81、甘やかな花蕾


「う〜ん。 よいよ!」
 
ルフィと決闘の末、新たな約束を交わしたラブーンはご機嫌な面持ちで、自身の顔にメイクを施しているルフィをじっと見つめていた。こんなにも大人しく、穏やかなラブーンは実に数十年ぶりで、クロッカスもほろっと相好を崩している。
 
一体ルフィが何をしているのかというと、たっぷりの白と黄色と赤色のペンキをアリエラから借りて、巨大な刷毛を使いラブーンの傷だらけな大きな額に麦わらの一味のマークを入れたのだった。
絵が苦手で、絵心のないルフィが描く線は歪み、いびつだがそれには味があっていいものだ。ラブーンも「ブオ!」と嬉しそうな声をあげている。
 
にこやかなラブーンにルフィもにかっと笑って大きく頷いた。彼の身体はペンキでベトベトだ。
 
「これがお前とおれの戦いの約束だ!」
「ブオっ!」
「おれたちがまたここへ帰ってくるまで、頭ぶつけてそのマークを消したりするんじゃねェぞ!」
「ブオオッ!」
「よお〜し!」
 
ラブーンの意思が伝わる。ルフィはそれを聞き取って、ラブーンを撫でるようにペチペチと冷たい皮膚を小さく叩いた。
 
 
「アリエラ、ありがとう!」
「どういたしまして」
 
メリー号に戻ってきたルフィがすっと芸術家に道具を差し出すが、バケツもあちこちペンキが飛び散っていて、アリエラは「まあ」と眉根を寄せた。このまま受け取ったら大事なお洋服についてしまいそうだわ。とりあえず、甲板に置いてもらうように頼んだ。
 
「ルフィくん、お洋服も脱いで」
「なんでだ?」
「もう、そんなペンキだらけのお洋服をずっと着ているわけにはいかないでしょう? お洗濯してあげるわ」
「あ、そっか。悪ィな」
 
アリエラにベストを投げると、ルフィは男部屋に走って新しいベストに袖を通し、またご機嫌に甲板にやってきた。ウソップはマストの修繕に取り掛かるために、倉庫から大量の木板と工具道具を持って出てきたが、ふと違和感に気がついて船内を見渡す。
 
「そういや、あいつらは?」
「あいつら? ああ、あの変な二人組? 逃げたんじゃない?」
 
ラウンジ前で様子を眺めていたナミとサンジも顔を見合わせて、ああ。と込められたものを汲んだ。そういえば、いつからかMr.9とミス・ウェンズデーの姿が見当たらない。
けれど、仲間でもお客でもない悪者だったため、その姿を追うことも探すことも誰もしなかった。倉庫から洗濯桶を持って出てきたアリエラも、ナミの言い分にこっくりと頷いている。
 
「ラブーンちゃんを捕らえようとしていたんだもの。これで安心ね」
「そうね」
 
この海を泳いで逃げて行ったのか。そうだとすれば、相当な強者だ。なんせ、ここはもう平和だと謳われている東の海ではなく、過酷で雄大な偉大なる航路なのだから。
 
男部屋から戻ってきたルフィは、床ドア付近に落ちていた腕時計型のコンパスを拾い上げて「なんだこれ?」と呟く。初めてみるものだ。こてりと小首を傾げたが、そこまで興味も沸かなく、でも一応それをポケットにしまって陸へと登っていった。
 
 
「あ、私も行こうっと。クロッカスさんに聞きたいこともあるし……アリエラ、あんたも来る?」
「ええ、後からいくわ!」
「そう。ああ、ルフィの洗濯?」
「ペンキってなかなか落ちないのよ」
 
泡立てた桶の中でじゃぶじゃぶと赤いベストを洗っているアリエラに、ナミもそう。と返して女部屋から持ってきた海図と文具、コンパスを胸に抱いて「先に行ってるわね」と赤い陸へと上がっていった。ナミは航海士としての仕事があるのだ。
 
