6.休息

 二度の遠征を終え、千空、クロム、銀狼の三人は"硫酸"という名の緑に色づく液体を持ち帰ってきた。劇毒である硫酸は文字通り命を賭して手に入れた偉業であり、不安と安堵で卒倒しそうになったミカゲは銀狼の希望を叶え、彼を思いきり抱きしめることで何とか耐えた(もちろんその後銀狼はコハクの制裁を受けたが、相当加減された)。
 材料と器材が少しずつ揃い、それらを組み合わせて細かな調合を重ね、次々と薬品を完成させていく。その方法を知るのは千空だけであり、これまで以上に彼の負担が増えたとミカゲは感じていた。そもそも、彼らは硫酸採取で神経をすり減らした状態のはずだ。長年厳しい自然に触れ続けたクロムや何事も後に引きずらない銀狼と比べ、千空の回復が遅いだろうことは予測出来た。
 そして彼女の見立て通り、千空の眉間は皺が刻まれる回数が増えた。他の者が気づいたかは分からない。しかし、彼女の勘は確かに告げる。彼は疲れが溜まっていて、本人もそのことを自覚したくないのだと。
 彼女がためらった時間は短く、彼が一人でラボに居る機会を逃さず、入り口で声をかけた。

「千空、入るわよ?」
「あ゙ぁ…どうした?」
「様子を見に来ただけ。少し調子がよくなさそうに見えたから」
「……別に悪くねえよ」
「いいえ、今の間が何よりの証拠ね…。少し休んだらどう?疲れたままだと効率も落ちてしまうでしょう」
「……」

 分が悪いと黙り込んだ千空を尻目に、ミカゲはラボの隅を軽く掃き、持っていたござを広げる。屈んだまま机に向かう彼を見上げれば、ふいと視線を逸らされた。

「時間が惜しい。休みに充てる暇なんぞねえよ」
「千空、あなた"急がば回れ"って言葉、知らないの?」
「ククク、生憎こちとら"電光石火"が十八番でなあ」
「オハコ…?ごめんなさい、聞いたことないわ」
「あ?これは伝わってねえのか?まあ…得意技ってとこか」
「へえ…知らないのは私の方ね。あなたたちの言葉はどれぐらい失われてしまったのかしら…」
「いや俺に言わせりゃ何でんな残ってんのかって話だがな。今んとこ新しい単語もねえし」
「そうなの?」
「テメーら村の連中と言葉が通じなきゃ完全に詰んでた。ルリが語る"お話"とやら様々だな」
「百物語っていうのよ。…案外、あなたのために伝わってきたのかもね」
「ん?」
「いいえ、何でも」

 会話の間に立ち上がり、机まで近づいたミカゲが微笑む。少しの間、静かに対面の彼を見つめて。

「今日はずいぶんおしゃべりに付き合ってくれるのね」
「!」

 ラボに踏み入った時から、いつも放たれていた取り込み中の気配を感じなかったから。
 それだけ彼の集中力が落ちているということ。

「……予想より進捗が遅れてんだ。今が気張りどころなんだよ」
「ええ、分かるわ。…千空、もう少しだけ付き合ってくれる?」

 沈黙の肯定を受け止め、彼女は明後日を向く赤い瞳を見つめたまま、ゆっくりと数回まばたきを繰り返した。

「どうか焦らないで。私たちは十年耐えてきた。それに、今のあなたは一人じゃないわ。あなたがいないと駄目なのは確かだけど…だからって数日程度で駄目になんかさせないから」

 ガラス瓶が並んだ棚に置いていた湯飲みを取り上げ、差し出す。

「私たちもあなたと一緒に頑張らせてほしいの」
「……」

 彼が腰に手を当ててうつむく。長いため息、降参の意。
 湯飲みを奪い、一気に中身を流し入れ、がつんと机に叩きつけた。

「何かあったらすぐ呼べ」
「任せて」

 ミカゲの横を通り抜け、片膝を立ててござの上に座り込む。その姿を横目で見届け、彼女は振り返ることなく出口へ。柱に括りつけていた幕の留め紐を外し、左右同時に下ろした。
 それから人を集め、千空が集中して一気に仕上げたいことがあるそうなので邪魔をしないように、と言い聞かせた。手が空きそうな者には彼の行動を思い出し、次の仕事を提案した。幸いクロムがガラスの原料、珪砂の在庫が尽きそうだと言い出したので、金狼、銀狼兄弟を除いた全員にいくつかの素材採集を依頼して送り出した。

「あなたたちはゆっくりしてちょうだい」
「やったあぁ〜!」
「銀狼!ミカゲは門番の務めに専念しろと言っているのだ、気を抜くな」
「うえぇ…」
「ふふ、でも鍛錬はお休み出来るわね。金狼、私は一度千空の様子を見てから離れるわ。その時話しかけられないから、もし私のいない間に出てきたら状況を説明してあげて」
「承知した」

