130、花の額縁


どんちゃん騒ぎも次第に勢いを失い、すっかり疲れ果てたルフィはそのまま外で眠ってしまった。標高5000メートルの山をナミとサンジを抱えて登り詰めた疲労がどっと押し寄せて来たのだろう。

サンジが担いで男部屋まで運び、ハンモックに寝かせると一緒に着いてきたチョッパーに空いてるハンモックを彼の寝床として教えてあげて、空いてるロッカーにチョッパーと書いた名札をはめた。
その気遣いにチョッパーはキラリと目を輝かせて、サンジにお礼をいうと「そういや言ってなかったな。おれはサンジ。この船のコックだ。腹が減ったらおれに言えよ」とにかっと笑って、片付けを終わらせに男部屋を出て行った。

ルフィのいびきが響く男部屋は、さっきの騒ぎと一変して静かで何だかむずむずしてしまう。祭りの後の静けさとはこのことを指すのだろう。知らなかった気持ちを胸の奥で揺らして、チョッパーは可愛い足音を立ててハンモックによじ登った。


「ったく派手に食い散らかしたな」

甲板に出て改めてぐるりと見渡すと、あちこちに食器やコップが転がっていて、テーブルクロスもあちこちにべったりシミができている。こりゃ明日の洗濯が大変だぞ。とため息をこぼしながら、食器を積み重ねてキッチンへ向かっていく。もう眠たいけれど、片付けは今日のうちに済ませておきたいしお風呂だって入りたい。

くああ、と浮かぶあくびを噛み殺し、癖で剥き出しのまま胸ポケットに入れている煙草を咥えてコンロで火をつける。
大量の食器をシンクに置いて水を流していると、ゆっくりとドアが開かれた。その音で相手が誰だかすぐに察知し、背筋を伸ばして振り返る。お風呂上がりの濡れた髪の毛をタオルで拭きながら訪れたのはやはりアリエラだった。

「あ…、アリエラちゃん」
「まあ、すごい食器の量…。サンジくん、今からこれ片付けるの?」
「うん。明日に回しちまったら汚れがこびりついて落としにくくなるからね」
「そうよね。サンジくんは食器も大切にしているものね。わたしもお手伝いしていい?」
「えッ…、いやいいよ! アリエラちゃんのやわらけェ麗しおててを汚すわけにはいかねェ!」
「そんな綺麗な手じゃないわ。だから大丈夫よ、サンジくん」
「いやでもダメだ! 美しきアリエラちゃんがしなくてもいい作業だし、片付け含めてコックの仕事だから気持ちだけありがたくいただくよ。ありがとうね、アリエラちゃん」
「うん…うん。コックさんのお仕事に余計な手出しはしたくないからここは引き下がります。ごめんね」
「ううん。気にかけてくれて嬉しいよ、アリエラちゃんは優しいなあ」
「優しいのはサンジくんよ。今日のごはんもとびきり美味しかったわ。チーズのシチューがとおっても好きで3回もおかわりしちゃった。濃厚でこくがあって、でもくどくないからぺろりといけちゃうの。さすがサンジくん。今日もおいしいごはんをありがとう」
「……こちらこそだよ、アリエラちゃん。今日も美味しそうに食べてくれてありがとう。作ってよかったって心から思うよ」

蛇口をひねり、腕まくりをしながらアリエラに背を向ける。レディに背を向けるなんて紳士失格だ、とも思うがこのまま彼女の顔を見続けていたらあからさまな態度を取ってしまいそうだし、胸の奥に落とされたじんわりとしたぬくもりに泣いてしまいそうになり、それをぐっと耐えなくてはならないから、これはカッコ悪い姿を見せたくない紳士の対応だとサンジは思いなおすことにした。

「あ…、ごめんよアリエラちゃん。おれ何も考えてなかった。お風呂上がりだから喉渇いたよな、何かお淹れしましょうか」
「あとででいいの。お片づけの最中だから邪魔したくないわ」

食卓に腰を下ろして、航海日誌を広げていたアリエラは顔を持ち上げて慌てたように首を振った。
その姿にどちらかといえば気の強い方なのに、それがわがままに変わることはなく、必要以上に遠慮も持ち合わせているところが彼女らしいなあ。と笑みを浮かべる。

