お前の答えがあいつらのプライドにかかってんだぞ」…と言いたくなったウソップだったが、それをゴクリと飲み込んだ。

「アリエラ!」
「アリエラちゃん!」

ごくりと息を呑んで、女神の審判を待つ二人。ああ、彼女の愛はどちらに…。なんて、大袈裟なことを考えながらじいっと見つめていると、アリエラは綺麗に赤く彩られた唇をそっと開いた。

「…私、」
「「おう!」」
「…どっちも食べたくないわ。美味しくなさそう」
「「な…ッ、!!」」

これは大きさと味を賭けた勝負。まさか自分に決定権があるなんて思ってもいなかったアリエラの答えがあまりにもバッサリしていて、二人はギョッとした後にうなだれた。女神にそんなことを言われるなんて…。でも考えてみれば、女の子がサイやトカゲの獣臭いお肉を好むわけはなく頷けた。ルフィはアリエラの言葉に「じゃあアリエラ!肉おれにくれよ!」なんてキラキラした目で持ちかけているし。
だけど、これは負けられない勝負だ。ゾロは頭をあげてアリエラの隣にいるウソップに狙いをつけた。

「ウソップ! お前もおれの方がでけェと思うだろ?」
「あ〜興味ねェっす」
「引き分けじゃだめなの?」
「勝負に引き分けはねェ!」

ウソップにこの勝負は響かなかったのか、心底興味なさげに返された。隣のビビが二人の返答に見兼ねたのか、ゾロにやんわりと意見を持ち込んで見たら優しい返答はばっさりと切り捨てられる。

「じゃあ、アリエラちゃん。おれとゾロのだったらどっちがでけェかな?」
「う〜ん…サンジくんの大きさとゾロの体格を合わせてみたらどちらもきっと同じだと思うわ。だけど、私…男の子の勝負に口は出せません…!」
「ああ…アリエラちゃん可愛いなあ〜」
「アホが」

口の前でバッテンを作ってブンブン首を横に振るアリエラにサンジはメロメロだ。それが気に入らなくてゾロはまたボソっとこぼすと二人は喧嘩モードに突入する。最近、こんな感じでどうも仲の悪さが増していっている。また振り出しに戻りそうな展開に痺れを切らしたナミがぐわっと双璧に牙を向けた。

「コラーッ! もういいから早くしなさい!!」
「「うッ、」」

ナミの雷が何よりも怖いのだろう。二人はびくっと身体を震わせて喧嘩モードを取り止めて、大慌てで獣から必要分だけお肉を切り取っていく。ここまで費やした時間は約20分。船に乗り込んだゾロとサンジをナミがお一つ睨みつけて、いかりをあげるように指示をした。

「全く…狩り勝負なんて言って…その実は恋の鞘当てなんでしょ」
「…ッ、」
「えッ、な、なに言ってんだ、ナミさん」
「サンジ君。煙草逆よ」
「あ、」

動揺を隠すために煙草を取り出して咥えたのはいいけれど、方向が逆でナミにじっとり意味深に笑まれながら見つめられてサンジの胸はドキンと高鳴った。こんな美女に見つめられたらそりゃあ心臓もおかしくなるはず。だけど、美女へのドキドキに加えて図星をつかれてしまったドキドキも心の臓で暴れている。な、なんでナミさん…、そう思うがこんな大勢の中で口にはできずに胸の内にひっそりとしまった。

「よお〜し、出航だ〜〜!!」

これ以上追求されないようにゾロと共に出航準備を整えると、うずうずしていた船長がご機嫌に高らかな声を上げた。その隣でアリエラもお〜!とカルーと一緒に腕を長く伸ばしている。おそらく聞かれてはいないはずだ。ほっとため息をこぼすと「惚れた女にビビッてんのか?」なんて後ろから剣士の低声がかかって一発蹴りを入れたが、口角を上げたままひらりと交わされてしまった。

“恋” “惚れた女”

そう他人からはっきり言われるなんて、胸がむず痒くって変な気持ちになってしまう。これまであらゆる女の子に愛を振りまいてきたから慣れているはずなのだが、それ故か世界でたった一人の女性に向ける愛は尊く重たく、照れ臭いのだろう。

