82、聖地と王


「あ、やっときた。アリエラ」
「え、ごめんなさい。待たせちゃってた?」
 
金色の髪を風に靡かせて走ってきたアリエラに、ナミは海図から顔をあげて腰を下ろしているテーブルに招いた。これは灯台守をしているクロッカスの家具なのだろう。使い込まれていて、あちこちに傷ができている。
 
「ううん。これからの航海計画を立てようと思って…いろいろ航海記録に書いてくれたらありがたいな〜って」
「ええ、やるわ。ノート取ってこなくちゃ」
「私が持ってきておいたわよ」
「わ、準備がいいのね」
「一応ね」
 
丸太をニスでコーティングしただけの自然な椅子に腰を下ろして、アリエラも海図を覗き込む。
ナミが真剣に見ていたのは、これから船を浮かべて舵を切っていく偉大なる航路のもの。バギーから盗んだそれは、随分と古紙でアンティークな雰囲気を醸し出している。
 
「何か掴めた?」
「ぜ〜んぜん。想像は膨らんでも、その想像だけで渡っていける容易い海じゃないもの。だから、ここは念入りに距離と方角を隈なく測って進まないとね」
「そうね。未知なる海ですもの…何かあってからじゃ遅いものね」
「そうそう。うちには無茶する船長がいるし」
「ふふふ、確かに」
 
ついさっきだって、それで危うく三途の川を渡りかけたばかりである。
飲み込まれた中にワンマンリゾートがあり、クロッカスがいたからこうして無事に済んだが、あれがもしラブーンじゃなかったら今頃消化されてしまっているに決まってる。こうして生きているのは奇跡なのだと実感して、ナミとアリエラは困ったように柳眉を下げてため息をこぼした。
 
「もうこうならないためにも、しっかりと綿密に予定を組むわよ!」
「ええ!」
 
あの船長だから無駄なような気もするけれど。そこのところは気づかないふりをして、ナミとアリエラは早速作業に取り掛かった。
ペンを持ち、ノートを広げたところでアリエラは先程のもんやりとした想いを思い出す。執拗に胸がドキドキして、ゾロの一言に一喜一憂するのは、なぜかしら──?
誰かに話すことで、これが疑惑ではなくなるかもしれないわ。幸い、今はサンジくんはお料理だし、ウソップは修理、ルフィくんはラブーンちゃんと戯れているし、肝心なゾロは眠っているから思うままにナミと二人きりだ。胸を高鳴らせてそっと顔を持ち上げると、ナミの美しい横顔が視界に飛び込んでくる。
 
こんなことを口にしたら、この綺麗なお顔は大変驚愕に歪んでしまうかしら?
 
なんて思案しながら、固く結んでいた口元をといた。
 
「あ、あのね…ナミ、」
 
のだが、その瞬間──
 
「あああああーーッ!!」
「ひゃあッ!!」
 
ナミがけたたましい高い悲鳴をあげたのだ。
まだ、何にも打ち明けてもいないのに。それにしても、この驚き方は異常だ。アリエラはばっくばく高鳴る胸を押さえながら、勢いよく立ち上がったナミを見上げる。
彼女の美しい顔には、たっぷりとした汗が流れていて、小さな口もあんぐりと大きく開かれ、綺麗なオレンジ色の虹彩もかすかに震えている。
 
「な、ナミ…? どうしたの?」
「なんだお前、うるせェぞ」
「ああああ…ッ、」
 
ラブーンと遊んでいたルフィも驚いたのか、眉根に皺を作ってナミをじとっと見つめている。
 
「何事っすか!? お食事の用意ならできてますよ!」
「メシか〜!」
「おお〜! メシ〜〜!!」
 
その悲鳴にばたばたと駆けつけるのは、両手に大量のエレファント・ホンマグロの料理を抱えているサンジと、修理を終わらせたウソップだ。大好きな単語に、ルフィも目を輝かせて二人の元に走ってきた。
 
「ナミ?」
「こ……コンパスが、壊れちゃったあ!!」
「ええッ!?」
 
わなわなと声を震わせるナミが見つめているのは、海図の横に置いてある手のひらサイズの羅針儀。平な場所に置いたら、必ず磁針は確かな方を向いて方角を示してくれるというのに、どれだけ待ってもぐるぐる回転をし続けるのだ。
 
この羅針儀がなければ、航海は不可能と言っても過言ではないほどに、海を渡る者には大切なもの。それが、この町もお店もない偉大なる航路の入り口で壊れてしまったなんて…。この先に存在しているのは絶望だ。
アリエラとサンジとウソップもひょいと顔を覗かせてみると、やはりそれは回転を止める様子は伺えない。
 
「まあ、大変!」
「ああ、本当だ」
「ぐ〜るぐる回ってんじゃん」
「へえ、おもしれェじゃん」
 
この小さな道具の大きな存在を知っているから、三人は驚きに汗を浮かべているが、ルフィだけは珍しい現象にけらりと笑っている。
そんな海賊の様子に、新聞を読んでいたクロッカスは目を丸めて立ち上がった。
 
