181、ナマズに揺られて


「やればできる! カニならできる!!」

ものすごいスピードで水上を駆けていくハサミの上で、ウソップの鼓舞が響いている。浮く力など持ち合わせていない巨大なカニが、まるで道の上のようにすいすいと水面を渡る奇跡を起こしたナミのスタイルはやはり、この世の常識を揺るがしてしまうほどのパワーを持っている。

「さすがナミ!」

同性が見ても見惚れてしまう神のようなそれに、どこかぽっとした様子でアリエラはナミを見つめていると、調子のよかったハサミの速度が緩やかに落ちていくのを甲羅の上で各々感じとった。
「ん?」と最初に異変に気がついたのは、ウソップだ。血色のいい顔がみるみる青ざめていく様子にあわせて、ハサミの身体は徐々に水面下へと沈んでいく。

「なっなんだ!? 沈んでねェか、こいつ!」
「えっやだこんな大河のど真ん中で…っ!」
「沈むなよおッカニ!!」

一度揺らいだそれは、あっという間に崩れていく。重力には逆らえずに、どぷんと半身を浸からせたハサミは、まだメロリンと夢見心地でゆらゆら揺蕩いはじめる。
ビビ曰く、ヒッコシクラブは砂漠の生き物だからこのまま持ち直して泳ぎ渡るのも不可能に近い、とのことでそれぞれ諦めて泳いで向こう岸まで渡ることに決めた。

「うそだろォ!? 一体何キロあるってんだよッ! 泳げるわけねェって!」
「文句言ってる暇はねェ。進むぞ」
「ほらもう諦めなさいってウソップ」

半泣きで頭を抱えているウソップに、頭にチョッパーを乗せたゾロとナミが喝を入れながら河へと飛び降りていく。それに倣い、ビビも柔らかな波紋を描いて水中へと身体を投げた。

「さあ、アリエラちゃん。おれの腕に」
「ありがとう、サンジくん」
「なるべく浸からねェようにするけど、つらかったら遠慮なく言ってね」
「うん。ごめんね、迷惑かけちゃって」
「そんなこと思わねェよ、アリエラちゃん。君はただ、おれに身を任せてくれていればいいんだ」
「ふふ、うん」

彼の優しさに甘えるようにして、腕を伸ばす。能力者だし、ここは遠慮する方が返って失礼になるだろう。するりとお姫様抱っこをしてくれるサンジの優雅さに、「さすがMr.プリンス」ってこぼすと、サンジはへにょりと眉を下げて笑った。

「おーコック。意識し過ぎてヘマすんなよ」
「し、しねェわアホッ!」

とん、と軽やかに。飛沫も上げぬように入水すると、先頭に立ったゾロから揶揄いまじりにそんなことを言われ、サンジはぼっと顔を赤くして噛み付いた。そうして、ぎゅっと首に回した腕の力を強くする彼女に視線を落とす。
身を落とせば、もがくこともままならずに全てを奪われてしまう恐怖。背けるようにぎゅっと目を瞑ると、サンジは「大丈夫だよ、アリエラちゃん。絶対に落としたりなんてしねェから、安心しな」とやさしい低音で彼女を包み込んだ。
それに溶かされてゆくように心も安堵していく。アリエラはやんわりと笑みを浮かべて頷いた。

「おいビビ! ここから向こう岸まで一体何キロあるんだ?」
「50キロくらいよ」
「泳げるかァッ!!」

船はねェのかよお!と悲痛なウソップの叫びが夕暮れの大空にこだまする。
日没まであと1時間。このまま夜を迎えるのはあまりにも酷だ。地上の熱を一気に冷やしてしまう砂漠の夜は簡単に氷点下を超えてしまう。そんな中も泳ぎ続けなくてはならないなんて、厳しいにもほどがある。
ウソップはまだ諦めきれない様子で、半泣きのまま先頭のゾロについて行くと、剣士の頭上でくるりと振り返ったチョッパーのつぶらな瞳と目があった。

「ありがとな、ハサミ!」
「呑気に手ェ振ってる場合じゃねェだろッ!!」

かわいい声がぷかぷか浮かんでいるハサミに飛んでいく様子にウソップはくわっとツッコミを入れる。その後ろで、「あんた、そんな声張り上げてると余計体力持っていかれちゃうわよ」とナミが言った。