「サンジくん、どうしたの?」
「え、いや…なんでもねェよ、アリエラちゅわん
「そう? お顔が赤いから…熱射病になっちゃったのかと思ったわ。何もないならよかった」
「う…っ、おれの心配してくれるなんて…なんて優しいレディなんだ。アリエラちゃんは!」
「ほお。アリエラの言う通り、顔真っ赤だぞ。大丈夫か? コック」
「うっせェてめェ!」

心情を知ってニヤリとちょっかい出してくるゾロにサンジは見事な蹴りを入れて、ゾロはその怒りに刀を抜き、やんややんや喧嘩が始まる。もう、元気ね。とアリエラも困ったように微笑んで、二人のそばから離れてゆっくり進んでいく前方に目を向けた。

「このまま真っ直ぐ進めば西の海岸に出られるんだって」
「おい、もっと肉乗せれたんじゃねェか?」
「バァカ、無理だ。これ以上は保存しきれねェよ」
「あんた船沈める気?」

ふー、と煙草を吹かすサンジに続きナミもじっとりとした目をルフィに向ける。本当にこの船長は無類のお肉好きである。それはもう、げっそりしてしまうくらいに。
アリエラは「獣のお肉を食べられるなんてすごいわ…」と慄いている。

そんな話をしている間にメリー号は支流に入り、西の海岸に顔を覗かせると、前方で大きな青と赤のマントがひらりと風に靡いた。

「あーッ! あれ巨人のおっさんたちだ!」
「まあ、本当!」
「見送りに来てくれたのかしら」

大きな頭を見つめてルフィが目を輝かせた。メリー号が通っている支流を隔ててふたつに分かれた岸にドリーとブロギーが立っていたのだ。こちらに向けている背は、座っていた時よりもずっと大きくて息を呑んでしまう迫力がある。

「この島に来た人間たちが…」
「次の島に辿り着けぬ最大の理由はこの先にある…!」

背を向けたまま、低い声を交互に響かせたブロギーとドリーにナミとウソップは大きな目をくるりと丸めた。その隣で、アリエラは「何かしら?」と首を傾げている。

「お前たちは決死でおれらの誇りを守ってくれた!」
「ならば我らも如何なる敵がいようとも、友の誇りは決して折らせぬ」
「「我らを信じて真っ直ぐ進め! 例え何が起きようとも真っ直ぐだ!」」
「分かった!」

二人のことを心の底から信頼しているルフィは一ミリも疑うことなく、こくんと大きく頷いた。それに対してゾロは片眉を上げて、ウソップはびくりと肩を震わせた。

「何なんだ、一体?」
「な、何が分かったんだ? ルフィ!」
「何があっても真っ直ぐ進むってことだ!」

にしし、と笑みを浮かべているルフィにウソップは何があっても…と口の中で言葉を転がす。ブロギーとドリーはウソップの尊敬する師匠であり、目指すべき人だ。ごくりと息を飲み、心の中で渦巻いている不安を蹴飛ばした。

次第にメリー号は川をくだりきって西の海岸に船を浮かべた。ちゃぷん、と波が船底を撫でる音が静けさの中、巨人二人の耳に届いた。それが合図だった。同じタイミングで斧と剣を背中から抜き取り、構えた。

「お別れだ」
「いつかまた会おうぞ、必ず」
「うん!」
「必ず!」

大きな二人の横を通り過ぎていくメリー号に最後の言葉を投げると、甲板で船長と狙撃手が満面の笑みを浮かべてこっくり頷いているのが目に写った。

「見て、あれ!」

前方の海を眺めていたビビの驚いた声が空気を満たした。引かれるように前に注意を促し、瞳を凝らして見ると海面を大きくかき分けて真っ赤な巨大風船が姿を現した。

「きゃああ! なあに、あれ!」
「ああ…っ! うそ…っ!?」
「なんて大きさ…!」
「ギャーッ! ありゃ巨大海王類か!?」

アリエラ、ナミ、ビビにウソップはもちろん、サンジも煙草を甲板に落とし、ゾロも表情を引き攣らせていた。そのくらい巨大だったのだ。

「なんだこいつは…金魚か〜?」
「うああ…きょ…巨大金魚? ど…どこかで聞いたような…ッ、」
「ウソップのお話通りだわ…っ!」

一人だけ呑気な声をあげるルフィはその大きさにあんぐりと口を開けて、不思議そうに目をぱちぱちさせている。こんな巨大金魚の話をカヤに聞かせたような…、そう回想するが恐怖のあまりに思考は飛んでしまう。ガクガク震える口に手を入れてみるが戦慄は止まらない。

