26.NOT LONELY

「…はあぁ…」

 立てた両膝を抱き顔を突っ込み、ミカゲが盛大なため息をついた。もはや呼吸と交互に出ていると言えるかもしれない。
 原因は昨日の失言だった。思い出したくもないはずなのに、会話は全て覚えていた。

−…それで?出発はいつになるの?−
−天候の条件が整い次第…龍水の読みでは三日程度だと−
−そう…寂しくなるわね…−
−そうか?今だって一日一時間も会ってねえだろ。大して変わんねえよ−
−同じ場所にいないのよ?全然違うわ−
−大げさすぎんだろ、今生の別れでもねえのによ−
−それは…そうだけど…でも、まだ慣れないの…−
−んじゃとっとと慣れやがれ。船が完成したら会う術もなくなんだ。丁度いい練習じゃねえか−
−い、今からそんなこと言わないで!もう…本当に興味ないのね、人の心なんてものには−
−…!−
(あっ…)
−……−
−その、ご−
−ねえな、んなもん…1mmも−
−ま、待って千空…!−
−最近長居しちまってっからな。とっとと戻るわ−
−………あぁ、私…なんてことを…−
「…本当に…」

 頭の中で再現された台詞の続きを呟き、ミカゲは膝を抱く力を強くした。

(来てくれなかったらどうしよう…。いいえ、そもそも、あの後すぐに謝りに行くべきだったのに…私…!)

 がさり。

「!…お、お疲れ様…」
「おー」

 二人の場所へ、彼は今日も現れた。しかし瞳はどこでもない方向を眺めている。その分かりやすい違いに彼女の胸が重い音を立てて軋んだ。
 彼が隣に腰を下ろす様をずっと目で追っていたが、全て無視されてしまった。諦め、同じように草木で出来た枠とそこを下っていく夕日を視界に入れた。この限られたひと時だけは会話を控え、沈黙に浸る。いつしか二人の間で成立した取り決めだが、これ程痛々しい空気で満たされることは一度もなかった。
 網膜にこびりついてしまった茜色にどこか意識を眩まされながら、ミカゲは意を決して切り出した。

「あの……昨日のこと、ごめんなさい。冗談でも言っちゃいけなかったのに、私…ひどかったわ」
「あ?別に1mmも気にしちゃいねえよ」

 千空が小指を耳穴に突っ込み一息で言い切った。しかし。

(…嘘ついてる…)

 また新たな泥が心の水面へ投げ入れられ、澱となって沈んでいく。
 次の言葉を探そうとミカゲが自身の内へ潜るよりも早く。場に響いたのはひどく能天気な大声だった。

「わっかれんなら今のうちだぞー。どうせこの先も無神経な発言しかしねえんだ、俺はよ」
「!!」

 彼女の纏う空気が一瞬で豹変する。それは、脳が命令を下す前に肉体が動いた激昂。

「ばか!!なんてこと言うの!!」
「!?」
「こんなことで嫌いになんてならないし、無神経なのはお互い様じゃない!ばか!」
「っ…」
「私のことがいやになったならはっきりそう言いなさいよ!どうなの!?」
「なる訳ねえだろバカ!」
「じゃあ謝って!」
「………悪かったよ」

 再び彼女が大きく表情を変えた。覇気がさっと消え失せ、酸素が足りないと大きく息を吸い込んで、しかし急激な変化に体がついていけなかったのか、ふらりと前方へ傾いた。千空が慌てて両肩を支えてやり、ほうと一息ついた。

「大丈夫かオイ…?」
「……私も…本当にごめんなさい…」
「怒ってねえよ…。100億%誤りじゃねえのは俺が一番分ーってる」
「……」
「100億%正解じゃねえのは…少なくともテメーについては例外で間違いねえからだ」
「…ん…」

 千空の両腕がゆっくりと肩口を伝っていく。力なく笑う彼女に見守られ、その小さな両手を柔らかく握る。そのままどちらからともなく指を絡め合った。より深く触れようと根元が擦れ、ミカゲが微かに震えてから恥じ、深くうつむく。ほんの少し前とはまるで違う、心地良い沈黙だった。

(…この人はきっと、私のために誤魔化したり我慢したんだわ。でも、私はその様を見てつらかった。……あぁ…私…今のことがなかったら、きっとこの先もこの人につらい思いをさせ続けてた。あんなに心配させたのに、それでもまだ、自分さえ耐えれば片付くと考えてた。私と千空は…そんな関係じゃなくなったのに!)

