123、雪の住む城


「う…ん…、」
 
 懐かしい夢を見ていた。
 幸せいっぱいの幼少期のあたたかな記憶の追憶。大きくて優しい母親の両手に背中を押され、ふと瞳を開けてみると飛び込んできたのは見知らぬ天井。真っ白で一点の汚れのない天井は、無機質で病院を思い起こさせる。そこで、そういえば…、とナミは大きく息を吸い込む。
 ここ数日間襲われていた激しい頭痛と全身の痛み、脳が正常を判断してくれないほどに熱かった体温、その苦しみ全てのほとんどが取り除かれていた。まだ健康体とはいえない怠さはまとわりついているけれど、あの時よりも随分とマシだ。本当に、死んだ方がマシだったほどに痛くて苦しかった。
 
 徐々に取り戻してきた意識、次いで鼓膜がキャッチしたのはゴリゴリと重たい何かで物をすりつぶしているような音。何だろう? 軽くなった身体をむくりと起こして、お部屋をぐるりと見回すと──。
 
「……誰?」
「──ッ!?」
 
 ナミが寝ているベッドから斜め右先にある長机の前。椅子に立って背伸びをしながら薬研を動かしていた毛むくじゃらの小さな生き物は、ナミの声にびくっと肩を揺らして瞬く間に椅子から飛び降り、後ろの本棚に背を向けて驚いた瞳をナミに向けた。
 
「ん…?」
「ひっ…!」
 
 可愛い、ぬいぐるみ?と首を傾げるナミにまたギョッと毛を立たせて、小さな生き物は向こうの部屋の扉の影に姿を隠してしまった。だが…、ナミはその姿に汗を浮かべてぱちぱち瞬きを繰り返している。
 
「それって…逆、なんじゃない?」
「…っ!」
 
 本来ならば、その身を扉の板に隠したいのだろうがその子は身体をこちらに出して頭を板の方へと向けているから全てが丸見えなのだ。ナミの指摘にはっとした彼は、飛び上がって正しい身の隠し方を取る。
 
「遅いわよ。隠れきれてないし」
 
 だが、やはりうまく行っていなく、ナミは更に汗を増やしてじっとりとした目を向けるから彼は小さな身体をブルリと震わせてナミに鋭い瞳を向けた。
 
「う、うるさい…人間! それと…お前、熱大丈夫なのか?」
「……っ! 喋ったあああ!?」
「うっうわあああ!!」
 
 ナミの大声にその子は大きく身体を飛び上がらせて、本棚の方へと突っ込んでいくから棚に並べられた物をガシャガシャ床に落としていく。その大きな音はナミの頭を強く響かせ、ぎゅっと目を瞑った。
 
「うるさいよ、チョッパー!」
 
 その音に何があったのか察したのだろう。向こうの部屋から嗄れた女の人の声が響いて、ナミははっと瞳を向ける。出てきたのは、クリーム色の髪の毛を胸元まで垂らし。この寒い中ヘソ出しシャツを着ている長身の女性だった。もう随分と歳を取っているのだろうが、立ち姿は老いを一切感じさせない。魔女のような笑い声を響かせ、片手に握っているお酒を豪快に流し込むとナミのおでこに指をつん、と置いた。
 
「ヒヒヒヒ…熱ァ多少引いたようだねェ、小娘。ハッピーかい?」
 
 ニヤリと口角を持ち上げる彼女にナミは呆然と瞬きを繰り返す。
 あの時…朦朧とした意識の中で、この島にいる医者は魔女一人、と聞いたことのない低い声がそう言っていたことを思い出す。魔女と形容するにはピッタリの人物だが、片手には酒を持ったそのファッションから医者と結びつくには程遠い格好でナミはおそるおそる乾ききった口を開いた。
 
「あなたは…?」
「…38.2分、んん。まずまずだ。あたしゃ医者さ。Dr.くれは、ドクトリーヌと呼びな」
「医者…やっぱり。じゃあ、ここは…」
 
 サングラスをかちゃりと上にあげてキーヒッヒッヒ、と笑い声を立てる彼女はやはり魔女のようだ。あたりをキョロキョロ見回してみる。石畳の床に冷たい印象を残す天井。ぎっしりと医学書が詰まった大きな本棚にフラスコが何本も立てかけられている長机。ぱちぱちと炎が弾ける円型の暖炉はナミの足元の先にあり、向こうのお部屋に続く扉の前には豹柄のクッションが置かれた椅子と丸テーブルが置かれていて、とても病院とは思えない室内にナミは息を呑んで少し目を見開かせた。随分と楽になったから彼女がヤブ医者だとは思わないけれど、医者よりも魔女らしき彼女とこの部屋はそれにしてもだ。
 