「出たか…島食い!」
「道は開けてもらう。エルバフの名に賭けて!」

海王類の中でもトップクラスのサイズを誇っている、ドリーが口にした“島食い”は真っ白な皮膚に赤い斑点を持つ球体の身体をぷかぷか海に浮かべて揺蕩っている。さっきの巨人二人の言葉から推測するに、これまでリトルガーデンに訪れた航海者のほとんどがこの巨大海王類に一飲みにされてしまったのだろう。

海に淡水魚である金魚がいるなんて、!と回想したナミだったが、慌てて思考を解いて航海士としても任務に取り掛かる。

「舵きって! 急いで…! 食べられちゃう!」
「もしかしたらこの金魚さんのお腹の中におじいさま住んでいるかも…」
「そんな馬鹿なこと言ってないで早く持ち場につきなさいよ、アリエラ!」
「え、でも…っ、真っ直ぐ行くんでしょう?」
「あ、ああ…! 真っ直ぐ進め! そうだろ? ルフィ!」
「おう、もちろんだ!」

超巨大海王類に気圧されつつも、ウソップは真っ直ぐ前を見て船長にこの船の進路を口にして訊ねた。例え何が起きようと真っ直ぐ…。そう彼らが忠告したのだから勝手に逸れていくわけにはいかない。

嘘…!と驚愕している航海士は船長の意見に逆らうことはできずに、グッと下唇を噛み締める。本当に真っ直ぐ進んで大丈夫なの? 嫌な展開しか浮かばないんだけど…。
そうこうしている間に、巨大金魚は口を大きく開けて──口だけでもメリー号の数十倍はある──船が口内に流れ着くのを今かと待ちはじめた。

「きゃああっ、」
「っ!」
「口を開けたぞおお!!」

ぎろりとした目、ダムのような巨大な空洞に背筋がゾッとしたアリエラは“真っ直ぐ”の意思よりも恐怖の方が優ってしまって、隣にいたサンジに思い切り抱きついてしまった。吸い込まれてしまいそうな独特な恐怖心から逃げるように何かにしがみつきたかったのだ。遠くで、ゾロが「な…、」と息を呑む声がかすかに聞こえた。

「う……、アリエラちゃん、大丈夫かい?」
「うん……あ、ごめんねサンジくん。急に抱きついちゃって」
「それは全然構わねェよ。アリエラちゃんがいいならずっと引っ付いてくれて構わねェさ」
「……サンジくんは優しいわね。ありがとう」
「そりゃあ、相手がアリエラちゃんだからね」

ジャケットに染み付いた煙草の匂いに顔をあげてみると、そこには目をハートにして鼻の下を伸ばしたメロリンサンジではなくクールな表情でこちらを見下ろしていて、違和感を覚えた。これがナミやビビだったら彼は目をハートにしていただろう。どうして…、そう思考を回すがにこりと綺麗に微笑むコックさんからは何も読めなくて、アリエラも考えることをやめた。

遠くからはじっとゾロが見ているし、吸い込まれるこの状況でいつまでもサンジに甘えているにはいられなくお礼を言ってそっと離れるとサンジが少しだけ残念そうにぐるりとした眉を下げたように見えてアリエラはどうしてか、見てはいけないと目を逸らしたのだった。

「どうすんのよ、本当に!」
「そんな焦るなよ、ナミ。ほら、最後のせんべいやっから」
「いらないわよお…、」

特等席に勇敢に腰を下ろしているルフィは余裕の笑みを浮かべてナミにせんべいを放り投げた。あのルフィが食べ物を人に譲ったのだ。普通ならそこに驚くのだが、ナミはそれどころではなく涙ぐみながら飛んできたそれを受け取った。