 ぎゅう、と縋るように握られて、多少驚いた千空が彼女を覗き込もうと動いた。まず始めに下側を食んだ唇が、次にまぶたから伸びる細いまつ毛が目に入った。

「…ミカゲ?」

 はっと彼女が眼差しを上げる。
 気遣い、そして一滴の虚しさ。己の無力を責める眉間の皺。

(あ、いや…こんな顔、させたくない…!)
「千空!」
「うおっ」
「ちゃんと…ちゃんと言うわ、全部!例えあなたが煩わしく思ってしまっても、それでも…伝えなくちゃ始まらないから…!」
「…あ゙ぁ、聞かせろ、ミカゲ」

 全身に響く鼓動に意識をさらわれないよう、彼女は何度も深呼吸を繰り返した。

「…あなたと離れ離れになるのは……寂しいし、怖い。その理由は…きっと、私が"また会える"をほとんど経験してないからだと思う。それに……私の家族は…帰ってきてくれなかった…」
「…!!」
「経験をもっと積めば変わっていけるはず。でも、積む前の今は…代わりに言葉が欲しいの、ご隠居やコハクと同じように、あなたからも…。お願い、千空、だい…」
「待った。言わせろ、ちゃんと、俺から…俺の言葉で」

 彼女が力を緩め、うなずいた。

「人の命なんざ1mmも思い通りにならねえ。そこは、俺には誤魔化せねえ。俺が宣言出来んのはこんだけだ…生き延びるために全部を尽くして何も諦めねえこと。その理由の一つにミカゲ、テメーがいる。テメーと会えなくなるのは嫌だし、泣かせたくねえ」

 先程より瞳を滲ませ、もう一度笑う。

「怖くなったら何でも理由つけて電話してこい。それでも駄目なら村へ帰りゃいい。そんぐらいの報酬もらったっていいだろ、テメーも、俺も」

 大きく首を縦に振って指を解き、ミカゲが千空の胸の中に飛び込んだ。

「ありがとう、千空…!」
「ああ。……まだ何か隠してねえだろうな。テメーのことで誤解を作りたくねえ。だから全部ブチまけるって今ここで誓いやがれ。俺はこの通り…テメーの事情は知ってたのに、そこから何も察せなかったクソ野郎だ。失望したってんならそれでもいい…んなことすら全部言われねえと理解出来ねえんだよ、俺は…」
「…いいえ」

 彼の両頬を彼女の手が包んだ。逸れていた眼差しを優しく咎め、彼が言葉や想いを受け取る姿勢に切り替えるまで静かに待つ。彼を何度も救い続けた、慈しみに溢れた温もりだった。

「失望なんてしてない。あなたはとても機敏で賢い人よ。だからこそ、他人の感情に引きずられてしまう自分を分かっていて、興味がないつもりでいたいのね」
「…蒸し返してんじゃねえよ」
「ごめんなさい…でもきっと、これからの私たちはもっと複雑になるでしょうから。だって、今まで自分すら踏み入ったことのない場所まで招くのよ。特別ってそういうことでしょう?」
「……」
「千空、あなたは私の特別。だから他の人と同じ扱いはもうやめる。"あなたのため"じゃない…"私のため"に動くことにするわ」
「!……ククク、上等だ、かかってきやがれ」
「ふふ、それじゃあ早速…」

 形を覚え込ませるように、ミカゲの指が顎に沿って大きく滑っていく。

「怪我をせず無事村に帰ること」
「…ん?」
「ご飯をしっかり食べて、夜更かししないこと。眠る時は暖かくすること。無茶はしないこと。一人で抱え込まないで、周りにきちんと話すこと」
「……」
「一日のうち、ほんの少しでいいから……私だけを考える時間を作ること」