「若さの秘訣かい?」
「ううん…聞いてない」
 
 あの独特な笑い声と一緒に放たれたことばをナミはクールに交わした。まだぴっちぴちの18歳だ。若さの秘訣は今のナミに必要ない。きょろりと不思議そうに部屋を見ているナミを見つめて魔女、ドクトリーヌはお酒を豪快に流し込んだ。
 
「…ここは山頂の城だよ」
「やっぱり…本当にルフィ登ってきたんだ…。あ、だったら私以外にもあと二人いたでしょ?」
「ああ、隣の部屋で寝てるよ。ぐっすりとね。タフな奴らだ…」
「はあ…よかったあ」
 
 うっすらと記憶は残っている。身体の芯まで冷え切るほどの山道をサンジと一緒に走っていたこと、ルフィの背中が大きくて温かかったこと、自分が苦しいはずなのに励ましの言葉を吐きながら山を登っていたこと。全て飛び飛びで夢なのか現実なのか判断もできないほどに儚い記憶だが、あれはやっぱり現実だったんだ。とナミの胸がぎゅんと締め付けられて、それを誤魔化すためにぎゅうっと布団を握りしめた。
 
「キヒヒ…こいつだよ」
「え…?」
 
 ナミの水色のパジャマをめくりあげて、ドクトリーヌはまた魔女のような笑い声を響かせる。
 
「こいつが原因さ」
「何…、これ…」
 
 薄いお腹に大きなあざのような斑点が広がっていて、その気持ち悪さに体がゾクリと震えた。お腹を強くぶつけた記憶もないし、あざにしては鮮明すぎるそれは見たこともない色を滲ませている。
 
「“ケスチア”って虫にやられたのさ。高温多湿の密林に住んでる有害のダニだ。こいつに刺されると刺し口から細菌が入り身体の中に五日間潜伏して人を苦しみ続ける…。刺し口の進行から見て今日は感染から三日目ってとこか」
「へえ…ダニ…」
「並の苦しみじゃなかっただろう…放っておいてもあと二日で楽になれたけどね」
「二日…経てば?」
 
 じゃあ、やっぱり医者のいる島に寄らずに真っ直ぐアラバスタに行った方がよかった…と思ったところでナミの心情を読んだのか、ドクトリーヌは悪魔のような笑みを浮かべてスッとナミに顔を近づけた。
 
「二日後にはお前は死んでたからさ」
「え……ッ、!」
 
 ゾクリと全身に嫌な悪寒が走った。だから五日病…だからあの苦しさだったのか…。ナミは瞳を揺らしてか細く息を吐く。そんなことないわよ、と笑ったけれどこの島に寄らなかったらアリエラが言っていたことが本当に起こっていたのだ。そして、これほどの腕を持つ医者に奇跡的に巡り会えたから助かったがそうでなかったら──。
 指先がじんじん痺れて、唇が震える。そんな危機的な状況だったなんて…。ビビの決断に心から感謝すると共に、彼女をアラバスタに届けたい気持ちはまた膨れ上がる。
 
「ケスチアはね、もう100年も前に絶滅したと聞いていたが…一応抗生剤を持ってて役に立ったよ。お前たち一体どこから来たんだい? まさか、太古の島を腹出して散歩してたとでも?」
「……あ、」
 
 太古の島、お腹を出して散歩。その言葉にリトルガーデンでの出来事がすぐに脳裏で再生された。体調を崩したのも翌日の朝だし間違いなくこのダニはリトルガーデンでもらってきたのだろう。ぎょっとしたナミにドクトリーヌも驚いて、ため息を吐いた。
 
「心当たりでもあんのかい? ったく呆れた小娘だ…」
「あ、お腹を出していた女の子がもう一人船にいるの。彼女は大丈夫なの…?」
「お前のように体調崩してるのかい?」
「いいえ…元気なはずだけど…」
「なら安心だ、心配はいらないね。このダニは厄介だが潜伏期間が短くすぐに何らかの症状は出る。三日目で元気なら患ってる可能性はゼロに等しいよ。それより、人の心配をする前に自分の病気を治しな」
 