 これで日暮れまで誰もラボに近づくことはないだろう。
 幕の間を滑るようにして、ミカゲが再びそこへ入った。足音をひそめ、隅でうずくまる千空を覗く。反応はなかった。

「…千空?……横になりましょうか」

 一声断り触れる。受ける重みから、彼が完全に寝入っていることを確信する。注意深く横たわらせ、ひと休憩。流れる長い前髪二本を鼻筋にかからないようどけてやった。

(薬湯を苦いと感じていなかったようだし…私の思う以上に疲れていたのね。もっと早く声をかけてあげればよかった…)

 力みが取り払われた寝顔。クロムやコハクと同じ年頃である顔つきになったと笑みが漏れる。

「おやすみなさい…」

 腰を上げ、方向転換するまで数歩後ずさり。見納めるように、惜しむように。微笑んだまま、彼女は最後まで優しい眼差しを彼に送っていた。

*

 意識が浮かんだと自覚すると同時に、千空がばちりと両目を開く。
 ござの節、黒土。それらを確認するには狭い視界。闇、照明、誰かの下半身。

「……っ!」

 素早く身を起こす。驚いて丸くなった目をこちらに向けるミカゲの存在があった。

「お、おはよう千空」
「……あ゙…?」
「ああ、今は夜よ。よく眠っていたから…起こさないでいたの」

 乱れそうになった呼吸を押さえつけ、改めて現状確認。ミカゲが彼と同じく地面に腰を下ろし、竹のざるをいじっていた。ラボ入口の幕は半分程開けられており、月明かりが多少差し込んでいる。それとは別に、机の上に設置された松の火の光が足元までいくらか届いていた。

「…ずっといたのか?」
「ご飯を食べて、解散してからね。他に誰も立ち入らせてないから安心して」

 冴え渡る思考。十分過ぎる休息を取ったことを知る。千空の表情がやや苦くなったが、すぐ諦めて切り替えた。

「調子はどう?」
「おかげさまで死ぬ程お元気一杯だわ」
「そう、よかった」

 二人が続けて立ち上がった。

「お腹空いたでしょう?温めましょうか」
「そのまま食う。もったいねえだろ、燃料」
「あら、そう…?」

 なおも世話を焼こうとするミカゲを制し、千空は言う。

「あ゙ー、テメーでやれるっつの。こちとら半日寝こけてたんだ、ちったぁ働かせろ」
「…分かったわ。皆洗ったらそこに干してくれればいいからね。それじゃあ千空、おやすみなさい…あなたも早めに休むのよ?」

 片手を上げて応えた。吊り橋まで見送ろうとしたが、この時間帯の門番は金狼たちではない。共に動けば面倒ごとに繋がるだろう。せめてと彼女が橋を渡りきるまで見守り、互いに目配せを確認してから背を向けた。
 焼いた魚に、丸ごと火を通した後切り分けた芋。鍋には何種類かの草ときのこが刻んで入れられた汁物。拉麺作りを通じて出汁と調味料の概念を理解し、千空の鑑定で扱える食材を日々増やすミカゲの進化は目覚ましいものだった。彼女が村の中に留まり会得した料理の腕を振舞えば、残りの村人を軋轢なく取り込めるのではないか。そう考えてしまいそうな程に。
 鍋そのものを傾け中身を腹に収め、口の端からこぼれた汁を手の甲で拭い、大きく伸びた。いつかコハクが運んだものよりさらに二回りは大きなかめ。そこから水を汲み、食器を洗って指定された場所へ並べた。かめの残容量を推し量り、思考。

(井戸…用水路……ククク、それこそ村総出でかかっても足りねえわバカが)

 本来なら生命維持活動だけで一日の半分を使いかねない環境にも関わらず、彼は科学クラフト作業に専念出来ている。それは複数人で共同生活を営むからであり、ミカゲがもたらす恩恵を全く遠慮せず享受しているからだ。
 頭を下げて拝む程卑屈ではない。かといって、存在を無視してふんぞり返る程恩知らずでもない。もちろんそれは他の仲間たちに対しても抱く思いだが、彼女には今日の一件で明確な借りが出来てしまった。
 ラボに立ち寄り、広げたままの器具を軽く片付けてから倉庫へ向かう。クロムと共用で寝床として使うそこ。当然同居人の彼が大の字で転がっており、千空の場所まで侵食していた。さてどうしたものかと見下ろすうちに、彼は何やら寝言を呟き出す。

「……んが……ルリぃ…待ってろよ……サルファ、ざい……」

 唇の端に力が入る。千空は一人くつくつと小さく笑ってから、上がったばかりのはしごに再び足をかけた。

(そうだ、今は薬に集中しろ)

 その先も、仲間たちと歩む道は続くのだから。

「ククク……さーて、たっぷり昼寝したんだ。たまにゃ言いつけを破って"悪い子"になってやろうじゃねえか」

 月明かりの下で用紙代わりの皮を広げ、どかりと正面に座り込む。一切邪魔が入らない静寂の時間。彼はそれを贅沢に使い、心ゆくまで己の思考と議論を重ね、朝日が昇る前に少しの睡眠を取り、賑やかな輪の中へ戻っていった。



  

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