「…お前たちは何も知らずにここへ来たらしいな……呆れたもんだ。命を捨てに来たのか?」
「え?」
 
ナミの呆然を解いたのは、クロッカスの優しい声。はっと顔をあげてみると、彼は訝しんでこちらと羅針儀を交互見ている。その後ろでは、サンジがテーブルに料理をことりと置く音がなった。
 
「おお! メシだ!」
「餌だ、てめェは」
「うわあ、ローグタウンでいただいたっていうマグロ? 美味しそ〜!」
「エレファント・ホンマグロって言うんだ。たっくさん食べてねえ、アリエラちゅわん!」
 
でへでへ、とサンジのとろけた笑い声が辺りを包み込む。
お気楽でいて、無知な海賊にクロッカスはハア…と長大息を赤い地にこぼした。

「言ったハズだ。この海では一切の常識が通用しない。そのコンパスが壊れているわけではないのだ」
「あ、じゃあまさか磁場が?」
「そう。グランドラインにある島々が磁気を持った鉱物を多く含むために、航路全域に異常をきたしている。さらに、海流や風向きには恒常性がない。お前も航海士ならば、その怖さがわかるはずだ」
「確かに…。方角を知る術がないのは絶望的だわ」
「うんめェ、この魚!」
 
ゴクリと息を飲み、感心した面持ちで回り続ける羅針儀を眺めるナミとは正反対に、ルフィは必死にがぶがぶとエレファント・ホンマグロの頭にかぶりついている。
 
「そんな海域だから…偉大なる航路だなんて呼ばれているのね」
「うん、知らなかった……あはは、ドンマイ!」
「ナミかっわいい〜
「おーい! そりゃマズいだろ!? 大丈夫かよ!?」
「ああ、不味くねェぞ! うめェぞ、こりゃあ!」
「ちょっとあんた達! お願いだから黙っててよ!!」
「うめェよ、エレファント・ホンマグロ!」
 
その名の通り、このマグロは長い鼻が特徴的だ。ルフィはかじりつきながら「この鼻がまたうめェんだ!」と興奮している。
その声に釣られて、アリエラも「私もいただこうっと」と席についた。
 
「グランドラインを航海するには“ログポース”が必要だ」
「“ログポース”? 聞いたことないわ」
「磁気を記録できる特殊なコンパスだ」
「変なコンパスか?」
「ああ。型は少々異質だな」
「こんなのか?」

咀嚼を続けながら、ルフィはポケットに潜めていた例の腕時計型の羅針儀をクロッカスに手渡した。手中に収めた彼は、ああ。と頷く。
 
「これだ。このログポースがなければ、グランドラインの航海は不可能だ」
「へえ」
「なるほど……でも、ちょっと待って。ルフィ」
「ん?」
「なんであんたがそれ持ってんのよ!!」
「ぐほッ!」
「な、ナミ…」
 
さっと立ち上がったナミは、勢いを拳に込めてルフィのパンパンに膨れている頬袋を殴りつけたのだった。彼女の愛の鉄拳により、ルフィは椅子から転げ落ちてしまった。
 
「これはさっきの二人組が船に落としていったんだよ」
「あいつらが?」
「なんでおれを殴るんだ」
「ノリよ」
「ノリか!」
 
それなら納得だ。と手を打ったルフィは、何事もなかったように席について引き続き料理に手をつけていく。
アリエラもふにゃあ〜ととろけた笑みで食べ進めているから、サンジも彼女の可愛らしさに夢中でハートを飛ばしている。こんなに凝視されて食べ辛くないのか、とウソップは疑問に思ったが、彼女は慣れているのか全く気にする素振りを見せないでお寿司をパクパク食べていた。
 
「これがログポースか…何の字番もない」
「グランドラインに点々とする島々は、ある法則に従って磁気を帯びていることがわかっている」
「磁気……」
 
クロッカスから受け取った“記録指針”を腕にはめて、ナミはじっくりとそれを眺める。
時計のように手首にはめる羅針儀は、クロッカスの言う通りに異質な形をしている。球体の水色硝子の中に磁針が吊るされて存在しているのだ。ちょっと手首を動かしたら、振り子のように揺れてしまう。島と島に磁気を持たない東の海では使い物にならない羅針儀である。
 
「つまり、島と島が引き合う磁気をログポースに記憶させて、次の島への進路にするのだ。まともにその位置すら掴めないこの海では、ログポースの示す磁気の記録のみが頼りになる。はじめはこの山“リヴァース・マウンテン”より出る七本の磁気より一本選べるが、例えどの島からスタートしようとも、やがて引き合い一本の航路に結びつくのだ。そして、最後に辿り着く島の名は──“ラフテル”」
「ラフテル……」
「ん、それって…」
 