 最後は勇気を絞り出すように、かすかに震えた声だった。
 両側から挟み込まれ、多少不格好になった千空が瞳を閉じ、くつくつと笑う。

「ククク…ミカゲ先生の出す宿題は超絶お易しいこって、お涙止まんなくなっちまうわ。テメーにお子ちゃま扱いされんのも慣れたもんだ」
「…そういうことはちゃんと達成してから言ってちょうだい」

 そう返し、彼女は彼の額に新たな温もりを灯していた。途切れる会話。ぱちくりと一度まばたきをしたきり固まった彼に、きゅんと甘く胸が鳴っていた。
 しかし。

「……しねえのかよ……こっちは」
「!!」

 唇をわずかに突き出し呟かれた一言に、彼女は崖下の海に飛び込むあの時と全く同じ内臓の揺れを味わい、息を止めた。遅れて鳥肌、そして全身の体温の上昇。突き落とされた先は、おそらく海ではなく底のない沼。

「っ…せ、千空…可愛い、それ…!」
「んだとォ!?テメっ…買ったぞその延長戦!」
「か、隠さないようにしただけよ!」
「そもそも思うんじゃねえ!男に可愛いは弩級の地雷だっつの!」

 頬に添えられた両手を引き剥がし、千空が報復としてミカゲのそこを二本の指でそれぞれつねった。痛みに跳ね、そしてそれ以外の理由で悩ましく下がった眉、紅潮、潤んだ瞳。
 しっぺ返しを食らったのは間違いなく彼で。庇護欲と嗜虐欲に同時に襲われ、彼もまた派手に崖から蹴落とされていた。

「…っ!」
「んっ……んぅ…!?」

 唇を奪われ、異物に侵入され。拙くも本能のまま絡もうと迫る熱に怯み、ミカゲは思わず身を捩ってしまう。一度繋がりが外れたが、その隙に後頭部と背中を固定され、燃え盛る瞳を向けられる。
 じとりと湿る接触点。小刻みな震えは彼女のものか、彼のものか。拳で叩きつける音にも似た脈動が本来の位置から、耳奥から、脳の内側から同時に響き、視界がぐらぐらとかき混ぜられる。
 そうして、意識外に荒くなった息遣いを聞かせながら、彼女は心を決め、ぎゅっとまぶたを下ろしてから、赤い舌をちろりと晒して意を示した。
 ばくんとさらに跳ねる鼓動。この醜いと呼んでしまえる"欲"を受け入れられ、それどころか彼女も同じだと伝えられて、彼の全身の毛が順に逆立っていく。
 愛おしさと、劣情。この順序でしか許されない衝動。知りたい、彼女の熱を。知ってほしい、この黒い業火を、それでも。

「んっ!ん……んんぅ…!」
「っは…!」
「…っ……ぁ、せん、く……!」
(ミカゲ……ミカゲ…!)
「んむ……ん…!」

 くぐもった声が何度も同時に上がる。鼓膜に聞いたことのない類の水音がまとわりつく。
 まともに息を吸うことは叶わず、意識が飛びそうにすらなってしまう。しかし全身を駆ける電流に無理矢理覚醒させられて、彼らは何かと紙一重で切実な幸福感に満たされた。
 先に音を上げたのは千空だった。

「ぶはっ!はぁっ…はぁ…!…こ、これでも…可愛いかよ…!?」
(んんんっ!)

 この期に及んでまだ追撃を加える彼の言葉に、彼女は再び頭まで沼に沈められてしまう。

「…何とか言えよ…」
「…む、り……ドキドキ、して…」
「!そ、そうか」
(ふああぁ…!)

 絞られ過ぎてひどく痛む心臓を嘆き、ミカゲがたまらずぽろりと一粒涙を零した。それを見た千空はまた一段階赤みを増し、ぶるぶる震えながら彼女の額に口づけを落とし、加減を忘れて強く抱きしめたのだった。



  

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