サンドラ河は広大な面積に反して水位は案外浅く、かろうじて水中歩行ができるほどだ。掻く水は重たいため、体力はそれなりに削られるが、それでも50キロ遊泳に比べたらマシだろう。温存のため、ひたすら無言(時たまウソップの不満に濡れた声が響くが)で歩きすすめていたところ。
先頭のゾロが不意に足を止めて、一同も倣うようにぴたりと動きをとめた。

「どうしたの、ゾロ」
「なな、なんだよ?」

長い付き合いにもなれば、剣士の背中から漂うオーラも感じとることも可能となって、嫌な汗がナミ達の背中を撫でる。サンジの首にぎゅうっと抱き着いたまま、アリエラもゆったりと前方に顔を向けて、「ゾロくん?」と小さく名を呼ぶと水面で揺れた大きな影を、見た。

「いやあッ!!!!」

真っ黒なそれは、突き上げるようにして水面を膨らませ、巨大な水飛沫をあげると同時にその巨体を空気に晒した。突如現れた生き物の壁に、ナミとウソップの絶叫が響き渡る。
きゃあっと驚いたアリエラの腕に強い力がかかり、ぎゅうっと密着も増してゆくから、サンジはう、と心臓を高鳴らせてしまうが…。それどころじゃねェだろ、おれ!と思考を理性でぺちんと叩き、意識を前方に集中させる。

「“サンドラマレナマズ”!!」

ちゃぷっと波を掻いて後ずさるビビの肩は声同様に小さく震えている。
見上げるほど高い場所にある大きな丸い瞳に四角めの口から各四方に伸びているながいひげから、どこか間抜けにも見えるけれど。人間自身よりも大きなものにはどうしても慄きを抱いてしまう。

「マレナマズ?」
「ええ。出現がごく稀だからそう呼ばれているの」
「そんな説明いらねェよッ!」
「ふふ、おもしろい名前ね」
「何も面白くねェって!」

きょとんと首を傾げるチョッパーにビビは早口で解説をしてくれる。その駄洒落のような名にアリエラもつい笑ってしまうと、またもやウソップのツッコミが光った。
その声に反応したのだろう。ぬぽっとしている顔がふっとこちらを見下ろすと、見つけた獲物の数にきらりと瞳を輝かせ、サンドラマレナマズは大きな口をあんと開き、クルーを飲み込もうと水を吸い込みはじめた。

「わっ吸い込まれるぞ!」
「キャアッ!」
「それと! サンドラマレナマズは人間が大好物なの!!」
「そっちを先に言えッ!!」

吸い込まれないようにぐっと踏ん張ったり、逆方向に泳いだりして堪えてみるけれど、あの巨体の吸引力に敵うわけもなく。みんなの身体は生み出された巨大な渦に巻かれていく。

「あのクソナマズ…ッ!」
「おいッチョッパー! コラ離せ見えねェだろ!!」

戦力であるサンジもこの状況では身動きが取れずにぎりり、と歯痒い思いで奴を睨みつけている。先頭のゾロも。刀に手をかけたはいいものの、あまりの恐怖に震えてしまったチョッパーが強い力でゾロの顔にしがみついているから前が見えず、おまけに息もできずあっぷあっぷしている。
そんな中クルーたちに噛みつこうと動きを変えたサンドラマレナマズが突如苦しそうな鳴き声を上げて、その鉄壁を崩した。

「へ……?」
「な、なに…??」

くるりと目を回して倒れていくナマズの姿に理解が追いつかず、その光景をスローモーションに見つめていると、可愛い鳴き声がいくつも重なってサンドラ河に響くのが聞こえる。

「この声…!」

クオー!と独特な鳴き声には聞き覚えがあって、アリエラがはっと水中下に目を向けると、緑色の甲羅を夕陽に輝かせたクンフージュゴンたちがジャンプして姿を見せた。しゅたっとナマズの上に着地し、もう一度「クオー!」と鳴き声を重ねる。