凝固したナミの声がほこっとこぼれた。それは、この世のゴールである場所だ。
アリエラもこくりと食べ物を飲み込んで、クロッカスに顔をあげる。
 
「ああ。グランドラインの最終地点。歴史上その島を確認したのは海賊王だけ、伝説の島なのだ」
「んじゃあ、そこにあんのかワンピースは!」
「さあな。その説が最も有力だが、誰もそこに辿り着けずにいる」
「22年も経っているのに…どうしてみんなそこまで辿り着けないのかしら? 何かに阻まれているの? それとも──」
 
丁寧にフォークを置いて、う〜ん。と顎に人差し指を添えて思案しているアリエラの透明に惹かれてクロッカスはふと双眸を向けた。
記録指針が最終進路を示すのは、ラフテルの前に存在している“水先星島”である。もうこれ以上、記録指針は先の島を記録しないために、そこが事実上最終地点となるのだが──。かつての海の王は幾多と重なった奇跡により、当時は存在すらも世界に隠され地図にもなかった島に辿り着けたのだった。
その未踏の島を“Laugh Tale”と名付けたのも、海賊王ゴールド・ロジャーだ。
 
「クロッカスさん?」
 
脳裏に映し出されるのは、過ぎ去りし日の。世界を知った日の記憶。
ロジャーが…船長がこぼした、忘れられない一言。
 『おれ達は、早過ぎたんだ……』
まぶたの奥がカッと熱くなる。きょとりと目を丸めているこの金髪碧眼の美しき娘は、ロジャーが…我々が待ち望んでいた王の一人だ。その純粋な青いまなこは、己が生まれ持った運命を何も知らないでいる。そして、よくよく見覚えのある麦わら帽子を被った少年も──。
 
「おいおい、あんた。いくらアリエラ様が絶世の美女様だからって見過ぎだぜ」
「なんだ花のおっさん、アリエラに見惚れてたのか?」
 
嗜めるようなサンジと、茶化すようなルフィの言葉にアリエラははて、と彼の双眸を覗き込んでみたが、とてもそういう感情で凝視したとは思えない色を放っていた。もしかして、お会いしたことがあるのかしら?と女学院生の頃を思い出してみるが、彼は特徴的な花髪を持っている。もし、本当に当時会っていたとしたら必ず覚えているはずだ。
だとすれば、残るは一つ。強いショックがあったらしく、当時の記憶を全て失っている四歳までの記憶の海に存在している人物なのか。
 
「…何か、私についてご存知なのです?」
「…いや」
「…私、幼少期の記憶がないんです。お会いしたことがあるのかしら…ごめんなさい、思い出せなくて」
「記憶を……そうか」
 
ローゼリア王国が滅亡したことはあまりにも衝撃的で、今もその極秘で回ってきた記事を鮮明に思い出せるほどだ。空白に返されたあの事件はとても惨いものだった。本当に、こうして生きているのが奇跡だと思うくらいに。
 
「ええ。私のことを知っていらっしゃるの?」
「いや、知らんな」
「でも、あんなに見つめていらっしゃったわ」
「ああ。類例に乏しい娘だったからついな」
 
やっぱりそうか!と声をあげるサンジと、けらけら笑うルフィだったが、アリエラにはどうもそれが取り繕った嘘に聞こえた。これまでに数えきれないほどにそういった目を向けられてきたからわかるのだ。何か、言えないことでもあるのかしら──。
私は、どこで生まれてどこで育ったのかしら…。分かるのは、写真の中の両親のお顔だけ。この広い広い海を冒険してみたら、自身の出生が分かるのでは?と希望を持っているのだが、判明するにはまだまだ時間がかかりそうだ。
 
「で、どうだ? まだラフテルやその島々についての話を聞きたいか?」
「え、おっさん。なんか知ってんのか? ラフテルやワンピースについて!」
「ここは航海者の集う岬だから“ある程度”はな」
 
食いついてきたのは、ルフィではなくウソップだ。額に汗を浮かべて食い入るようにクロッカスを見つめている。何にもわからない。本当に“ひとつなぎの大秘宝”が存在しているという証明は世に何にも出回っていない。そのため、こうしてしっかりとした情報が欲しい気持ちもよくわかる。
じっくりと記録指針を観察していたナミも同じく、綺麗なオレンジの虹彩を強めてこちらに耳を傾けている。だが、肝心な船長はクロッカスの話には一切の興味を示していなかった。
 
エレファント・ホンマグロの骨をしゃぶりながら、ウソップの訊ねを遮るように立ち上がった。
 
「聞きたくねェ」
「ルフィ?」
「そんなもん、言ってみりゃわかる!」
「……!」
 
パキン、と骨を噛み折ったルフィの大きな双眸は強く、光に満ちていた。
答えは全て、自分自身の冒険で導く。そう語る姿は、海賊王にそっくりだった。クロッカスははっと息を飲んで陽光に包まれている彼を見つめる。
意志を継ぐもの”そんな言葉の羅列が、ぱちりと脳内で弾けた。小柄なこの少年が、とてつもなく大きな存在に見えたのだった。
 
 
 

TO BE CONTINUED



1/1
PREV | NEXT

BACK