34.

 彼のいない平穏な日々はあっという間に過ぎゆき、ディーナはこのまま塞がらない心の穴と何とか付き合いながら老いていくのだろうと、どこか達観した思いで時に身を委ねていた。
 国境近くの村に根を下ろし、すでに十数年が経った。始めこそ村人と小さな衝突があったものの、受け入れられてからの年数の方がとうに長い。彼女は機織りを覚え、特産品の重要な作り手として村の運営に携わっていた。
 そんなディーナを激しく動揺させる異変が起こった。遠い果てへ旅立ったはずの月の片割れが再び姿を現したのだ。そればかりか、地上には魔物が溢れ、太陽の光は迫り来る月に遮られた。かつての戦役以上、自然の力がもたらす災厄に人々は怯え、身を寄せ合ってこの恐怖が晴れることを願った。
 ディーナもそのうちの一人だったが、彼女は同時に月に愛する人の存在を問い続けた。そこに彼は眠っているのか。どうすればそこへ行くことが出来るのか。月が星を壊すなら、それは彼女と彼が新たな地で再会することを意味するのか。
 やがて、青き星はバロン国君主セシル・ハーヴィと多くの仲間たちによって救われた。月は崩れ去り、人々は取り戻された平和を喜んだが、ディーナだけは期待を裏切られた思いを味わった。
 彼女の生に終止符は打たれず、彼が居たかもしれない月は滅んだ。"彼が生きている"という、彼女を支え続けてきた事実は平和と引き替えに無残に砕かれ、ひどく曖昧なものへと変わってしまった。ディーナは泣くことすら出来ず、無事を祝う人々から身を隠すように自宅に籠もった。

*

 とんとん。
 入り口の戸が叩かれたことにディーナが気づいた。熱が出たと適当に偽り、外に出なくなって数日。さすがに誰かが心配して来てくれたのだろうか。
 願わくば、もう少しそっとしておいてほしかった。自ら命を絶つつもりはないが、顔を上げるにはまだ時間がかかる。ディーナはそう考え、来訪者を無視することにした。
 静まり返った室内。居心地が悪い。良心の仕業か、体がざわざわと何かに急き立てられていた。彼女は小さくため息をついて入り口を眺めた。何の変哲もない木の扉。
 何故かディーナの視線はそこから外せなくなっていた。ノックをされてからそれなりに間が空いている。しかし、居る。誰かがまだそこに立って待っている。彼女の直感がそう告げた。
 出るしかない。いや、行かなければならない。そんな思いが込み上がり、彼女は緩慢な動きで立ち上がった。
 きい、と控えめに扉が開かれた。その隙間からディーナが顔を覗かせ、相手の足元を確認する。靴に被さる程に長い、漆黒の衣。それに覚えが無くて、彼女は不審な面持ちのまま首を動かした。
 そして、息を止めた。

「!!」

 よろりと後ずさり、彼女は両手で口元を覆う。かたかたと体中が震え、体温が一気に上がったのが分かった。
 一瞬たりとも忘れなかった。だが、この時が来てほしい、来るはずだと心の底から信じていただろうか。もうずっと永い間、諦めの海に独りきりで沈んでいた彼女を見つけ出し、手を取り、乱暴に引き上げた人物。それは。

「……セオ、ドール様…」

 自身の真名を呼ばれ、彼がばつ悪そうに眉を下げてから、しかし穏やかに微笑んだ。まるで、全て終わった、とでも言うように。
 彼の風貌は何一つ変わっていなかった。ゆるやかに波打つ白銀の髪も、愛しげにディーナを射抜く紫の双眸も、深く刻まれた眉間の皺も、ぎこちなくわずかに上がった唇の端も、全てあの夜のまま。幻を、夢の続きを見ているのかと、ディーナの頭の中は真っ白になった。

「あ…あぁ…」

 彼女の口から感嘆の音が零れる。同時にじわりと瞳が濡れた。一気に溢れた涙は彼女の手を伝って胸元へ落ちていく。
 目の前の彼がぼやける。いよいよ彼の姿が現実であると認められなくなってしまい、彼女は首を振り、視界を狭めて少しでも鮮明なものに戻そうとした。
 輪郭だけになった彼が両腕を広げた。ディーナの体はすぐさま反応し、その中へ飛び込んだ。
 逞しい胸と手の平に抱きとめられる。ディーナを人肌の温かさが包む。衣擦れの音、響く鼓動、彼の香り、吐息。何もかもがディーナに語りかけてくれる。
 彼は、帰ってきたのだと。

「セオドール様っ…!」
「……ディーナ…」
「っ、お…お帰り、なさいませっ、セオドール様…!」
「あぁ…ただいま…!」

 ほんのわずかも離れぬよう、二人は互いを強く抱き合った。

「会いたかった…!お前の元を離れてから、お前を想わぬ日はひとつたりとも無かった…!」
「私もです、セオドール様…!ずっと、ずっと、お待ちしておりました…!」
「許してくれディーナ…お前を捨てた罪を、どうかこの手で償わせてくれ…!」
「いいえ、いいえ、あなた様は帰ってきて下さいました…それのどこに罪があるのですか…!?」

 ディーナが彼の胸を押し、上を見やる。滴る涙を指で掬われ、その心地よさに思わず瞼を下ろしたが、すぐに訴える目つきとなる。

「お願いです、私に罪の意識なんて持たないで下さい。私を他の人たちと同じにしないで下さい…」
「!」
「私が欲しいのは、謝罪などではないのです…。どうか、あなた様の…お心を…」

 ディーナの頬を包んでいた彼の手がぴくりと揺れた。彼女の存在を確かめるように、ゆっくりとその肌を撫でていく。
 奪うことしか理解出来なかった。与えられる喜びもずっと忘れていた。
 与える尊さを味わう相手は、喜びを思い出させてくれた彼女がいい。

「あぁ、誓おう。私の全てをお前に捧げると…!」
「っ…」
「ディーナ、愛している。私と共に生きてほしい。私の伴侶と、なってくれぬか…?」
「はい、喜んで…!」

 ディーナが笑った。笑って腕を伸ばした。抱きしめる相手がいること、それが愛する人であること。限りなく奇跡で、或いは誰もが当たり前に受けられる温もりを、今二人はようやく手にすることが出来た。
 世界を憎み、世界に憎まれた男はひっそりと星を発った。けれど、独りではない。隣には彼を信じ抜いた女性が。生まれた絆の先には多くの仲間たちが。
 苦しみの後にはそれ以上の幸福を。誰かの声が、寄り添う二人に贈られた。



あとがき




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