「お洗濯してるアリエラちゃんも美しいなあ〜」なんてとろけて見つめていたサンジだったが、体内時計が昼食の時間だと告げて、はっとした。そろそろ料理をしなくては。昼飯は何がいいかな、と冷蔵庫の中身を脳裏に巡らせているとローグタウンで手に入れたエレファントホンマグロの存在を思い出し、突入記念だ。と心を躍らせて巨大冷凍庫のある倉庫へと赴く。
 
「ったくよォ! あの野郎、船をバキバキにしやがって…ッ! おい、ゾロ! てめェ寝てねェで手伝えよ!」
「ぐーー」
 
えい、えいと怒りをぶつけるように木板を貼り付けて修繕をしていくウソップに、アリエラは服を絞りながらくすりと笑った。
 
「メリー号は、ウソップの彼女さんから頂いたものね」
「か…ッ、カヤは彼女じゃねェ! 」
「お顔が真っ赤よウソップ」
「う、」
「いいなあ、恋人。羨ましいなあ」
「だからそうじゃねェって〜!!」
「うふふふっ」
 
ぎゅっとベストを絞って立ち上がると、何度かその場ではたき水分をある程度飛ばしていく。
アリエラの透明にふっとまどろみから戻されたゾロは、じっと耳を傾けていた。空を見上げると、もくもくな雲が気持ちよさそうに泳いでいる。真っ白でふわふわで、掴めない雲はまるでアリエラのようだった。
 
「頑張ってね
 
軽やかに声を投げたアリエラは、微笑みながらベストを干しに船尾へと駆けていく。男の子でも背伸びをしないと届かない場所に洗濯ロープを結びつけるのは、厳しいだろう。と思案したゾロはそっと立ち上がった。
 
「あ、おいゾロ! こっち手伝ってくれ」
「アリエラが先だ」
「えええ、」
 
呼びかけると彼は一応こちらを振り向いてくれたが、すぐにあくびを欠いて階段を登っていってしまった。さっきは強く呼びかけても目覚めもしなかったのに、アリエラの音となると…。
アリエラが残していった熱は、次第にゾロへと矢印が向いた。カヤはおれのか、彼女なんかじゃねェし、そんなこ、恋って感情も抱いてねェ…はずだが、多分!
ゾロは…いちばんそういった類の話から遠いゾロは、アリエラに恋してるんだよなあ…地味にとんでもなくすげェことだよな。
階段を上がっていく大きな背中をじいっと見つめながらトンカチを振っていたら、思わず自分の指を打ち付けてしまって、ウソップは声にならない声をあげてしゃがみ込んだ。
 
 
 
「洗濯ロープのこと忘れていたわ」
 
干しにきたのはいいものの、肝心なロープを片付けてしまっていてハアとため息をこぼした。
付近にあった木箱を引っ張って足を乗せ、ロープをくくりつけようと手を伸ばすと、よく日に焼けた大きな手が自分の手に重なった。
 
「え…?」
 
ウソップかしら?と振り向いたが、意外な人物にあ、と小さく驚きをこぼした。
 
「ゾロ…」
「貸してみろ」
「う、うん」
 
最後に瞳を向けた時はぐうぐう夢の中だったのに。
アリエラはぽかんとしながら、木箱からとん、と甲板に降りてゾロを見上げる。自分よりもずっと背の高い彼はちょっと腕を伸ばしただけでゆうと届くみたいだ。あっという間に取り付けられたロープにアリエラは「わあ、」と歓喜をあげた。
 
「ありがとう、ゾロ」
「いや。このくらいでいいか?」
「ええ、とっても助かったわ。さすが男の子ね」
「……」
 
彼女がさらりと口にした「男の子」がどうしてか、ひどく胸のうちをくすぐった。
そこにそういう意識はないはずなのに、こうしていちいち反応してしまう自分に嫌気がさしてしまう。それと同時に、さっきの彼女の言葉が脳裏で流れた。
 『いいなあ、恋人。羨ましいなあ』
心から本気には取れない音程だったが、それでもそういう言葉をこぼすということは少なからず恋愛という単語は頭にはあるようで。だったら、こいつの男になる奴は一体誰なのか。こんなこと考えたことも、浮かんだこともなかったゾロは戸惑いと苛立ちにグッと拳を握りしめた。
 