「そんなの気にしねェでくれ。おれはコックだから、ほしいものはほしいときにだしてェし、遠慮せずに言ってくれた方が嬉しいな」
「ほんと?」
「あァ、本当さ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて。温かいお茶がほしいなあ」
「かしこまりました、レディ。ローグタウンでいいほうじ茶を手に入れたんだ。ほうじ茶は好きかい?」
「うん、大好き!」
「よかった」

嬉しそうに相好を崩してケトルに新鮮な水を汲み、火にかけたサンジの背中を見つめる。
同い年でほぼ同じ身長のゾロと比べたら一目瞭然に細身だけれど、肩幅の広さは男のものだし、長年コックをやっていたこともあって肩まわりや手首はがっしりしている。

そして中身はゾロとほぼ正反対といっていいほどに喜怒哀楽が激しく、女の子が大好きで、美しい女性には目をハートに変えてすっ飛んでいくような身の軽さを持っているのに、そんな彼のどこかに計り知れない愁いを感じるのはどうしてだろうか。

そりゃあ、もちろん誰だって悩み事くらいはあるだろうけれど──うちの船長をのぞき──それとは、また別の何か。本人は今は気にしていない事柄に対して、自分では操作できない潜在的なものを感じてしまうのだ。

その垣間見えるものに胸が締め付けられたことがある。今、ご機嫌にお茶を淹れている彼からはそれを感じさせないし、どうしてそこに思考が引っ張られたのか全くわからないけれど。

謎に思いを馳せるていると、ふわりと香ばしいかおりが鼻腔をくすぐった。惹かれるように顔を持ち上げてみると、笑顔を浮かべたサンジがすっと丁寧にティーカップを置いてくれてアリエラの心もほぐれていく。

「わあすっごくいい香り!」
「あァ、いいお茶は香りが濃いんだ。だけど、しつこくなくすっと入っていくだろ?」
「うん、すごい全然違うのね。癒されるわあ
「ああ…癒されてるアリエラちゃん、かっわいいなあ
「うふふ。いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」

でれっと相好を崩して微笑むサンジにアリエラもにっこり嬉しくなる。
最近、彼の態度にわずか数ミリ程度の違和感を抱いていたのだけれど、どうやらその違和感は勘違いだったみたいだ。エトワールだったから、二人きりの時は気を使ってメロリンってしてくれないのかしら?なんて考えたこともあったけれど。
なんだか安心してティーカップを持ち上げると、「火傷しないように気をつけてね」なんて優しいさがテーブルの木目に染み込んでじんわりあたたかな気持ちが広がっていく。

「…うん、美味しいっ」
「あはは、よかった。熱くないかい」
「うん、平気。サンジくんは本当に優しいわね、ありがとう」
「そりゃあ、──大切なレディですので」

胸が抉れてしまいそうなほどにドキンと高鳴って、口に出そうとしたことばをふいに引っ込めてしまった。
“特別”そんなたった四文字を口にできずにどうすんだ、とため息を吐きたくなった。けれど、サンジにとってそれは“たったの”で済ませるほど軽いものじゃなくて、もう一度撃沈してしまう。
この世の全てのレディーを愛するという心情を持っているから、女の子の口説き方なんてゾロよりも知っているし慣れているのにそれは本命には一切発揮できずに、素直に感じてしまう。
このドキドキを乗り越えて告白なんざできたおめェはすげェよ。と。

アリエラと目を合わせるだけでもドキドキするのに、こんな緊張照れ臭さときめきの中、真実の愛を告げるなんて今のサンジにはとても無理なことだった。比喩ではなく、本当に心臓が口から飛び出るに違いない。

ふう…、ひとつ深呼吸をしてから食卓に視線を流す。笑顔でお茶を啜るアリエラにどきんと胸が高鳴って、けれどバレたくないから平然を装い、冷蔵庫に手を伸ばす。

「アリエラちゃん、小腹は空いてないかい」
「ええ。さっきたらふくいただいたから。それよりサンジくんは?」
「おれも今日はみんなと一緒に結構食ったから満腹だよ。気にかけてくれてありがとう、アリエラちゃん。キミは本当に優しいなあ」
「優しいサンジくんだからよ。でも、よかった。じゃああとは片付けて寝るだけ?」
「うん。あと風呂を済ませたら完璧だよ」
「ああ…サンジくん…、」
「ん?」
「サンジくんはなんて素敵な殿方なの…! 毎日きちんとお風呂に入るなんて!」
「あはははっ、そんな喜んでくれるようなことかい?」