ゾロの付近でカルーがずっと鳴きながらぐるぐる回っている。恐怖を持つ者に無理強いしたくないゾロは、倉庫の扉を開けてやるとカルーは真っ先に飛び込んで行った。

「ナミ、もう諦めろ」
「うう〜…っ、」

ゾロの低い声が悲しく耳に届き、ナミは返す言葉もなくせんべいをかじった。

「おい、ルフィ! 本当にあいつら信用できるんだろうな!?」
「あァ、大丈夫だ!」
「正気!? ルフィさん、本当にあの怪物に突っ込んでいくの!?」
「おう!」
「で…でも、あんなに大きいんだもの。噛み砕かれることはないわよね」
「そうそう!」

アリエラの言い分には頷けるけど、問題はまだ山ほど…と言いたいところだがもう本当に寸前まで近づいてしまっている。ナミはせんべいをごくりと飲み込んで、正面に迫っている真っ赤な喉を見つめた。

「もうだめ! 間に合わない!!」
「きゃあああ!! やだ、怖い…ッ!」

大きな円の中に吸い込まれていく恐怖に思わずサンジに抱きつきたくなったけれど、グッと耐えてアリエラはナミに腕を回した。背丈も体格もほぼ同じだけど、恐怖はわずかにおさまっていく。ナミも叫びながらアリエラの細い腰に手を回してブルリと震えた。

「この島ヘビめ!」
「驚くのはそのデカさだけじゃない。その辺の島を食い尽くして出すこいつのフンのデカさと長さよ。確か、“なにもない島”という巨大フンの島があった…!」
「ゲギャギャギャギャ! 昔、大陸と間違えて上陸しちまったことを覚えている」
「懐かしき冒険の日々よ。奴らを見ていると昔を思い出す」

なにもない島。それはミス・オールサンデーが差し出した永久指針が示していた場所だ。二人が楽しそうに会話をしているうちに、メリー号を海水とともに舌に乗せた島ヘビはゆっくりと大きな口を閉じていって、麦わらの一味は真っ暗闇に閉じ込められてしまった。

「「真っ直ぐ! 真っ直ぐー! 真っ直ぐーーッ!!」」
「何言ってんの! もう食べられちゃったわよ!!」
「真っ直ぐーッ!!」
「ま…まっすぐーーッ!」
「アリエラ! あんたまで!」

怖くてぶるぶる震えているアリエラは涙を流しながら叫んでいた。祈るように必死に船長たちと声を出し続ける。このまま喉に落ちて、食道を通って…胃に落ちて、それから──。おぞましい考えが脳内を駆ける中、外で息を潜めていた巨人二人は武器を構えて奴に狙いを定めていた。

「我らに突き通せぬものは血に染めるヘビのみよ!」
「エルバフに伝わる巨人族最強の槍を見よ…!」

オーラが滲むほどに力をこめる。ドリーのお腹からは血が噴き出るが、それでも友のため止めるわけにはいかない。最大級にみなぎった力を腕に武器にこめて、親友戦士とともに放つ。

「「“覇国”!!」」

恐ろしいほどに莫大な力を込めたエネルギーが島ヘビの喉元を貫いた。ちょうど食道にいたメリー号は爆風と波に押され、体内から飛躍して、青空輝く中をしばし舞う。

「うっほおお! 飛び出たーーッ!!」
「「きゃあああ!!」」

勢いを失った瞬間、気が抜けたように海面に激しく船底をつけると大量の水飛沫が飛び上がる。音も恐怖も何もかも打ち消す冷たさを身に受けながら、ルフィと号泣しているウソップは放心状態のまま口角を持ち上げた。

「でけェ…! なんてでっけェんだ…!!」
「海ごと斬った…っ、これが…エルバフの…っ、戦士の力…!!」
「「さァ、行けェ!!」」

風と共に背中を押す気高き戦士の声が力強くこだまする。力を大量に含んだ斧と剣はもう折れてしまっている。ガババババ、ゲギャギャギャギャ、愉快な笑い声はどこまでも勇敢に響きわたって、友の船出を心から祝福した。


TO BE CONTINUED 原作77話-129話



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