「でも、ゾロ寝てたじゃない? 足音うるさかったかしら?」
「そうだな。おめェの靴はよく響く」
「あ、そうよね。ごめんなさい…」
「だが……それだけじゃねェよ」
「え?」
「……アリエラだからだ」
「あ……」
 
聞き返した瞬間に、はっとしたアリエラはやはり予想した言葉にどきりと胸が飛び跳ねた。
一度、踊るようにうねた心臓は、それを合図にばくばくと激しく高鳴っていく。ポンプのように強く押し出されて、全身がかっと熱くなるのを感じる。
どうしてゾロにこう言われれるだけで、胸が痛くなるのかしら。わたしに好意を抱いてくださっているから? いいえ、そのような殿方はこれまでごまんといたでしょう? それも、いちいちわたしへの告白に耳を傾けていたら、寝る間もないほどくらいには。
 
エトワールだったアリエラにとって、それはもう“慣れていること”だったのに。どうして、やっぱり──
 
「おい、アリエラ?」
「え、あ、はい…!」
「お前、いつまで抱きしめてんだ。服濡れてんぞ」
「え、きゃあ! 」
 
水気を飛ばしはしたが、当然まだびしょ濡れだったルフィの服はアリエラのワンピースの色を濃くしてしまった。ひたりと生地が肌に触れて、気持ち悪い感触が這っているのに、ゾロの声にようやく気がついた。もう、もう……
 
「ゾロくんのせいだわ」
「ああ? 何でおれの……ああ、悪ィ」
 
むっとしたが、アリエラの言いたい事柄はすぐに形となって脳髄に送られた。
こいつはそういう意味でなく、変にこうして意識をするもんだから、ゾロはやれやれと頭を掻いてアリエラに視線を落とした。
 
「もう言わねェよ。悪かったな」
「え、あ、ゾロ……」
「ん?」
「……なんでもないわ。ロープ、ありがとう」
「おう」
 
ガシガシ頭を掻いて、くるりと背を向けてメイン甲板に戻っていくゾロの後ろ姿を思わず呼び止めてしまった。だって、もう言わないだなんて。そんな悲しいことを言われたのだから。どうしてそれが悲しいことなのか。アリエラはもうわかっている。だけど、どうしてもまだ──。
ゾロも最初はこんな気持ちだったのかしら? こうして、たくさん悩んで、行き着いた答えがそれを認めるということだったのかしら?
ああ、あのお方は本当に強い方だわ。一方、わたしはどうかしら。本当に……めんどくさい女で嫌になっちゃう。
 
「はあ……ナミに…聞いてもらおうかしら」
 
いよいよ、頭がいっぱいになってきた。一人で考えるには、あまりにも大きな事柄だ。
今まで生きてきた17年間。こんな気持ちになったことはたったの一度もない。これが本当にそういう気持ちに当てはまるものなのかも、まだ定かではないのに。
でも、確かにあの時。死や痛みへの恐怖より野望を選び、両腕を横に伸ばして、強い瞳を向けて真っ正面から全てを受け入れたあの時。彼に対する感情のなにかが僅かに変わった感覚は覚えている。
 
「……あ、お着替えしなくちゃ」
 
またぎゅっと胸に抱いていたから、さらに水染みが広がってしまっていた。
思考を解いて、アリエラはメイン甲板に駆け降りていく。ちらりと視界に映ったゾロは、さっきと同じ場所で眠りについていて、ああ…ゾロは本当にわたしのお手伝いをするために起きたのね。と思って、胸がくすぐったくなった。
 
 
 

TO BE CONTINUED



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