大袈裟にも取れるほどに涙ぐむアリエラにサンジはついつい笑ってしまう。
こういうところも可愛いなあ、なんて微笑みながら、恋慕によるこの気持ちを克服しよう!とアリエラと向かいになるように壁側に回って木製ベンチに腰を下ろした。

「えへ?」
「うっ…ッ、かっ、かわ…ッ、」

羽ペンを動かしていたアリエラは、目の前に座ったサンジに笑みを浮かべてみせたから、彼は机に突っ伏して可愛さのあまりに悶絶する。なんて威力……これが女神天使アリエラ様の懼れるパワー!なんて心のうちで叫んでから顔を持ち上げた。

「サンジくん、どうしたの? 大丈夫?」
「だ、大丈夫大丈夫! ごめんよ、いやあ…あまりにもアリエラちゃんが可愛かったもんで」
「うふふ、変なサンジくん」

ニコニコと笑みを浮かべてカップに手を伸ばすアリエラに笑みを浮かべてから、サンジも持ってきた自分のティーカップに残ったお茶を注ぐ。

「おれも一緒にお茶してもいいかい?」
「ええ、もちろん」

淹れてから聞くなんて計算したみてェだな。と呆れてしまうけれど、事実そうなのかもしれない。断られたらきっとひどく落ち込んでしまうから。まあ、彼女が断ることはないと思うが。だからその分、“もし断られた場合”がひどく怖いのだ。だから、無意識のうちに自己防衛に出たのだろう。

「ほんとおいしいわね、このお茶」
「うん、うめェなあ。おれも今はじめて飲んだんだが、こんな雑味のねェ味だとは驚いた。茶葉は気候によって大きく左右されるから寒くも暑くもねェ環境が必要なんだ。だから産地が肝心で特にウエストブルーなんかは気温が大きく上昇も低下もしねェ島が多いから栽培に向いてるんだ。もちろん一概には言えないけど、いい紅茶も選ぶときは──……あ、ごめん」
「え?」
「茶葉の話ってつまらねェよな、おればっか盛り上がってごめん…」

しゅんと子犬のように肩を落として瞳を丸くするサンジにアリエラはぱちぱち瞬きを繰り返して、柳眉を下げた。

「わたし、つまらなさそうな顔をしていたのかしら。ごめんなさい、わたしそんなつもりじゃなくって、サンジくんのお話タメになるわって楽しく聞いていたんだけど」
「あ、いやアリエラちゃんは謝らねェでくれ! そうじゃなくっておれが勝手に一人で話し始めてレディを置いてけぼりにしてねェかって……余計な気遣いだったな、ごめん」
「ううん。サンジくんはコロコロ表情が変わるから見てて楽しいわ。おまけに知識も豊富で気遣いも必要以上にしてくれて、優しい低い声も心地が良くって。わたし、あなたといる時間大好きよ」
「……え……、あ…、え…」

まさかまさか。想い人からそんな光栄な、脈のあるようなことばをもらえるなんて想像すらしていなかったサンジは思ったように言葉が出てこない。そもそも、アリエラのことばも意味は少し遅れて脳裏に届いたから、理解するのに少し時間がかかってしまって。

まさか、彼女がそんな想いを抱いてくれていたなんて。信じられなくってカラカラになった口内を潤すためにほうじ茶を啜る。けれど、さっきまで舌を包み込んでいたあの深みも味も何も感じなかった。

「……本当かい?」

こくりと喉に流しこんでから少し潤んだ唇を開くと情けなく声が震えた。けれど、アリエラはそれを気にすることなくにっこり満面の笑みを描いた。

「うん、わたしは騙しをしてきたけれど嘘はつかないわ。それが仲間なら絶対に。だから、本当の本当にサンジくんといる時間が楽しくって安心するの。サンジくんがよければこれからもこうして一緒にお茶したいわ」
「も、もちろん……っ! もちろんさ、アリエラちゃん。むしろ、おれなんかがアリエラちゃんの時間を貰っちまっていいのかい? あ、今だって日誌書く時間をおれが奪っちまってるし、」
「もうっ、サンジくんは気にしすぎなの! そんなに女の子側のことを気にしていたら彼女できないわよ」
「う……、かのじょ、」

むっすり頬を膨らますアリエラとその言葉にサンジの胸もずぎゅんと高鳴る。と同時に惚れた女の子にそんなことを平然として言われて心のやわらかいところが痛んだ。
おれに彼女ができても何とも思わねェのかな。喜んでくれるのかな。なんて想像してはまた大ダメージを受けて、さっきの“脈あり”は帳消しになってしまった。