 つい、とおでこを強く押すとナミは大人しくされるがままぽすんとベッドに横になった。体はまだだるいけれど重めの風邪のようなもの。先ほどまで襲っていた辛さとはもう比べ物にならないほどに楽になっている。
 
「まだ寝ときな」
「どうもありがとう…。熱さえ下がればもういいわ。あとは勝手に治るんでしょ?」
「甘いね、お前は。本来なら治療を始めて完了するまで10日はかかる病気だ。またあの苦しみを繰り返して死んじまいたいなら話は別だがね…。あたしの薬でも3日は大人しく寝ててもらうよ」
「3日!? とんでもない、私たち先を急いでて──ッ!」
 
 体を起こして反論に出たナミに彼女はメスを引き抜いて、それを器用に回しながらナミを押し倒し、細い手首を掴んで握りしめたメスを彼女の首元にピタリと添えた。キーヒヒヒ、と笑みをナミの耳元でこぼす。
 
「いいかい。あたしの目の前から患者がいなくなるときはね…ヒヒヒ、治るか死ぬかのどちらかさ。逃がしゃしないよ」
「……!」
 
 “魔女”そう呼ばれる理由がわかった気がして、ナミは首元に当たる冷たい金属に背筋を凍らせてこくりと喉を鳴らした。
 
 その頃、ルフィとサンジはナミが寝ている部屋の奥の部屋のベッドで眠りについていた。
 全身凍傷のルフィと骨折が目立つサンジ。サンジは手術が必要だったから、それを先ほどチョッパーと呼ばれた小さな生き物が施し終えたところ。麻酔も効いて、二人ともいびきをかいてぐっすりのようだ。
 
「ん〜はらへったあ〜〜」なんてこぼしながら眠っているルフィの姿をじっと見て、チョッパーは一時間前、彼らを城の外で見つけた時のことを思い出す。人の匂いがする…と外に出たところ、崖付近で赤いベストを着たルフィたちを見つけたのだ。足場が崩れて落ちかけた彼を掬い上げて、雪の上に寝かせてドクトリーヌを呼んできて三人の状態を観察する。
 
「この山を素手で登ってきた!? 標高5000メートルのこのドラムロックを!?」
 
 まず最初に彼女が驚いたのは信じられないルフィの行為とその状態だった。全身赤黒く凍傷していて、手足膝からは擦り傷による大量出血が目立っている。爪もボロボロで、唇も紫に変色していた。
 
「こんな格好でなんのつもりだ…すぐに湯を張ってぶち込みな」
「こっちは出血が酷いんだ。あばら六本、背骨にヒビ…おれが手術してもいい?」
 
 サンジのシャツを開いて、ちょこんとした手を乗せてチョッパーはドクトリーヌを見上げると彼女は大きく頷き、苦しそうに息を吐いているナミをそっと抱きかかえて眉根を寄せた。
 
「一番やばいのはこの娘だね…死にかけてるよ」
「え…?」
「チョッパー。フィニコールと強心剤、それにチアルシリン用意しときな!」
「感染してんの?」
「…ああ。この島の病原体じゃないよ」
 
 この症状は…今の時代に…と瞳を細めるとルフィがぴくりと動きを見せ、目を開いた。薄れゆく意識の中でドクトリーヌの姿を捉えると、震える手で彼女の細い足首を力強く掴み、こう吐いた。
 
「なカバ(仲間)……ダンダよ…!」
「大丈夫だ。こいつも血まみれのガキも、治療してやるから安心しな」
「なか……ば、」
「わかってるよ、必ず助ける」
 
 仲間のために命を削ってこの頂上まで登り詰めたルフのその行動と一言はチョッパーの胸をがつんと揺らした。仲間……それは、生まれてからこれまでチョッパーがずうっと憧れ続けていたものだったのだ。
 あれから何度この光景を思い出しては胸を痛めているだろう。チョッパーは洗面器を持ったまま、観察するようにルフィを眺めた。
 