「え…っ、」
「こらチョッパー! 離してくれ!」

今度こそ危機一髪だった状況にアリエラたちは呆然と彼らを見上げつつ、上がった息を整える。その間もチョッパーはゾロから離れることを忘れ、しがみついたままきょとりと大きな瞳を丸めると、彼らの言葉を理解してこっくりと大きく頷いた。




「“兄弟弟子を放っとけねェっス”て」
「いや おれ達ァ別にルフィの弟子じゃねェけどな」
「でも助かったわ」
「ありがとっクンフージュゴンちゃん

ちゃぷりと揺蕩う音が心地よく鼓膜を揺らしている。
小さな体に見合わぬその凄まじい腕力でサンドラマレナマズを不能にし、手懐けてしまったのは、クンフージュゴン。まさか、砂漠を渡る前のあの出来事に命を救われるなんて思ってもいなかった。ルフィのことを“師匠”と仰ぐ彼らは、クルーであるゾロ達のこともしっかり覚えてくれていたようだ。

今は案内されるがまま、ナマズの背に乗り上げてサンドラ河を渡っているところ。
陽も徐々に落ちてきて、それに併せ気温も下がってきている。このままクンフージュゴンやナマズに出会わなかったらまた別の意味で窮地に陥ってたから、どのみち彼らは命の恩人となった。

50キロに渡る向こう岸までの緩やかな航路は一夜を費やした。全員無事にアルバーナのある陸地に降り立つ頃にはもう朝日のにおいが立ち込められていた。

「ありがとう!」
「ばいばい!!」

ここまでナマズを引っ張り運んでくれたクンフージュゴンに微笑みながらビビが謝意を投げ、アリエラとチョッパーがぶんぶん手を振りながら彼らとの別れを惜んだところ。
「おい」とこぼされたゾロの低い声が空気を変えた。
ぴん、と張られた緊迫の空気にすこし緩んでいた気持ちが引き締まる。ぐっと胸の前に握り拳を作り、アリエラは剣士に目を向ける。クルーの表情も先ほどとは打って変わり真面目なものになっている。

「順調に来てるぞ。間に合いそうか?」
「難しいわ…。マツゲ君に乗っても間に合うかどうか…」
「乗れても二人だものね」

ビビとナミの声に、マツゲはきゅっと締めた顔でぶるっと鳴いた。

「バロックワークスが仕掛けてくるとすりゃこっから先だぞ。何とか全員で行動する方法はねェのか?」
「ここからアルバーナまでの砂漠もこれまでとは違って敵の監視下にあるとおもった方がいいものね。ビビちゃん、アルバーナまでどのくらいあるの?」
「ここからだとほぼ一直線。10キロもないくらいよ」
「10キロか…」


それなら、この夜明けを利用して慎重に突き進むしかねェな。とたばこを燻らせながらサンジがこぼすと。前方、アルバーナ方面から巻き上がる砂埃にナミが気付いた。

「何あれ…ほら、あそこ!」
「なあに?」

上擦った声をあげるナミにつられ、クルー全員そちらに視線を向ける。
暗くてよく見えない上に煙に巻かれているため、それが一体何なのかすぐに汲み取ることはできない。

「な、なんだ敵か!?」
「ええーっ! もうおれ達気付かれたのか!?」

最悪の状況をまず考えなくてはならない。ぶるぶる震えるウソップの声に、誰も肯定も否定もしないでただ心をきゅっと引き締め迫りくるものを見つめる。
ゾロの鯉口を切る音がキン、と鳴る。それが合図かのようにそれぞれ戦闘準備に意識を向けた、とき。

「…違う…、あれは──!」

はかるようにそこを凝視していたビビが、表情を緩めて上擦った声をあげた。次いで、「カルー!」と愛おしい名を夜の砂漠に響かせる。

「それに…超カルガモ部隊…!!」

王女の声が彼の耳にも届いたようで、「クエー!」と、今になっては懐かしい鳴き声が砂埃の中から聞こえてくる。ふっ、と空気がゆるんで、視界は開けた。
カルーを先頭にしてこちらへと向かってくるは、8匹のカルガモ達。みんな敬意を示すようにびしっと頭に翼を添えて、クルー達の前で急ブレーキをかけた。


TO BE CONTINUED
原作180話-111話




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