そこで、ゾロの言葉がふいに脳裡で弾けた。
『おめェも紳士がどうのって言ってるうちに遅れを取っちまうぞ』
いけすけねェムカつく奴だが、それは正論だとサンジは思って、思っただけで行動できねェでどうすんだ。男サンジ! 前進しろ!と己に喝をいれて、顔を持ち上げる。

「……アリエラちゃんは」
「ん?」
「…アリエラちゃんは、そういう男は嫌いなのかい?」
「え? そういう男?」
「おれはレディーには全神経集中させて溢れもなく気を配り生きてきた。全世界のレディーをおれは愛してる。だが……あー、その…」

ここまではすらりと言えたのに、次のセリフとなると急に小っ恥ずかしさに襲われて金色の髪の毛をぐしゃりとかいて胸ポケットに潜めていた煙草を咥える。アリエラに煙がかからないように席をずらして火をつけて、肺までたっぷり送ったところで少しだけドキドキがおさまった。
その間、アリエラはペンを握りしめたままきょとんとサンジを見つめている。

「どうしたの? サンジくん」
「……アリエラちゃんの事となるとよ、その…。いらねェことまで考えちまって、アリエラちゃんに不快な思いをさせちまってるかもしれねェが…どうしてもこう……気にしてしまうんだ」
「ううん、不快になったことなんてないけど…でも、どうして? そんなにわたしのこと気にしてくれなくていいのよ、サンジくん」
「気にしちまうよ。だって、おれァ……全世界中のレディーを平等に愛してるが、アリエラちゃんは中でも特別だから」

ああ、クソ。なんだこれ。恥ずかしすぎて穴があったら入りてェ。ゾロはこれを乗り越えて彼女から返事をもらったのか? あいつ勇気だけはすげェよ。おれはもう席を立ちたい気持ちでいっぱいだ。アリエラちゃんからの返事を聞きたくねェ。マイナスなこと言われちゃ立ち直れねェ自身がある。だが、逃げたら男として一生の恥が残っちまう。

彼女から目を逸らして、煙草を吸うことで何とか気を紛らわせていると。こと、と音が静謐に響いた。無意識に目をあげてみると、頬を赤くしたアリエラとバッチリ目があって、まさかの反応にぽろっと煙草を机の上に落としてしまった。

「え、あ…、アリエラちゃん…?」
「……サンジくんのばか」
「うえっ!? か、かわい……」

恥ずかしさ照れ臭さに続き、赤い顔を包み込んだアリエラからの攻撃にサンジの脳はもうキャパオーバーしてしまい、目の前の状況にただただ素直な声をこぼしてしまった。
すると、アリエラは少しだけ目を尖らせて胸を押さえた。

「もお…。びっくりしたあ。サンジくんったら本当に上手いんだから」
「え、?」
「ありがとう。特別だなんてうれしいわ」
「え、いや待ってアリエラちゃん。おれは本当にキミのことが……」
「わたしもサンジくんのこと大切で特別なの。だからとってもうれしい。ただ、すっごくドキドキしちゃって……さすがサンジくん。女の子の扱いがうまいわね」
「えええ……そういう、意味じゃ…」

どうやらアリエラは仲間として特別という意味に変換して受け取ったのだろう。おまけに、女好きで何度も口説いていたところを見てきたからこれもその一環だと、誰にでもこう言っていると思われてしまったみたいだ。

ドキドキしたあ。とお茶を啜って、日誌に取り組みはじめたアリエラにサンジの心も複雑に落ち着いてくる。本気を伝えたくなったけれど、さっき以上のドキドキは耐えられないと踏み、転がった煙草を灰皿に押し当てた。

「……ああ、おれ苦労するかもしれねェ…、」
「…?」
「いや、ごめん何でもねェ。お茶のおかわりはいかがでしょう、レディ」
「わあ、ありがとう。まだ仕上げまでかかりそうだからいただくわ」
「かしこまりました」

思わず出てしまったことばを察せられぬうちに話題を変えて、サンジは急須を持って立ち上がる。その憂惧はもちろん的中するのだが、それ以降の展開にひかりを見つけるのはまだまだ先のおはなし。


TO BE CONTINUED



1/1
PREV | NEXT

BACK