「……仲間…」
 
 そう呟いた時、ぴくりとルフィの人差し指が震えた。次いで、うっすらと瞼をもちあげる。
 
「んん…はら、減ったあ……ん…にく……」
「ひい…!」
 
 目があった途端、だらだら分泌されて溢れてくよだれにこぼされた言葉、チョッパーにとってはあまりにも恐ろしいことで後ずさるとサンジのベッドにごつんと体をぶつけた。
 
「…鹿肉のシチューは鍋でコトコト3時間。程よい柔らかになって旨味も凝縮され……」
「ひっ、」
 
 より恐ろしいのはこちらであった。単純な肉!よりもずっと鮮明に自分の末路を想像できて、チョッパーは身震いして後ずさるが、またルフィのベッドに帰ってしまった。
 
「んー肉〜!」
「ひいい!!」
 
 逃げようとしたら今度はむくりと起き上がったルフィの色の濃い声にはっとしたがもう遅い。数歩後ろに下がった瞬間に細い腕をサンジの大きな手のひらに取られてしまっていた。
 
「鹿肉ー!」
「どわあああ!!」
 
 慌ててサンジの手を振り払い、チョッパーは小さな体だからこそ小回りが効いて俊敏に駆け出して行く。空腹なルフィとコックなサンジの興味は消失することなく、逃げることによってまた掻き立てられてしまって。
 
「「肉〜〜〜!!」」
「うわああああーー!!」
 
 部屋の中を三人くるくる周りはじめたのだ。その激しい音にナミはベッドから起き上がって向こう側の部屋を見つめる。うるさくて眠れないけれど、ルフィもサンジも元気なことがわかってほっと安堵した。
 
「待て肉〜〜!!」
「ぎゃあああー!」
「待てルフィ! こいつはおれが調理する!」
 
 チョッパーの細い腕に噛みつこうとしたルフィを制したのはサンジで、チョッパーは触れそうになったルフィの歯にゾッと背中の毛を立たせて、体に二人をくっつけたままナミが寝ている部屋へと走り、そのまま廊下へと出て行ってしまった。
 本当にあいつらがいると騒がしいわ。と目を瞑ると、ふわっと生暖かい風が肌をかすめて目を開ける。
 
「ナミー! お前よくなったのか!」
「おかげさまで」
 
 急ブレーキをかけてナミの元へやってきたのはルフィだった。彼の太陽のような笑みにナミも体を起こして答える。その身をボロボロにしてまでここに連れてきてくれたルフィにナミの胸はくすぐったくなる。照れ臭いから決して口にはできないけれど、彼について行ってよかったと心から思うのだ。
 
「ああ〜ッナミすわ〜ん!」
 
 チョッパーを追いかけながらナミの声を耳に挟んだのだろう。サンジも廊下からびゅんと飛んできてふにゃ〜とした笑みを浮かべてみせた。
 
「よかったナミさん! よーし、ナミさんに精のつく鹿肉料理を…!」
 
 扉の方で見え見えの隠れポーズを取っているチョッパーと目があったルフィとサンジは珍しい生き物への興奮を最大限に引き出して、毛を立たせて逃げていくチョッパーの後ろ姿を追いかけて行ってしまった。遠くからはチョッパーの金切り声が聞こえてきてナミは胸を痛めながらベッドに身を潜らせる。
 
「驚いたね…あいつらもう動けるのかい」
「何なの? あの鼻の青いしゃべる鹿のぬいぐるみ」
「あいつが何かって? 名は“トニートニーチョッパー”ただの青っ鼻のトナカイさ」
「トナカイは喋らないわよ?」
 
 奥の部屋から呆れ顔で出てきたドクトリーヌにナミは募っていた質問を投げるが、返ってきた答えはまたナミの頭を混乱させるものだった。キヒヒ、と魔女の笑みを浮かべてナミの前に椅子を持ってきて腰を下ろした。
 
「ただのトナカイと違うとすれば…」
「違うとすれば…?」
「奴が“ヒトヒトの実”を食っちまったってことだけ」
「ヒトヒトの実…?」
「奴は人間の能力を持っちまったトナカイなのさ。そして、あいつにはあたしの医術の全てを叩き込んである…」
 
 だから、さっき薬研で薬を作ったり、熱の心配をしてくれたりしたんだ。そして喋る理由も…。ヒトヒトの実が存在しているということも、トナカイがそれを食しただけでしゃべれるようになったというのも俄かに信じ難いことだが、現にそう体現されているため信じるしかない。謎だった部分が判明してスッキリはしたのだが、ドクトリーヌの語った瞳はきつく揺れていて、ナミは何か訳ありなのだと察した。
 
 
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